第59話 岩の中の声
外の足音が、遠ざかっていく。
それでも、誰も動かなかった。
岩の中は狭い。
息をするたびに、誰かの肩が少し動く。
アオはミナを抱いたまま、じっとしている。
リクは子どもたちを抱え込むようにしていた。
俺は、岩の壁に手をついたまま、
動けずにいた。
指先には、まだ傷の感触が残っている。
一本の線。
途中で二つに分かれる線。
割れた枝の印。
一つではない。
いくつも。
それぞれの深さが違った。
新しいものもある。
古いものもある。
浅いもの。
強く刻まれたもの。
小さな指で引っかいたようなもの。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
ここには、
何人もいた。
俺たちの前に。
暗闇の中で。
息を殺して。
*
ミナの手が動いた。
俺の袖をつかんでいた指が、
少しだけ強くなる。
俺は顔を向けた。
ミナは目を開けていた。
薄い光の中で、
その目が俺の手元を見ている。
岩の傷。
俺が触れている印。
ミナの顔がこわばった。
「……ミナ?」
もちろん、俺の声は通じない。
ミナは首を小さく振った。
触るな。
そう言っているように見えた。
俺は慌てて手を離した。
だが、ミナは俺の手首をつかんだ。
弱い力だった。
それでも、必死だった。
彼女は俺の指先を見る。
次に、岩の印を見る。
そして、唇を動かした。
「ナギ」
小さな音だった。
さっき火のそばで聞いた、
あの二つ目の音。
サエではない。
ナギ。
俺はその音を、頭の中で繰り返した。
ナギ。
ミナはもう一度言った。
「ナギ」
アオの身体が、わずかに揺れた。
リクもこちらを見た。
暗くて表情はよく分からない。
だが、その音が軽いものではないことだけは分かった。
外から、まだ人の声が聞こえる。
遠い。
いや、近いのかもしれない。
岩にこもって、距離が分からない。
俺はミナの手を見た。
泥のついた小さな指。
その指が、俺の手首をつかんだまま震えている。
ナギ。
この印に関係する言葉なのか。
この洞に関係する言葉なのか。
それとも、
ここで起きたことの名前なのか。
分からない。
分からないまま、
俺は黙って頷いた。
*
外で、トワの声がした。
低い。
短い。
誰かが何かを返す。
さっきの追手の声だ。
完全には離れていなかった。
リクの腕の中で、
子どもが小さく震える。
アオはミナの口元に手を添えていた。
ミナはもう咳をしなかった。
俺も息を止める。
外で、誰かが笑った。
いや、笑い声に聞こえただけかもしれない。
トワがまた何か言う。
少し間があった。
次に、年老いた女の声。
静かだった。
相手をなだめるようにも、
追い返すようにも聞こえた。
言葉は分からない。
だが、今、外で嘘が交わされている気がした。
俺たちはここにいる。
でも、いないことにされている。
その嘘を、
トワと年老いた女が支えている。
俺は何もできない。
まただ。
そう思った。
だが、さっきは違った。
俺は岩のくぼみを押した。
追手をそらした。
偶然かもしれない。
でも、偶然でも、
今は生きている。
俺は岩の印を見た。
見えない。
暗い。
でも、指先が覚えている。
ここにいた誰かも、
同じように外の声を聞いていたのだろうか。
*
手の下の土が、少し崩れた。
俺は動きを止めた。
音を立ててはいけない。
それでも、指先に何かが触れた。
小さい。
石ではない。
もっと軽い。
俺は、ゆっくり土を払った。
暗くて見えない。
指で形を確かめる。
薄い。
少し曲がっている。
骨か。
胸が冷えた。
俺は反射的に手を引きかけた。
だが、すぐに止めた。
外の声がまだする。
騒げない。
俺はその小さなものを、
手のひらの中にそっと包んだ。
骨片。
たぶん、そうだ。
端が欠けている。
真ん中に小さな穴がある。
紐を通していたのかもしれない。
骨の輪。
ミナが持っていたもの。
いや、
俺たちが見つけたもの。
あれと似ている。
俺は息を殺したまま、
指先で表面をなぞった。
そこにも傷があった。
