第58話 黒いもの
二つの黒いものが、火のそばに並んでいた。
一つは、焦げた木片。
もう一つは、泥を塗ったスマートフォン。
どちらも、俺の手のひらに収まるくらいの大きさだった。
似ているはずがない。
片方は、この時代のもの。
もう片方は、俺の時代のもの。
それなのに、火の光の中で見ると、
どちらも妙に黙っていた。
年老いた女は、しばらく二つを見ていた。
誰も声を出さない。
ミナの呼吸だけが、細く聞こえる。
俺は、スマートフォンを取り戻したかった。
もう使えない。
電源も入らない。
昨日までの世界につながるものは、何一つ残っていない。
それでも、あれは俺のものだった。
ここへ来る前の俺が、
確かにいた証拠だった。
手を伸ばしかけた。
その手首を、トワが押さえた。
強くはない。
けれど、動くな、という力だった。
俺はトワを見る。
トワは俺を見ていない。
年老いた女を見ていた。
俺のためか。
自分たちのためか。
たぶん、両方だ。
*
年老いた女は、焦げた木片を手に取った。
火に近づける。
燃やすのかと思った。
違った。
女は火の光で、表面を見る。
指で灰を払う。
割れた枝の印が、少しはっきりした。
次に、スマートフォンへ手を伸ばす。
俺の身体が少し動いた。
トワの手が、また手首を押さえる。
女はスマートフォンを持ち上げなかった。
指先で、泥のついた縁をなぞる。
角。
平らな面。
冷たい黒。
指先の動きは、
初めて触れるものを見る手つきではなかった。
女はスマートフォンの表面についた泥を、
ほんの少しだけぬぐった。
黒い画面が細く出る。
火の光が、そこに小さく映った。
女の手が止まる。
若い女が息を飲む。
少年が一歩下がった。
俺も見た。
泥の間に出た黒い面。
そこに、火が小さく揺れている。
ただ、それだけだ。
スマートフォンが動いたわけではない。
光ったわけでもない。
けれど、この世界では、
それだけで十分すぎるほど異様だった。
女はすぐに、また泥をかぶせた。
黒い面は隠れた。
*
ミナが声を出した。
小さい。
アオがすぐに身を寄せる。
ミナの目は半分だけ開いていた。
彼女は焦げた木片を見ている。
次に、泥のついたスマートフォン。
そして、俺。
唇が動いた。
「サエ」
もう一つ、別の音を言った。
短い音だった。
聞き取れない。
俺は顔を近づけた。
「何?」
ミナはもう一度言おうとした。
だが、声にならなかった。
アオが首を振る。
もう話すな。
そういう顔だった。
年老いた女は、ミナの言った音を聞いた瞬間、
少しだけ目を伏せた。
トワも反応した。
リクが子どもたちを見る。
誰も、その音を繰り返さなかった。
サエ。
そして、もう一つの音。
俺には、どちらも意味が分からない。
でも、
二つ目の方が、
ここにいる人たちをより黙らせた。
*
外で、枝が折れる音がした。
全員が動きを止める。
遠くではない。
近い。
若い女が火へ手を伸ばした。
年老いた女が、焦げた木片をすぐに懐へ戻す。
リクが子どもたちを覆いの奥へ押し込む。
トワは槍を取った。
俺もスマートフォンへ手を伸ばす。
今度は、誰も止めなかった。
年老いた女が、それを俺の手に押し戻したからだ。
泥で汚れた黒い板。
俺はそれを受け取る。
そして、すぐに胸元へ入れようとして、
止まった。
泥が足りない。
さっきぬぐわれたところが、
ほんの少しだけ黒く出ている。
火の光を返す。
俺は地面の泥を指で取った。
そこへ塗る。
厚く。
画面にも、縁にも。
黒いものを、
さらに汚す。
スマートフォンは、
本当にただの泥の塊みたいになった。
昨日までなら、
修理に出すかどうかで迷っていたはずだ。
今は、汚れている方が安心できる。
俺はそれを服の内側へ押し込んだ。
冷たさは、ほとんど分からなくなった。
外で、また声がした。
追手の声だ。
トワが身を低くする。
年老いた女が俺たちの方を振り返った。
そして、岩の奥を指した。
細い隙間があった。
大人が一人、やっと入れるくらいの岩の裂け目。
いや、入れるかどうかも怪しい。
女は俺を指した。
次に、その隙間。
それから、アオとミナ。
隠れろ。
そういうことだ。
*
最初にアオが入った。
