第63話 戻ってきた手
トワの声が、岸の上へ届いた。
返事があった。
一つ。
続いて、もう一つ。
俺は振り返りかけた。
肩の上で、ナギの手に力が入る。
前へ。
彼の指が、岩の向こうを指していた。
「分かってる」
足元を見る。
平たい石。
その先は砂。
俺はミナと目を合わせ、一歩進んだ。
ナギの右足がつく。
息が耳にかかった。
次の一歩。
背後で、また声がした。
今度はトワではなかった。
*
岩の隙間は、人が横を向けば通れるくらいだった。
年老いた女が先に入る。
ミナが続いた。
俺はナギを支えたまま止まった。
このままでは、二人分の肩が通らない。
ミナが向こうから手を伸ばした。
ナギの腕を取る。
俺は身体を横にし、彼の腰を抱え直した。
右足を先に。
次に身体。
左脚は、ミナが添えている。
枝で支えた足が岩へ近づくたび、止まった。
少し動かす。
また止まる。
背中が岩に擦れた。
シャツが引っかかった。
「今、それどころじゃないんだよ」
布へ小さく言った。
ナギが俺を見た。
意味は分からないはずだった。
それでも、唇の端がわずかに動いた。
俺は肩を縮めた。
糸が切れる音がして、身体が抜けた。
*
隙間の奥には、砂の溜まった窪みがあった。
低い岩が川からの風を遮っている。
立てば頭が出る。
しゃがめば、岸からは見えにくい。
年老いた女が乾いた草を寄せていた。
俺とミナは、そこへナギを下ろした。
左脚が最後だった。
ミナが踵を支えたまま、ゆっくり置く。
ナギは歯を食いしばった。
俺の肩から、手が離れる。
指の跡が残っていた。
俺は膝をついた。
しばらく、そのまま息をした。
年老いた女が、俺の背中を押した。
頭を下げろ。
俺はさらにかがんだ。
休み方まで、まだ教わっている。
*
女はナギの足を見た。
枝に触れる。
紐の下へ指を入れる。
足先に手を当てる。
ナギが何か答えた。
女はミナへ短く言った。
ミナが頷き、薄い樹皮を折り曲げた。
端を押さえ、小さな器のような形にする。
それを持って、岩の陰の水際へ行った。
俺はついていこうとして、女に袖をつかまれた。
ナギを指される。
ここにいろ。
俺は座り直した。
ナギの額には汗があった。
寒いのか、痛いのか。
分からない。
彼は骨片を握っていた。
指の間から、白い端が見えている。
俺が見ると、ナギはそれを胸元へ引いた。
「取らないよ」
掌を開いて見せた。
ナギは俺の手を見た。
親指の付け根。
擦れて皮が剝けていた。
彼の眉が動いた。
俺は手を膝へ戻した。
*
ミナが水を持ってきた。
ナギが身体を起こそうとする。
俺は背中へ腕を入れた。
持ち上げすぎた。
彼の左脚が動き、顔が歪む。
すぐに力を緩める。
ミナが俺の肘を下げた。
肩だけ。
そういうことらしかった。
俺は支え直した。
ナギが水へ口をつける。
一口。
もう一口で咳き込んだ。
ミナが器を離す。
俺は動かず、背中を支えた。
咳が収まるまで待つ。
岩の外で、川が鳴っていた。
岸からの声は聞こえない。
それが、かえって気になった。
ナギも隙間を見ていた。
ミナが水を差し出す。
彼は首を振り、俺の方へ顎を動かした。
俺か。
ミナが器をこちらへ寄せた。
受け取ろうとして、指が痛んだ。
少しこぼす。
彼女は俺の手を避け、器を口元へ持ってきた。
俺は一口飲んだ。
冷たかった。
もう一口。
ミナが器を下げた。
ナギが俺を見ていた。
俺は頷いた。
彼も、小さく頷いた。
*
待った。
年老いた女は隙間の近くに座っている。
ミナはナギの脚から離れない。
俺には、することがなくなった。
いや。
勝手に何かをするより、動かない方がよかった。
水はある。
ナギもいる。
トワだけが、いない。
俺は岩の壁へ背中をつけた。
さっき通るときに裂けたシャツが、肩の後ろで開いていた。
風が入る。