一本の線。
途中で二つに分かれる線。
割れた枝の印。
俺の喉が鳴りかけた。
慌てて飲み込む。
まただ。
ここにもある。
岩にも。
焦げた木にも。
木片にも。
ミナの周りにも。
そして、この骨片にも。
ミナが俺の手の中を見た。
見えるはずがない。
でも、気づいた。
彼女の目が大きく開く。
「……」
声にならない息が漏れた。
俺はすぐに手を閉じた。
見せるな。
今は、駄目だ。
外に追手がいる。
ここで騒げば終わる。
俺はミナを見る。
首を小さく振る。
ミナは俺の手を見たまま、震えていた。
アオが気づく。
俺の手を見る。
ミナを見る。
そして、俺を見る。
俺は骨片を握ったまま、
もう一度、首を振った。
今は。
あとで。
通じたかは分からない。
でも、アオは動かなかった。
*
外の声が近づいた。
また、入口の方で音がした。
枝に触れる音。
獣皮が擦れる音。
俺たちは固まった。
今度はくぼみを押せない。
同じ手は、二度使えない。
俺は手の中の骨片を握りしめた。
尖った端が、掌に当たる。
痛い。
その痛みで、少しだけ息が整った。
外で、トワが強く何かを言った。
初めて声が荒くなった。
追手の声も荒くなる。
槍。
石刃。
火。
そういうものが頭に浮かぶ。
見えないからこそ、余計に怖い。
子どもの一人が、リクの腕の中で身体を縮めた。
リクはその子の頭を抱える。
アオはミナを抱く。
俺は何を抱いている。
泥のついたスマートフォン。
そして、
割れた枝の印が刻まれた骨片。
現代の黒い板と、
遠い昔の骨。
どちらも、この暗い穴の中で、
俺の手にある。
笑えるほど、意味が分からない。
でも、手放せなかった。
外で、年老いた女が低く声を出した。
一言。
追手の声が止まった。
その沈黙が、長かった。
やがて、足音が離れた。
今度は、本当に少しずつ遠くなる。
枝を踏む音。
声。
そして、沢の音だけが残った。
それでも、誰もすぐには動かなかった。
*
入口の枝が、ゆっくり動いた。
細い光が入る。
俺は反射的に目を細めた。
トワの顔が見えた。
泥と汗で汚れている。
肩で息をしている。
だが、血は見えない。
少なくとも、大きな傷はなさそうだった。
リクが先に子どもたちを外へ出す。
一人。
二人。
アオがミナを抱いて動く。
俺は最後に出ようとした。
身体をひねる。
肩が引っかかる。
またトワに引っ張られた。
「だから、押すなって」
小さく言った。
今度は、トワが俺を見た。
意味は分かっていないはずなのに、
ほんの少しだけ眉が動いた。
笑ったのかと思った。
たぶん違う。
でも、少しだけ息が楽になった。
外へ出ると、
空気が広かった。
それだけで、めまいがした。
火はほとんど消えている。
煙も少ない。
年老いた女が、そこに座っていた。
若い女と少年は周囲を見ている。
まだ警戒は解かれていない。
俺は手の中のものを見た。
泥と汗で汚れた掌。
その中に、小さな骨片。
薄い。
欠けている。
穴がある。
そして、割れた枝の印。
ミナがそれを見る。
アオも見る。
リクも。
トワも。
俺は、年老いた女へ差し出した。
*
女は骨片を見た瞬間、
息を止めた。
手を伸ばす。
だが、すぐには触らない。
まるで、
触れたら戻れなくなるものを見るようだった。
俺は、もう少し前へ出した。
女はようやく受け取った。
指が震えている。
焦げた木片を見たときとは違う。
スマートフォンを見たときとも違う。
これは、知らないものへの恐れではない。
知っているものを、
もう一度見てしまった顔だった。
女は骨片の穴を指でなぞる。
欠けた端。
刻まれた印。
そして、ゆっくり顔を上げた。
俺を見るのかと思った。
違った。
女は、トワを見た。
トワは動かなかった。
だが、その顔から、少しずつ色が消えていく。
年老いた女が、低い声で、
ひとつの名を呼んだ。
「トワ」
火の残りが、
灰の下で赤く光っていた。
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