ミナを抱いたままでは無理だった。
リクがミナを受け取り、
アオが先に身体を滑り込ませる。
それから、中から腕を伸ばした。
ミナを渡す。
細い身体だから入った。
俺は見ていて、胸が詰まった。
子どもが入れる隙間。
怪我人が押し込まれる場所。
そこに隠れなければならない。
リクが子どもたちを次々に入れる。
最後に俺の番が来た。
岩の隙間を見る。
狭い。
暗い。
湿った匂いがする。
俺は一瞬だけ迷った。
トワが俺を見る。
迷っている時間はない。
俺は膝をついた。
肩を斜めにして、
岩の隙間へ身体を入れる。
すぐに引っかかった。
「……無理だろ、これ」
もちろん誰にも通じない。
背中を押された。
トワだった。
「押すなって」
小さく言う。
押される。
息を吐く。
腹をへこませる。
少し進む。
岩が肩に当たる。
服が擦れる。
革靴が水気のある土を蹴る。
何とか中へ入った。
狭い。
暗い。
岩の内側には、
ところどころ指で削ったようなくぼみがあった。
そのときは、
ただの傷だと思った。
前にアオとミナがいる。
奥に子どもたち。
リクも入ってきた。
外には、トワと年老いた女が残っている。
俺は振り返ろうとした。
無理だった。
首だけ少し動かす。
外の光は、すぐに小さくなった。
何かが入り口に置かれる。
獣皮か。
枝か。
視界がさらに暗くなる。
広い森の中で、
俺たちは狭い穴に息を殺していた。
*
外で声がした。
追手だ。
低い男の声。
もう一つ。
別の声。
近い。
俺は動かなかった。
動けなかった。
膝の下の土が湿っている。
手をついた場所に、小さな石があった。
指が痛い。
でも、動かせない。
アオがミナを抱きしめている。
ミナは目を閉じていた。
リクは子どもの口元に手を当てている。
子どもは泣いていない。
泣けないのだ。
外で足音が止まった。
誰かが何かを言う。
トワの声が返る。
低い。
短い。
年老いた女の声も聞こえた。
意味は分からない。
だが、今ここで、
俺たちの命が言葉になっていることだけは分かった。
入口の枝が、少し動いた。
外の光が、細く揺れる。
誰かが、そこに手をかけている。
見つかる。
そのとき、ミナの喉が小さく鳴った。
咳だ。
アオの手が動くより早く、
俺は自分の袖をミナの口元へ寄せた。
ミナの歯が、布を弱く噛む。
音は、出なかった。
だが、外の男が止まった。
俺は息を止めた。
袖の先が、ミナの息で少し湿っていく。
入口の枝が、もう一度動く。
俺の指先が、岩に触れた。
傷があった。
一本の線。
途中で、二つに分かれる線。
割れた枝の印。
その横に、小さなくぼみがある。
ただのくぼみではない。
指を入れると、奥が少し動いた。
石だ。
押せる。
なぜ、こんなところに。
考える前に、外の枝がさらに押された。
俺は、くぼみの奥を押した。
かすかな音。
次の瞬間、岩の向こう側で、
小石が崩れる音がした。
外の男たちが一斉にそちらを向いた。
声が上がる。
足音が離れる。
一つ。
二つ。
三つ。
俺は、押した指をそのまま止めていた。
息もできなかった。
アオが俺を見る。
リクも見る。
暗くて、表情はほとんど分からない。
でも、
俺たちは見つからなかった。
今だけは。
*
どれくらい経ったのか分からない。
外の声が、少しずつ遠ざかった。
足音も遠くなる。
それでも、誰も動かなかった。
トワの合図があるまで、
ここでは動いてはいけない。
もう、それくらいは分かる。
暗闇に目が慣れてきた。
完全な暗闇ではない。
入り口の方から、わずかに光が入っている。
岩の内側が、ぼんやり見えた。
湿った壁。
土。
細い根。
俺は息を殺したまま、
さっき押した場所へもう一度触れた。
割れた枝の印。
その横のくぼみ。
俺は、ゆっくり指を動かした。
別の傷に触れる。
同じ形だった。
その隣にも。
さらに奥にも。
指先が、
次々と同じ形を拾っていく。
暗闇の中に、
割れた枝の印が、
いくつも並んでいた。
俺は、さっき押したくぼみを思い出した。
この印を残した誰かも、
ここで息を殺していたのだ。
俺たちと同じように。
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