第65話 火を分ける
ナギが器から口を離した。
俺は背中を支えたまま、水をミナへ渡した。
そのとき、ナギの右手が担架の端をつかんだ。
身体を起こす。
「おい」
左脚が動いた。
顔が歪む。
それでも彼は、道を塞いでいる男へ何か言った。
男が答える。
ナギは森を指した。
次に自分。
トワが担架の横枝を押さえた。
短く言う。
ナギはもう一度、森を指した。
ミナが肩の草を掛け直す。
彼がそれを払おうとすると、その手をつかんだ。
俺はナギの背中を少し下ろした。
ここから離れようとしている。
それだけは分かった。
だが、右手一本で身体を支えるのも、もう苦しそうだった。
*
集落の方で、子どもが呼ばれた。
二人が家の方へ走る。
一人は途中で止まり、こちらを見た。
大人が肩に手を置き、連れていった。
槍を持つ男が、その背中を指した。
それから森。
ナギ。
トワ。
言葉は速かった。
俺は男の顔を見た。
ナギだけを見ているのではない。
話す間にも、何度も木々の間へ目を向けていた。
別の男が森から戻った。
肩に細い枝がついている。
それを払う前に、槍の男へ話し始めた。
川の方を指す。
指を二本立てる。
遠くを指してから、首を振った。
トワが立ち上がる。
問いかける。
戻ってきた男が、もう一度同じ方角を示した。
俺には、距離も人数も正確には分からなかった。
だが、トワの目がそちらへ向いた。
昨日、俺たちが避けてきた方だった。
俺はナギの傷だけを見ていた。
この男は、集落の子どもたちを見ている。
槍が下りない理由は、少し分かった。
*
ウネが来た。
急いではいなかった。
こちらへ歩きながら、戻った男の話を聞いている。
トワが何か言った。
ウネはナギを見た。
足。
添え木。
担架。
それから、年老いた女へ目を向けた。
女が立ち上がる。
二人はしばらく顔を見合わせた。
先に話したのは女だった。
ウネは途中で口を挟まなかった。
話が終わると、ナギの横へしゃがんだ。
足先に触れる。
ナギが答える。
ウネは紐の結び目を見てから、トワへ何か尋ねた。
トワが地面に膝をついた。
小枝で川を描く。
岩。
川上へ延びる線。
その先を回って、ここへ戻る線。
槍の男が、線の途中を指した。
トワは頷いた。
男がまた話す。
今度はトワも黙って聞いた。
俺は担架の端に手を置いた。
集落の火は近い。
だが、ナギをそこまで運べるとは、まだ決まっていなかった。
*
風が吹いた。
ナギの肩の草が動く。
ミナが押さえた。
俺は集落の端を見た。
魚を干す場所の奥に、低い屋根がある。
柱と屋根だけの小さな棚だった。
雨の日、籠を置いていたのを見たことがある。
今日は片側に木が積まれ、中央は空いていた。
俺はそこを指した。
ウネが見る。
ナギを指す。
屋根。
地面へ掌を下ろす。
寝かせる。
槍の男が何か言った。
屋根の向こうの森を指す。
俺は手を止めた。
あそこへ置けば安全、というわけではない。
ウネが立ち上がった。
棚の方へ歩く。
トワと槍の男が続いた。
三人は屋根の下を見た。
風の来る方。
家までの距離。
森へ続く細い道。
男が屋根の脇へ立ち、外を見る。
トワが柱に触れた。
次に、自分の胸。
ナギの方を指す。
ここにいる。
そう言ったように見えた。
ウネは集落へ声をかけた。
二人が来る。
一人は槍を持っていた。
もう一人は、積んだ木を動かし始めた。
*
年老いた女がナギの脚を支え直した。
ミナが担架の草を寄せる。
俺は足側へ回った。
持ち手を握ろうとすると、指が痛んだ。
少し開く。
もう一度握る。
影が落ちた。
槍の男だった。
彼は俺の手を見て、何か言った。
俺は顔を上げる。
男は槍を近くの木へ立てかけた。
担架の端へしゃがむ。
俺の隣に手を入れた。
トワが頭側を持った。
男が短く声を出す。
上げる。
俺も持った。
三人分の力で、担架が浮いた。
さっきより軽い。
道が開いていた。
男は進みながら、一度だけ森を振り返った。
俺たちはその横を歩いた。
*
屋根の下へ、獣皮が敷かれた。
乾いた草も運ばれてくる。
ナギを移す前に、年老いた女が手で厚さを確かめた。
トワが肩を支える。
俺は腰。
ミナが脚。
槍の男が担架を抜いた。
