第57話 焦げた木の印
「サエ」
年老いた女は、そう言った。
焦げた木に刻まれた印。
俺の胸元に隠した黒い板。
その二つを見比べるようにして。
誰も動かなかった。
火は小さい。
煙だけが、細く上へ流れている。
俺は、自分の胸に手を当てた。
スマートフォンが、服の内側で冷えている。
サエ。
俺の名前に似た音。
けれど、この人たちが見ているのは俺ではない。
俺の持っているものだ。
いや。
それだけでもない。
焦げた木に刻まれた、あの印。
一本の線。
途中で二つに分かれる線。
割れた枝の印。
トワは女を見ていた。
槍は下げている。
だが、少しも力を抜いていない。
アオはミナを抱いたまま、顔をこわばらせている。
リクは子どもたちを後ろに下げた。
俺だけが、意味を知らなかった。
*
年老いた女は、焦げた木のそばに膝をついた。
指先で、根元の灰を集める。
それを地面へ薄く広げた。
何をするのかと思った。
女は灰の上に、丸を一つ描いた。
次に、少し離れたところへ、もう一つ丸。
二つの丸の間に、曲がった線。
川。
たぶん、川だ。
俺は思わず身を乗り出した。
第55話でミナが描いたものと似ている。
一つ目の丸。
二つ目の丸。
その間を流れる線。
女は一つ目の丸を指した。
火のそばにいる自分たちを指す。
次に、二つ目の丸を指した。
ミナを見る。
アオを見る。
リクを見る。
俺にはまだ分からない。
だが、アオの顔が少し変わった。
知っている場所なのか。
それとも、知りたくなかった場所なのか。
女は二つ目の丸の横に、細い線を引いた。
途中で二つに分かれる線。
割れた枝の印。
トワが短く何か言った。
止めるような声だった。
女は手を止めない。
印の近くに、小さな点をいくつも打つ。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
子どもが数えるには多すぎる。
俺はその点を見た。
石ではない。
木でもない。
たぶん、人だ。
いや。
子どもかもしれない。
ミナが、かすかに息を吸った。
*
アオがミナの顔をのぞき込む。
ミナは目を開けていた。
弱い目だった。
それでも、灰の上を見ている。
小さな手が動く。
アオが支える。
ミナは、自分の胸を指した。
次に、灰の上の点を指した。
その中の一つ。
そして、割れた枝の印。
俺の胸元。
スマートフォンが隠れている場所。
最後に、俺を見た。
「サエ」
声は小さかった。
でも、今度ははっきり聞こえた。
俺は口を開きかけた。
何を聞く。
どうやって聞く。
お前はなぜ知っている。
これは何だ。
その全部が、言葉にならない。
俺はただ、自分の胸元を押さえた。
ミナの目が、そこへ落ちる。
黒い板。
この時代にあってはいけないもの。
それを見つけたから、ミナは俺を呼んだのか。
それとも、
俺がそれを持っているから、サエなのか。
分からない。
分からないことばかりなのに、
周りの人間は、もう何かを知っている顔をしていた。
それが、いちばん怖かった。
*
遠くで声がした。
全員が動きを止めた。
追手。
まだ近くにいる。
年老いた女が、すぐに火へ手を伸ばした。
燃えている枝を一本抜く。
灰をかぶせる。
若い女も動く。
煙が弱くなる。
炎がさらに小さくなった。
火を消すのではない。
隠すのだ。
トワは沢の方を見る。
リクは子どもたちを覆いの陰へ押し込む。
アオはミナを抱き寄せた。
俺もしゃがんだ。
胸元のスマートフォンが、服の中で動いた。
固い角が肌に当たる。
痛い。
俺は手で押さえた。
そのとき、ふと思った。
黒い板。
濡れていても、泥だらけでも、
角度によっては光を返す。
沢の水。
火の光。
昼の空。
こんなものを胸元から出していれば、すぐ見つかる。
俺は周りを見る。
泥。
灰。
濡れた土。
少し迷ってから、スマートフォンを取り出した。
トワがすぐこちらを見た。
アオも見る。
若い女が石刃を握った。
「違う」
通じない。
俺は片手を上げて、敵意がないことを示した。
それから、スマートフォンを地面に置く。
泥を指ですくった。
黒い画面に塗る。
表。
裏。
側面。
昨日までなら、絶対にしなかった。
スマートフォンに泥を塗るなんて。
だが、今はその方が正しい。
光らせない。
目立たせない。
この世界では、きれいなものほど危ないことがある。
泥で覆われた黒い板は、
ただの汚れた石のようになった。
いや、
石にしては平らすぎる。
それでも、さっきよりましだ。
トワが俺を見ていた。
何か言うかと思った。
言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目を細めた。
怒ってはいない。
たぶん。
少なくとも、今すぐ取り上げるつもりはなさそうだった。
俺は泥を塗ったスマートフォンを、また服の内側へ戻した。
冷たさが、少し弱くなった。
*
声は遠ざかった。
だが、誰もすぐには立たなかった。
年老いた女は、灰の地図の前に座ったままだった。
炎は小さい。
周りの顔は暗い。
ミナの呼吸だけが、かすかに聞こえる。
女はゆっくり立ち上がった。
焦げた木の裏へ回る。
何かを探している。
やがて、木の根元の隙間から、
薄いものを取り出した。
黒い。
石かと思った。
だが、石にしては軽そうだった。
焼けた木片かもしれない。
手のひらほどの大きさ。
表面は黒く焦げ、
端は欠けている。
女はそれを火の近くへ持ってきた。
灰を払う。
そこにも、印があった。
割れた枝の印。
焦げた木に刻まれたものより小さい。
けれど、形は同じだった。
一本の線。
途中で二つに分かれる線。
女は、その黒い木片を地面に置いた。
それから、俺を見る。
俺の胸元を指す。
出せ。
そういう意味だろう。
俺は動かなかった。
トワを見る。
トワは無言だった。
アオを見る。
アオも何も言わない。
だが、ミナが俺を見ていた。
小さく頷いたように見えた。
俺は息を吐いた。
服の内側から、スマートフォンを取り出す。
泥で汚れた黒い板。
それを、女の前に置いた。
焦げた木片の横に。
二つの黒いものが並んだ。
一つは、この時代のもの。
もう一つは、俺の時代のもの。
似ているはずがない。
そう思った。
けれど、
並べてみると、どちらも不自然に黒かった。
どちらも、手のひらに収まるほどの大きさだった。
どちらにも、
何かを隠しているような沈黙があった。
年老いた女は、焦げた木片を指した。
次に、スマートフォンを指した。
そして、もう一度、
低く言った。
「サエ」
トワも、アオも、リクも黙っていた。
ミナだけが、目を閉じた。
火の煙が、二つの黒いものの上を、
ゆっくり流れていった。
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