第62話 その手を離すな
槍の柄が、もう一度地面を突いた。
頭のすぐ上だった。
俺は支えの木を握ったまま、動かなかった。
指の間に泥が入っている。
滑る。
握り直したい。
だが、少しでも手を緩めると、木が横へ逃げそうだった。
岸の上で、男が何か言った。
別の声が答える。
近い。
ミナはナギの横で身を低くしていた。口元に添えていた手を離し、彼の手を握る。
ナギは目を閉じたまま頷いた。
トワだけが、まだ動いていた。
指で泥を掻く。
一度に取るのは、ほんの少し。
掻き出した土を水へ落とさず、自分の膝の横へ置いている。
俺はその手を見た。
急いでいる。
それでも、音を立てない。
上から土が落ちた。
トワの肩に当たった。
彼は顔を上げなかった。
*
年老いた女が、石の陰から片手を出した。
掌を下へ向ける。
低く。
動くな。
俺は顎を引いた。
上で葉が擦れた。
槍で草を押し分けているのかもしれない。
木の根の間から、細い影が動いた。
俺はそこを見ないようにした。
見上げれば、顔が見える。
顔が見えれば、向こうからも見える。
そう思うと、目の前の木だけを見ている方がよかった。
トワがナギの膝に触れた。
次に、幹の下へ手を入れる。
ナギの肩が跳ねた。
ミナがその手を強く握った。
声は出なかった。
だが、俺の手の中で支えが軋んだ。
幹が動いたのだ。
俺は石へ押しつけた。
親指の付け根に、木の角が食い込む。
トワがこちらを見る。
俺は頷いた。
大丈夫、というつもりだった。
大丈夫かどうかは、俺にも分からなかった。
*
上の声が、少し遠ざかった。
足音が続く。
一人。
もう一人。
やがて、槍の柄を突く音も聞こえなくなった。
年老いた女は、まだ手を下ろさなかった。
待つ。
俺たちも待った。
川の水が、トワの足首に当たっている。
ナギの呼吸が浅い。
俺の腕は、肘から先が熱くなっていた。
ようやく、女の手が下りた。
トワが息を吐いた。
それから、幹の下から手を抜いた。
泥のついた指を二本、わずかに開く。
隙間。
足りない。
俺にも分かった。
支えを入れたぶん、木は止まった。
だが、脚を抜けるほど上がってはいない。
トワは折れた枝を見た。
そこへ手をかける。
俺を見てから、ミナに何か言った。
ミナがナギの脇へ腕を入れた。
ナギは右の踵を地面につけた。
自分でも動こうとしている。
トワが力を入れた。
幹がわずかに浮く。
俺は支えを押した。
ナギの腰が動いた。
すぐに止まる。
顔が歪んだ。
トワが木を戻した。
ミナも引くのをやめる。
ナギの左足は、まだ同じ場所にあった。
*
俺はナギの腰の下を見た。
泥だった。
身体を後ろへ動かそうとしても、尻が沈む。
右足で踏ん張れば、踵も沈む。
ミナ一人で引くには重い。
俺が手を離せれば。
そう考えて、支えを見る。
木の下は石に収まっている。
上も幹に当たっていた。
だが、横には余地があった。
そちらへ逃げれば、幹が下がる。
俺はトワを呼んだ。
「トワ」
彼が顔を上げる。
支えの横の隙間を指す。
石を差し込む真似をする。
トワは一度見ただけで、岸の方へ手を伸ばした。
石を二つ取る。
一つは戻した。
もう一つを、木と地面の間へ押し込む。
俺の手に当たった。
指を少しずらす。
トワが石を押した。
支えが、動かなくなった。
彼は木を横から確かめた。
もう一度。
それから、俺の手首に触れた。
離せ。
俺は右手だけを緩めた。
止まっている。
左手も離す。
木は逃げなかった。
掌に、深い跡が残っていた。
指を開くと痛かった。
トワは俺の手を一度見て、ナギの方を指した。
俺は膝で泥を這った。
*
ナギの隣へ行く。
近くで見ると、唇が震えていた。
俺を見た。
その目が、胸元へ下がる。
泥をかぶったシャツ。
膨らんだポケット。
俺はポケットの口を押さえた。
ナギの視線が顔へ戻る。
「サエ」
トワが言った。
ナギは俺を見たまま、小さく頷いた。
今はそれで十分だった。
俺は腰の周りを探った。
いつの間にか、ミナが薄い樹皮を持ってきていた。
少し離れた場所に、流れ着いたものが重なっている。
彼女は一枚を地面へ置き、ナギの背中を支えた。
俺はもう一枚取った。
泥を払う。
尻の下へ入れようとして、うまく入らなかった。
ナギが右手をついた。
身体をわずかに浮かせる。
ミナが支え、俺が差し込む。
入った。
ナギが息を吐いた。
俺は樹皮の端を持った。
ミナも反対側を持つ。
トワが長い枝を運んできた。
太い。
枝分かれした部分は、石刃で落とされていた。
彼は幹の下へ先を入れる。
その近くに石を置いた。
枝を押す。
幹が、少し上がった。
トワはすぐに戻した。
枝の位置を変える。