ナギの身体が獣皮へ下りる。
彼は目を閉じた。
左足は、入口へ向かないように置かれた。
人が通っても、当たりにくい。
女が水を持ってきた。
別の女は、柔らかくした食べ物を器に入れている。
ミナが受け取った。
俺は空になった担架を柱へ寄せた。
横枝に触れる。
結び目は、まだ締まっていた。
槍の男がトワへ話しかけた。
棚の外を指す。
次に、ナギ。
トワが頷く。
男は槍を取りに戻った。
別の二人と合流し、森の方へ歩いていく。
トワは見送ったあと、屋根の下へ戻った。
ナギの横へ座る。
*
火は、少し離れたところに作られた。
屋根へ近づけすぎない場所。
地面をならし、周りの枯れ草を払う。
俺も手伝おうとした。
枝を持ち上げたところで、ウネに手首を取られた。
掌を見る。
指を開かされる。
痛かった。
ウネは俺の手を下ろし、獣皮の端を指した。
座れ。
俺は座った。
誰かが集落の火から赤い熾を運んできた。
厚い樹皮の上で、小さく光っている。
細い枝が重ねられる。
息を吹く。
煙。
少し待って、炎が立った。
ナギが目を開けた。
火を見る。
ミナが器を差し出すと、今度は素直に受け取った。
俺の前にも食べ物が置かれた。
取ろうとする。
指から落ちた。
拾う。
また落ちる。
トワが見ていた。
「見てないで食えよ」
彼は自分の食べ物を口へ入れた。
こちらを見たままだった。
俺は掌で受け、口へ運んだ。
ようやく食べられた。
トワの肩が、わずかに揺れた。
*
日が低くなるころ、森へ行った男たちが戻った。
槍の男は、まずウネへ話した。
川の方を指す。
首を振る。
次に、集落の外の道。
二人のうち一人が、そちらへ移った。
見張りは続くらしい。
ウネが棚の中へ来た。
ナギを見る。
トワへ短く話す。
それから俺の前で、火を指した。
薪。
棚。
俺も頷いた。
今夜は、ここ。
少なくとも、それは分かった。
ウネが去ると、食べ物を運んでいた女が子どもを連れてきた。
あの子だった。
俺に結び方を教えた子。
手に短い縄を持っている。
俺の靴を見た。
穴だけが並んでいる。
子どもはしゃがみ、縄を差し出した。
「助かる」
受け取る。
その前に、彼の目が担架へ移った。
黒い靴紐。
俺の靴。
また靴紐。
子どもは担架へ近づき、横枝を引いた。
動かない。
隣の結び目も確かめる。
俺の結んだところだった。
少し考え、端を一度引いた。
それで終わりだった。
俺は差し出された縄を受け取った。
子どもが俺を指す。
「サエ」
「ああ」
彼は担架を指し、覚えのある音を言った。
俺も真似した。
子どもは首を振らなかった。
*
ナギがそのやり取りを見ていた。
子どもが女と戻ると、彼は胸元から骨片を出した。
火に照らされた白い端。
俺は靴へ縄を通していた手を止めた。
ナギがトワを呼ぶ。
トワが顔を向けた。
ナギは骨片を見せたあと、自分の右手を下へ垂らした。
指を開く。
落ちるような動き。
次に、トワの手首へ触れた。
握る。
引く。
トワは動かなかった。
ナギが何か言った。
年老いた女が、その言葉に短く答えた。
彼女もトワの手を指した。
それからナギ。
俺は二人を見る。
「……前にも?」
トワの手を指す。
ナギを指す。
引き上げる真似をした。
ナギはすぐに頷いた。
同じ動きを、もう一度見せる。
トワの手をつかんだまま。
骨片の穴が、火の方を向いていた。
*
トワはナギの手を外さなかった。
しばらくして、空いている方の手で枝を取った。
足元の土へ線を引く。
川だった。
俺は少し近づいた。
彼は線の脇へ二つ、小さなくぼみを作った。
片方を指す。
「トワ」
もう片方。
「ナギ」
そこまでは分かった。
トワは川の線を深くした。
岸の土を、指で崩す。
ナギのくぼみが半分消えた。
彼の指がそこで止まる。
ナギが低く何か言った。
トワは聞いた。
それから枝を置き、俺の手を取った。
掌の傷を避け、手首を握る。
川の線の上で、引いた。
俺は彼の顔を見た。
トワはまだ手を離さなかった。
ナギの方へ目を向ける。
彼も、こちらを見ていた。
俺は頷いた。
トワが手を離す。
それから、置いた枝をもう一度拾った。
火のそばへ身体を寄せ、続きを描き始めた。




