第67話 空の担架
担架を持ち上げた途端、掌に痛みが走った。
思わず指が開く。
枝の端が地面へ落ちる前に、トワがつかんだ。
俺の手を裏返す。
擦れたところに、細い血がにじんでいた。
「……明日には持てる」
トワは俺の顔を見た。
言葉は分からないはずなのに、あまり信用していない顔だった。
俺も、今のは少し無理があると思った。
トワは担架を下ろした。
それから俺の袖を引き、火のほうを指した。
*
集落の中央へ入る手前で、若い男が座っていた。
濡れた籠を足元へ置き、片足を前に伸ばしている。
足首には草を当て、その上から紐が巻かれていた。
昼間、川のほうを見に行った男が隣にいた。
二人の脚には、同じような泥がついている。
見回りから戻る途中で、連れてきたのだろう。
槍の男は少し離れて立っていた。
若い男が顔を上げる。
俺ではなく、後ろの担架を見た。
すぐに立とうとした。
片足へ体重がかかった瞬間、身体が傾く。
隣の男が肩を支えた。
若い男は何か言った。
森を指す。
両腕を胸の前で丸める。
何も抱いていない腕だった。
それから、低い位置へ手を下げた。
子ども。
俺は森を見た。
もう木々の間は暗かった。
若い男は籠から木の椀を出した。
縁が一か所欠けている。
中は空だった。
男は椀を差し出し、また森を指した。
ウネが来た。
隣の男から話を聞き、地面へしゃがむ。
指で線を引いた。
川らしい曲がった線。
その横に短い線を二本。
若い男が片方を指し、手を屋根のように重ねた。
次に、自分の肩から獣皮を外す真似をする。
それを低いところへかける。
椀を置く仕草。
もう一度、両手で屋根。
全部は分からない。
ただ、子どもを何もない場所へ置いてきたわけではなさそうだった。
槍の男が、川の線を指した。
手を斜めにして、滑らせる。
若い男の足を見る。
それから、暗い森を見る。
若い男が強い声を出した。
槍の男も答える。
ウネが間へ手を出した。
空を指す。
東のほうを指す。
そして担架。
明るくなったら、運びに行く。
たぶん、そうだ。
若い男はしばらく動かなかった。
椀を握る指だけが、白くなっていた。
*
トワは、その椀をナギのところへ持っていった。
ナギは火のそばで横になっていた。
椀を見た途端、上半身を起こす。
足が動き、顔が歪んだ。
年老いた女がすぐに膝を押さえた。
ナギは短く何か言った。
トワが答える。
外のほうを指す。
ナギは俺を見た。
次に、担架を見る。
俺は首を振らなかった。
ただ、まだ運びに行っていないことを伝えるため、空を指した。
暗い。
それから、東。
ナギの目が伏せられた。
トワが地面へ二つの石を置いた。
昨日、ナギが道を教えた相手を示したときと同じだった。
一つを外へ動かす。
残った一つの横に、木の椀を置いた。
ナギが頷いた。
俺は二つの石を見た。
道を教えた二人。
外で見つかった男と、まだ戻っていない子ども。
ようやく、顔がつながった気がした。
ナギはトワの腕をつかんだ。
何か言う。
長くはなかった。
トワはその手を外さず、担架を指した。
次に東を指す。
ナギの指が、少しずつ緩んだ。
*
眠る前に、担架を直した。
ナギを運んだとき、樹皮の端が一か所裂けていた。
小さい身体なら、隙間へ沈んでしまうかもしれない。
俺は横木を一本、追加しようとした。
トワが枝を取る。
曲げる。
音を聞く。
別の一本へ替えた。
俺が選んだ枝は、端を折ると中が黒くなっていた。
「見た目じゃ分からないんだよな」
折れたところを見ていると、あの子どもが横から覗いた。
いつからいた。
俺の顔を見る。
枝を見る。
何か言った。
トワの口元が動いた。
「今のは、絶対よくないことを言っただろ」
子どもは新しい枝を持ってきた。
短い。
持ち上げやすい。
俺は受け取った。
どうやら、俺に任せる量はまだ一本ずつらしい。
結び目を締めようとして、掌が痛んだ。
指を止める。
横から手が伸びてきた。
槍の男だった。
俺が巻いた紐を引き、緩みを確かめる。
結び目を一つ直した。
それから持ち手へ別の縄を巻き始めた。
枝の表面が隠れていく。
俺は自分の掌を見た。
男は見ていなかった。
巻き終えると、持ち手を握った。
少し持ち上げる。
下ろす。
俺にも握ってみろと、顎で示した。
触れると、硬い枝より痛くなかった。
「……ありがとう」
男はもう反対側へ移っていた。
*
夜明け前には、全員起きていた。
若い男も眠れなかったのか、火のそばで椀を持っている。
担架を運ぶのは、槍の男と、昨日彼を連れてきた男だった。
俺が持ち手へ近づくと、ウネに止められた。
掌を指される。
担架の結び目を指される。
樹皮。
獣皮。
俺。
運ぶ役ではない。
途中でずれたものを直せ、ということらしい。
俺は頷いた。
トワはナギのそばに残った。
ミナが水を用意している。
年老いた女はナギの足へ触れ、紐の張りを確かめていた。
ナギがこちらを見る。
俺は担架を指した。
それから、戻ってくる道を指す。