もう一度。
今度は、さっきより動いた。
彼はナギに短く言った。
ナギが右脚を曲げる。
ミナが俺を見る。
俺も頷いた。
*
トワが枝を押した。
木が鳴る。
俺はナギの背中へ腕を回した。
ミナが樹皮を引く。
ナギも右足で地面を押した。
身体が動いた。
さっきより軽い。
左の膝が、幹の下から出る。
あと少し。
そのとき、トワの足元が沈んだ。
枝が傾く。
「待って」
俺は引くのをやめた。
ミナも止まった。
トワの肩が震えている。
枝を押したまま、足を置き直そうとしていた。
年老いた女が近づいた。
石を一つ、彼の踵の後ろへ置く。
トワがそこへ足を移した。
枝が戻る。
幹が上がった。
ナギの左足首が見えた。
皮膚が擦れている。
ミナが片手を伸ばし、踵を下から支えた。
俺はナギの身体を引いた。
樹皮が泥の上を滑る。
足先が、木の下から抜けた。
「出た」
声が漏れた。
トワはまだ枝を離さなかった。
ナギの脚が幹から離れるまで待つ。
俺たちがもう一度引く。
ミナが足を抱えた。
そこでようやく、トワが力を緩めた。
幹が支えへ下りる。
低い音がした。
俺はナギを抱えたまま、しばらく動けなかった。
左足が見えている。
幹の外にある。
ナギは目を閉じ、右手で顔を覆った。
ミナが何か言った。
彼は頷いた。
その手の下から、短い息が何度も漏れた。
*
長くは休めなかった。
年老いた女が、川下を指した。
上の方で声がする。
さっきの二人が、まだ遠くへ行ったわけではない。
トワは細い枝を二本拾った。
ナギの脚の両側へ当てる。
ミナが柔らかい繊維を挟み、トワが紐を巻いた。
強く締める前に、ナギの顔を見る。
何か尋ねる。
ナギが答えた。
トワは結び直した。
俺はその間、ナギの背中を支えていた。
彼の身体は冷たかった。
俺のシャツも濡れている。
着せるものにはならない。
せめて水から離したかった。
トワが俺を指した。
次にナギ。
自分の肩へ手を回す。
担げ、ということか。
俺はしゃがみ直した。
ミナがナギの腕を持ち上げる。
右腕を俺の肩へ。
俺は腰を支えた。
立つ。
重かった。
ナギが右足を地面につける。
それで、ようやく支えられた。
一歩。
彼の息が止まった。
俺も止まる。
足を引きずらせてはいけない。
トワがナギの左側へ入り、身体を支えた。
二人で持つ。
今度は動けた。
*
岸の低いところを進んだ。
年老いた女が先に行く。
ミナはナギの左脚を見ながら歩いた。
枝の端が石に当たりそうになると、手を添える。
俺は足元だけを見た。
石。
砂。
泥。
ナギの右足が置けるところを探す。
トワと歩幅を合わせる。
ナギが俺の肩を握った。
爪が食い込む。
だが、少し先で力が緩んだ。
顔を見る。
彼は俺を見ず、足元を見ていた。
自分でも、次の場所を探している。
「そこだな」
小さく言った。
右へ一歩。
ナギも足を置く。
俺たちは進んだ。
背後で、男の声が上がった。
トワが止まる。
俺も止まった。
声がもう一つ。
今度は、さっきまでいた方角だった。
倒木。
支えの木。
掻き出した泥。
見つけられたのかもしれない。
トワが振り返った。
年老いた女は川下の岩を指した。
水が二つに分かれる場所だった。
低い岩の向こうに、細い隙間がある。
トワがナギに何か言う。
ナギは首を振った。
もう一度、トワが言う。
今度は強かった。
ナギの手が、トワの肩をつかむ。
トワはその手を外した。
俺の方へ持ってくる。
泥のついた指を、俺の肩に置いた。
*
トワが腰から骨片を抜いた。
ナギの掌へ押し込む。
ナギはそれを握らなかった。
トワを見ている。
トワは彼の指を一本ずつ閉じた。
それから、俺の腕をつかんだ。
ナギの腰の、もっと深いところへ回させる。
俺が支え直すまで待った。
「サエ」
目が合った。
トワはナギを指した。
次に、川下の岩。
俺は頷いた。
「連れていく」
トワは手を離した。
俺の肩へ、ナギの重さが増えた。
ミナが反対側に入る。
年老いた女はもう、岩の向こうへ進んでいた。
俺たちも動く。
トワはついてこなかった。
槍を手に取り、岸の方へ戻っていく。
ナギが何か言った。
トワは片手だけを上げた。
振り返らない。
俺は足を止めかけた。
肩の上で、ナギの手が動いた。
前を指していた。
俺は息を吸った。
岩まで。
まずは、そこまで。
ミナと一緒に、もう一歩進む。
背後からトワの声がした。
隠れていたときとは違う、大きな声だった。
岸の上の話し声が止まった。
俺はナギを抱え直した。
その手を、肩から落とさないように。
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