第61話 煙の下にいる人
トワの腕が、俺の胸を押さえた。
足を止める。
木々の向こうで、人が動いていた。
一人が枝を抱えている。別の男は火のそばにしゃがみ、濡れた葉を重ねていた。
白い煙が膨らむ。
少し離れた場所にも火があった。その先にも。
声が行き交っている。
男が一人、川沿いを歩いていった。手には槍。途中で立ち止まり、草の中を柄で押し分ける。
俺は身体を低くした。
知らせるための火だと思った。
だが、誰に何を知らせているのかは分からない。
少なくとも、あそこへ出て道を尋ねる気にはなれなかった。
年老いた女が、トワの肩に触れた。
川の方を指す。
トワはしばらく向こうを見てから、頷いた。
腰に差した骨片へ、一度だけ手をやった。
*
俺たちは火を避け、岸の低い方へ回った。
水際には、流れてきた枝や草が引っかかっている。
泥の上に足を置く前に、トワが槍の柄で突いた。沈む場所は避ける。石が出ている場所だけを選ぶ。
俺も同じところを踏んだ。
それでも滑った。
腕をつかまれる。
「……悪い」
トワは俺を引き戻し、足元を指した。
石だと思ったものは、泥をかぶった木だった。
下りるだけで手を借りた。
まだ何も始まっていないのに、もうトワの仕事を増やしている。
後ろからミナが来た。
俺の肩に手を置き、横を通る。
彼女は滑らなかった。
俺は靴底の泥を石に擦りつけてから、歩き直した。
岸が高くなった。
頭の上には木の根がむき出しになっている。そこから落ちたらしい土が、水際に山を作っていた。
トワが止まった。
全員が動きを止める。
川の音。
上の方で話す声。
その間に、乾いた音があった。
こつ。
少し待って、もう一度。
こつ、こつ。
ミナが顔を上げた。
トワを見る。
それから、崩れた岸の先へ目を向けた。
トワが口元に指を当てる。
ミナは唇を閉じた。
だが、足は止まらなかった。
*
倒れた木があった。
根の片側に、まだ土がついている。
幹は岸から斜めに落ち、太い枝が川の中へ突き出していた。
その下で、何かが動いた。
手だった。
小さな石を握っている。
石が、幹を打った。
ミナが息を吸った。
「ナギ」
声は小さかった。
それでも、手が止まった。
幹の陰から顔が上がる。
泥のついた髪。
乾いた唇。
俺よりずっと若い男だった。
男はミナを見た。
口が動く。
次に、彼女の後ろへ目を向けた。
「トワ」
トワが膝をついた。
俺にも、その音は聞き取れた。
ミナがもう一度言った。
「ナギ」
男が彼女を見る。
そして、短く答えた。
今度は間違えようがなかった。
ナギ。
この男の名前だった。
ミナが近づこうとすると、ナギは石を置き、人差し指を口元へ当てた。
それから岸の上を指す。
ミナは身をかがめた。
俺も頭を下げる。
上から男の声がした。
ナギの指が、ゆっくり下りた。
*
近づいて、足が見えた。
左脚が幹の下に入っている。
膝は見える。
足先も見える。
その間が、木に隠れていた。
幹のこちら側には折れた枝があり、向こう側は崩れた土に載っている。
ナギは両手を地面につき、身体を起こしていた。
指が泥に食い込んでいる。
その横には、肘で掘ったような跡があった。
自分で抜こうとしたのだろう。
トワはナギの肩に触れた。
次に膝。
足先。
ナギが何か言う。
トワが答える。
短いやり取りだった。
トワの指が足首に触れたとき、ナギの顎が上がった。声は出さなかった。
ミナが彼の背中へ手を回した。
年老いた女は少し離れた石の陰にしゃがみ、岸の上を見ている。
トワが腰から骨片を抜いた。
ナギの目がそこへ止まる。
泥のついた手が伸びた。
骨片の穴に、指先が触れた。
トワはその手首をつかんだ。
二人が顔を見合わせる。
ナギが何か言った。
さっきより長かった。
トワは最後まで聞いた。
それから骨片を自分の腰へ戻し、ナギの手をミナの方へ渡した。
