第60話 トワの名
「トワ」
年老いた女は、そう呼んだ。
骨片を手にしたまま。
火の残りが、灰の下で赤く光っている。
誰も動かなかった。
俺は、女の顔を見た。
次に、トワを見る。
トワは槍を持ったまま立っていた。
さっきまで追手を相手にしていた男だ。
森の音を読み、
足跡を読み、
俺たちをここまで連れてきた男だ。
そのトワの顔から、
少しずつ色が引いていた。
俺は言葉が分からない。
それでも、
これは分かった。
トワは今、
見られたくないものを見られた顔をしていた。
*
年老いた女は、骨片を差し出した。
薄く欠けた骨。
小さな穴。
割れた枝の印。
トワは受け取らなかった。
女が何か言う。
低い声だった。
責めているのか。
確かめているのか。
俺には分からない。
トワは短く答えた。
いつものように強い声ではない。
押し殺した声だった。
年老いた女は首を振る。
骨片をさらに前へ出す。
トワの手が動いた。
取るのかと思った。
違った。
彼は女の手を下げようとした。
見せるな。
そういう動きだった。
リクが一歩前に出る。
アオもミナを抱いたまま顔を上げた。
ミナは目を閉じている。
だが、眠ってはいない。
小さな指が、アオの獣皮を握っている。
年老いた女は、トワから目をそらさなかった。
そして、もう一度言った。
「トワ」
今度は、名前ではなく、
答えを求める音に聞こえた。
*
トワは顔を背けた。
ほんの少しだけ。
だが、それで十分だった。
リクの表情が変わる。
何かを察したのだと思った。
彼女はトワに向かって、短く言った。
声は静かだった。
だが、硬い。
トワは答えない。
アオが何か言う。
ミナを抱く腕に力が入っている。
彼も、全部は知らないのだろう。
けれど、
トワが何かを隠していることは分かったらしい。
俺だけではない。
ここにいる全員が、
同じものを見ていた。
頼りにしていた男が、
一つの骨片の前で沈黙している。
俺は胸元に手を当てた。
泥で覆ったスマートフォンが、
服の内側で固く当たる。
俺も、隠しているものがある。
使えない黒い板。
この時代にあってはいけないもの。
だが、トワが隠していたのは、
物ではない。
もっと古いものだ。
たぶん、
記憶だ。
*
遠くで声がした。
追手だ。
完全には離れていない。
年老いた女がすぐに顔を上げる。
若い女と少年が森の方を見る。
トワも反応した。
ほんの一瞬で、
さっきの顔が消える。
槍を握る。
周囲を見る。
隠す場所。
逃げる方向。
火の始末。
また、いつものトワに戻った。
だが、俺は見てしまった。
その前の顔を。
見られたくないものを見られた顔を。
年老いた女は、火のそばの灰へ手を伸ばした。
指で地面をならす。
何かを描き始める。
トワが低く言った。
止めようとしたのだと思う。
女は止まらなかった。
丸を一つ。
その横に、小さな点。
少し離れたところに、もう一つ点。
そして、割れた枝の印。
俺は息を止めた。
また、あの印。
女は一つ目の点を指した。
次に、トワを指す。
それから、もう一つの点を指す。
小さな点。
子どもか。
少年か。
女はその小さな点の横に、
骨片を置いた。
割れた枝の印が刻まれた骨片。
トワの手が強く握られる。
槍の柄が、かすかに鳴った。
*
俺には、全部は分からない。
だが、形は分かった。
昔、ここに二人いた。
一人はトワ。
もう一人は、
骨片の持ち主。
年老いた女が、灰の上に指を置く。
小さな点。
そして、割れた枝の印。
その印から、線を引いた。
森の方へ。
川の方へ。
最後に、
小さな点を灰で消した。
リクが息を飲んだ。
アオがミナを抱き寄せる。
俺も、分かった。
消えた。
その子は、消えたのだ。
ミナと同じように。
いや、
ミナより前に。
トワは動かなかった。
だが、顔だけが少し下を向いた。
年老いた女は、骨片を拾う。
そのままトワへ差し出した。
トワは受け取らない。
女が何か言う。
トワが首を振る。
女がもう一度言う。
今度は、声が震えていた。
ここへ来て初めて、
この人も年を取った人間なのだと思った。
ただ強いだけではない。
失ったものを、
長く持っている人だった。
*
追手の声が、また近づいた。
若い女が短く叫ぶ。
少年が火の灰をかぶせる。
リクが子どもたちを集める。
アオがミナを抱き上げようとする。
だが、ミナの手が動いた。
彼女は骨片を指した。
次に、トワを指した。
そして、ほとんど息だけの声で言った。
「ナギ」
その音が落ちた瞬間、
空気が止まった。
ナギ。
岩の中で、ミナが俺に言った音。
サエではない、
もう一つの音。
俺は、それを災いの名か何かだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
年老いた女が、ゆっくり目を閉じた。
アオがミナを見る。
リクがトワを見る。
トワは、
何も言わなかった。
何も言えなかったのかもしれない。
年老いた女は骨片を、
トワの手に押しつけた。
トワは受け取らなかった。
それでも、女は離さない。
骨片が二人の手の間で止まる。
小さな骨。
小さな穴。
割れた枝の印。
そして、低い声。
「ナギ」
今度は、年老いた女が言った。
トワの目が、
初めて俺たちから逃げた。
*
遠くで、追手の声が重なった。
もう時間がない。
トワはようやく骨片を握った。
受け取った、というより、
落とさないために掴んだようだった。
年老いた女はすぐに立ち上がる。
森ではなく、
岩の裏を指した。
そこに細い道があるらしい。
若い女が先に動く。
少年が火をほとんど消す。
リクが子どもたちを押す。
アオはミナを抱き直す。
俺も立とうとした。
そのとき、トワが俺を見た。
いつものトワだった。
進め。
そういう目。
だが、その手の中には、
骨片が握られている。
俺は胸元のスマートフォンを押さえた。
泥の黒い板。
トワの手の中の骨片。
どちらも、
この時代には隠さなければならないものらしい。
俺たちは岩の裏へ向かった。
その直前、
トワが一度だけ振り返った。
年老いた女が灰の上に残した絵。
丸。
点。
割れた枝の印。
そして、消された小さな点。
トワはそれを見た。
長くは見なかった。
ただ一瞬。
けれど、その一瞬で、
俺には分かった。
トワは忘れていたのではない。
忘れたふりをしていただけだ。
*
岩の裏には、細い道があった。
道と呼べるほどのものではない。
木の根の間を抜け、
濡れた石の横をすり抜けるだけの隙間だ。
若い女が先に進む。
リクと子どもたちが続く。
アオがミナを抱いて入る。
俺も後を追う。
トワは最後だった。
いつものように、後ろを守るため。
いや、
それだけではない気がした。
彼は手の中の骨片を、
一度だけ強く握った。
その横顔は、
森の影に半分隠れていた。
俺は何も聞けない。
聞いても通じない。
だが、次に知るべきことは分かった。
サエ。
ナギ。
割れた枝の印。
そして、トワ。
全部が、
同じ場所へつながり始めていた。
背後で、追手の声が上がる。
俺たちは、細い道へ身を沈めた。
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