うまく伝わったかは分からない。
ナギは木の椀を俺へ差し出した。
受け取る。
外で待っていた若い男に渡すと、男は両手で抱えた。
俺たちは歩き出した。
*
川へは下りなかった。
若い男が先を歩く。
足を引きずっている。
それでも、ときどき速度が上がった。
そのたびに槍の男が短く声をかけた。
急ぐな、と言っているように聞こえた。
俺も急ぎたかった。
だが、空の担架ですら木々の間では何度も引っかかる。
枝を避ける。
向きを変える。
片側を少し下げる。
人を載せた帰りは、もっと遅くなる。
途中で若い男が斜面を指した。
近道なのだろうか。
槍の男は下を見て、首を振った。
地面へ槍の柄を当てる。
湿った土が崩れた。
若い男は口を閉じた。
遠回りを続けた。
*
子どもは、岩の下にいた。
入口には枝が重ねてある。
その奥から、獣皮の端が見えた。
若い男が呼んだ。
返事はなかった。
もう一度。
獣皮が動いた。
小さな顔が現れた。
俺は、そこで初めて息を吐いた。
若い男が膝をつく。
椀を見せる。
子どもの口が動いた。
声は掠れていた。
槍の男が入口の枝を外した。
俺も手を出しかけたが、先に担架を近くへ寄せた。
獣皮を広げる。
樹皮の端を押さえる。
今は、こちらが俺の仕事だ。
子どもは若い男へ腕を伸ばした。
男が抱き上げようとする。
小さな声が上がった。
槍の男がすぐに手を止めた。
子どもの脚を見る。
足に巻かれた紐を少し緩め、左右を見比べた。
血は見えない。
だからといって、歩けるわけではない。
子どもは片脚を動かそうとして、また顔を歪めた。
男たちが短く話す。
槍の男は、子どもを包んでいた獣皮を指した。
そのまま運ぶ。
俺にも、それは分かった。
担架を岩のそばへ寄せた。
子どもの顔の近くへしゃがむ。
目が合う。
知らない大人がまた増えたのだから、怖いだろう。
俺は両手を開いて見せた。
片方の掌が赤い。
これでは、安心する材料として少し弱い。
子どもの指が伸びた。
俺の腰に結んだ縄をつかむ。
あの子にもらった縄だった。
引かれる。
俺は動かなかった。
槍の男たちが獣皮の端を持った。
若い男が子どもの頭と肩を支える。
少しずつ、身体が移る。
子どもの指が強くなる。
俺は縄ごと身体を近づけた。
「ここにいる」
言葉は通じない。
それでも、離れなかった。
担架へ下ろすと、子どもは目を閉じた。
縄を握った手だけは、まだ開かなかった。
*
岩の奥に、小さな葉の包みが残っていた。
若い男が取りに戻った。
急いだせいか、包んでいた紐が外れた。
石の刃。
細い骨の道具。
短い縄。
乾いた木の実がいくつか。
男は地面へ落ちたものを拾った。
槍の男が見ている。
若い男の手が止まった。
石刃を持ったまま、顔を上げる。
俺も動かなかった。
槍の男はしゃがんだ。
葉の端に残った木の実を拾う。
包みへ戻した。
若い男の手から石刃を取る。
一瞬、空気が張った。
男は刃を葉で包み直した。
骨の道具と重ねる。
紐を締め、子どもの足に当たらない場所へ置いた。
それだけだった。
若い男はしばらく、その手を見ていた。
やがて小さく頭を下げた。
槍の男は返事をしない。
前の持ち手を握った。
俺は子どもの指を見た。
まだ縄を握っている。
帰り道は、担架の横を歩くことになった。
*
集落が見えても、槍の男は中央へ向かわなかった。
ナギのいる、外れの小屋へ進んだ。
見張りをしていた男がこちらに気づく。
声を上げる。
ミナが出てきた。
トワも来た。
担架を下ろす場所へ獣皮が敷かれる。
俺は子どものそばへ膝をついた。
握っていた指を、若い男が一本ずつ緩めた。
縄が離れる。
俺の腰に、小さな引っ張られた跡だけが残った。
水が運ばれてきた。
子どもが少し目を開ける。
小屋の中を見る。
ナギが身体を起こしていた。
二人の目が合った。
「ナギ」
小さな声だった。
ナギの顔が変わった。
子どもが手を伸ばす。
ナギも伸ばしかけた。
だが、その途中で槍の男を見た。
男は入口に立っていた。
ナギは手を下ろした。
地面を指す。
森のほうを指す。
二本の指を立てる。
昨日と同じ仕草だった。
槍の男は動かなかった。
ナギが何か言う。
若い男が答えた。
子どもの肩へ手を置く。
次に、木の椀をナギの前へ置いた。
二人が話した。
今度は、ナギだけが説明しているのではなかった。
若い男も道を指し、子どもを指した。
俺には言葉が分からない。
ただ、ナギの手が子どもへ向かうたび、昨日の二つの石を思い出した。
槍の男がしゃがんだ。
地面へ線を引く。
こちらの集落。
森の道。
それから、川の向こう。
男は最後の場所を、槍の柄で押さえた。
短く尋ねる。
若い男の顔から、ほっとした表情が消えた。
子どもの肩に置いた手が、強くなる。
ナギは目を伏せた。
トワが入口へ寄った。
槍の男は道の線を消さなかった。
その向こうを、もう一度指した。
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