ミナが両手で受け取る。
トワは倒木へ向き直った。
俺もしゃがんだ。
聞きたいことはあった。
だが、ナギの手が震えていた。
今はそれを止める方が先だった。
*
トワは幹の下を確かめた。
石を一つ取って押し込む。
指を抜き、掌で幹を押す。
動かない。
今度は折れた枝を両手で持ち、わずかに持ち上げた。
ナギが息を詰めた。
ミナが身体を支える。
俺は向こう側を見ていた。
幹の端が、泥を削った。
ほんの少し。
だが、削れた土が水へ落ちた。
トワが力を緩めると、木が戻る。
さっきより低かった。
「待って」
俺は手を伸ばした。
トワの腕に触れる。
彼がこちらを見る。
俺は幹の向こうを指した。
泥。
削れた跡。
水へ落ちた土。
トワは顔を寄せた。
指で土の端を押す。
また少し崩れた。
彼は手を引いた。
ナギの脚を見る。
それから俺を見た。
俺は掌を下へ向け、ゆっくり下げた。
トワが頷いた。
*
木を上げなければ、脚は抜けない。
だが、こちらを上げると、向こうが滑る。
俺は周りを見た。
岸の土。
水。
流れてきた細い枝。
どれも頼りなかった。
少し奥に、大きな石があった。
半分ほど地面に埋まっている。
その横に、短い木が挟まっていた。水に洗われ、皮がほとんど剝がれている。
俺は木を指した。
次に、倒木の端。
石と幹の間へ入れる真似をした。
トワが木を取った。
曲げる。
端を石へ打ちつける。
乾いた部分が少し欠けた。
彼はそれを捨てた。
別の木を拾い、同じように確かめる。
今度は俺に渡した。
重かった。
さっきのものより短いのに、手の中にずしりと来た。
俺は抱え直した。
トワが石の横の泥を掻いた。
そこへ木の端を入れる。
俺が考えていた向きとは少し違った。
斜めだ。
木の先が、幹の下に届く。
もう一方は石の脇へ収まった。
トワが押してみる。
ぐらついた。
首を振る。
薄い石を拾い、隙間へ押し込む。
もう一度。
今度は止まった。
彼は俺の手を木へ置かせた。
押さえていろ、ということらしい。
俺は膝を泥につけた。
両手で握る。
トワが倒木の枝へ戻った。
ミナに短く何か言う。
彼女がナギの身体を少し後ろへずらした。
ナギは目を閉じた。
トワが枝を持ち上げる。
俺の手の中で、支えの木が軋んだ。
「……よし」
石へ押しつける。
木の先が幹に食い込む。
トワが少しずつ力を緩めた。
重さが移ってくる。
指に力を入れた。
止まった。
泥は落ちなかった。
幹も、それ以上は下がらなかった。
ナギが長く息を吐いた。
地面についていた片手を離す。
ミナがその手を取った。
赤くなった掌に、細かい砂がついていた。
*
脚はまだ抜けていない。
それでも、ナギの肩が少し下がった。
ずっと身体を支えていたのだ。
ミナが彼の額の髪を払った。
ナギは何か言いかけ、唇を閉じた。
上で声がした。
年老いた女が振り返る。
指を二本立てた。
次に、岸の上を指す。
二人。
近づいている。
トワは幹の下へ顔を寄せた。
俺からは、彼の背中しか見えなかった。
しばらくして、手が伸びてくる。
俺の指を、支えの木のもう少し低いところへ移した。
そこなら、木が横へずれるのを押さえられた。
彼は一度手を離した。
俺だけが握る。
トワが俺を見る。
「サエ」
「分かった」
頷いた。
彼はもう、俺の手を見直さなかった。
ナギの脚の方へ身体を移し、泥を掻き始めた。
俺は木を握り直した。
掌の皮が擦れる。
上から、小さな土の塊が落ちてきた。
肩に当たり、水へ転がる。
ミナがナギの口元へ手を添えた。
ナギは頷いた。
俺は顔を上げなかった。
支えの木が、指の中でわずかに動く。
石へ押しつける。
止まる。
頭の上で、足音が止まった。
川の音に混じって、槍の柄が地面を突く音がした。
お読みいただき、ありがとうございます。