袖を引くと、ナギが手を伸ばした。
裂けたところへ触れる。
それから、骨片を開いた掌に載せた。
穴。
割れた枝のような印。
ナギは自分の首元を指した。
そこには細い紐が残っていた。
端が切れている。
彼は骨片の穴へ、その端を近づけた。
通す。
途中で指が止まる。
手が震えていた。
俺は骨片へ手を出さず、紐の先だけをつまんだ。
穴へ入れる。
ナギが反対側から取った。
ゆっくり引く。
白い骨片が紐に下がった。
彼はそれを見たあと、隙間へ顔を向けた。
「トワ」
俺も、そちらを見た。
*
石が鳴った。
年老いた女が立ち上がりかける。
ミナの手がナギの肩へ伸びた。
俺は息を止めた。
隙間に、手が現れた。
泥のついた指。
次に槍の柄。
トワだった。
肩を横にして入ってくる。
最後に腰が抜けた。
彼は膝をつき、しばらく外を見ていた。
追ってくるものはいない。
そう確かめているようだった。
年老いた女が何か尋ねた。
トワは短く答えた。
息が切れている。
右の前腕に、細い血の筋があった。
俺は身体をずらした。
座る場所を空ける。
トワはそこへ来ず、ナギの横へ膝をついた。
足先を見る。
枝を見る。
紐に触れる。
ナギが何か言った。
トワが顔を上げる。
ナギは胸元の骨片を持ち上げた。
紐に下がっていた。
トワの指が、そこで止まった。
二人はしばらく黙っていた。
やがてトワが骨片の端に触れた。
ナギはそれを離さなかった。
*
トワが俺を見た。
ナギの背中。
乾いた草。
岩の陰に置いた水の器。
それから、俺の肩。
泥のついた手の跡があった。
彼は何も言わず、俺の隣へ来た。
腰を下ろす。
近かった。
少し前までなら、俺の方が場所を空けたかもしれない。
今は、動かなかった。
ミナが残った水を持ってきた。
トワが受け取る。
口へ運びかけて、俺の手を見た。
器を下げる。
俺へ差し出した。
「先に飲めよ」
彼は返さなかった。
俺は両手で受け取った。
今度はこぼさなかった。
飲んで、渡す。
トワも飲んだ。
器の底に、ほんの少し水が残った。
ミナがそれを受け取り、また水際へ向かった。
トワは岩へ背中をつけた。
槍は膝の横に置いた。
俺たちの間だった。
*
日が傾くと、岩の陰が冷たくなった。
火は焚けなかった。
年老いた女がナギの身体へ草を寄せる。
ミナもその横へ座った。
ナギは何度か隙間を見たが、トワがいると確かめるたび、目を閉じた。
俺の脚はまだ重かった。
指も痛い。
だが、ナギの左脚は倒木の下にはなかった。
彼は眠ろうとしている。
ミナが小さく何か言った。
ナギの口元が動いた。
返事らしかった。
俺は岩の隙間へ目を向けた。
水の一部が見える。
その向こうに、細い砂地。
今のところ、人影はない。
隣でトワが動いた。
俺の膝へ指を置く。
次に、隙間を指した。
自分の目を指す。
俺を指す。
分かった。
俺は頷いた。
トワは槍の柄を、俺の届くところへ寄せた。
それから目を閉じた。
*
しばらく待った。
トワは動かない。
俺が姿勢を変えても、目を開けなかった。
肩が、ゆっくり上下している。
眠ったのだ。
俺は隙間へ向き直った。
最初の夜には、火を渡された。
あのときのトワは、少し離れたところで何度も目を開けていた。
今、俺の横には槍がある。
その向こうで、彼が眠っている。
俺は膝の上で手を開いた。
皮の剝けたところが、冷たい空気にしみた。
布の端をそっと被せる。
隙間の向こうで、水が光った。
俺はそこを見ていた。
ナギが寝返りを打ちかけ、痛みで小さく息を漏らした。
ミナがすぐに身体を支えた。
トワの目が開く。
ナギを見る。
俺を見る。
俺は隙間を指して、頷いた。
何も来ていない。
トワは息を吐いた。
今度は俺の方へ肩を預けて、目を閉じた。
お読みいただき、ありがとうございます。




