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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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第56話 煙の向こう

煙の匂いがした。


火。


俺は反射的に顔を上げた。


沢の先。


木々の間から、細い煙が上がっている。


その向こうに、人影があった。


一人ではない。


トワがすぐに身を低くした。


アオがミナを抱き直す。


リクが子どもたちを後ろへ下げる。


俺も慌ててしゃがんだ。


また追手か。


そう思った瞬間、胸の内側が冷えた。


ここまで逃げて、


水の中を歩いて、


足跡まで消したつもりで、


それでも前に回られたのか。


人影が動いた。


木の間から、ゆっくりこちらへ出てくる。


槍。


そう思った。


だが、違った。


手にしていたのは、長い棒ではない。


短い石刃だった。


救援、という言葉が頭に浮かんだ。


すぐに消えた。


救援が石刃を持って現れる時代ではない。


*


最初に見えたのは、年を取った女だった。


髪は白く、背は少し曲がっている。


肩には古い獣皮。


手には、灰で汚れた木の棒を持っていた。


その後ろに、若い女が一人。


さらに、少年らしい影が一人。


追ってきた男たちとは違う。


だが、安心できる相手にも見えなかった。


三人とも、こちらを見ていた。


トワは槍を上げなかった。


けれど、半歩だけ前に出た。


俺と、アオたちの間に身体を入れる。


その動きで分かった。


敵ではないかもしれない。


でも、味方でもない。


年老いた女の目が、まずミナに止まった。


その顔が変わる。


驚き。


恐れ。


それから、痛みに似たもの。


彼女が何か言った。


短い音だった。


アオの腕の中で、ミナが目を開けた。


かすかに唇が動く。


声はほとんど出なかった。


それでも、年老いた女には届いたらしい。


女の手から、木の棒が落ちた。


沢の石に当たって、鈍い音を立てた。


*


若い女が一歩前へ出た。


リクが子どもたちの前に立つ。


少年が何かを叫んだ。


トワの手が槍にかかる。


空気が一気に固くなった。


俺は動けなかった。


言葉が分からない。


誰が誰を怖がっているのかも分からない。


ただ、全員が何かを知っている。


俺だけが知らない。


それだけは分かった。


ミナが、また小さく声を出した。


今度は少しだけ聞こえた。


名前だろうか。


年老いた女が、ミナへ近づこうとする。


アオが身を引いた。


女が止まる。


リクが何か言う。


声は低い。


責めているようにも、


止めているようにも聞こえた。


年老いた女は答えなかった。


ただ、ミナを見ていた。


土の下から出てきたばかりの子ども。


泥だらけの顔。


白い唇。


細い腕。


その姿を見て、


女の皺の深い顔が、少し歪んだ。


泣くのかと思った。


だが、泣かなかった。


この時代の人は、


泣く前にやることが多すぎる。


*


風が動いた。


胸元のシャツが、少しめくれた。


冷たいものが肌から離れる。


スマートフォンの角。


黒い板の端が、服の内側から少し見えた。


年老いた女の目が、そこへ落ちた。


動きが止まる。


次に、若い女も見た。


少年も見る。


空気が変わった。


さっきまでミナを見ていた目が、


今度は俺を見ている。


正確には、


俺の胸元を見ている。


俺は慌ててシャツを押さえた。


隠す。


だが、遅かった。


年老いた女が、一歩下がった。


若い女が石刃を握り直す。


少年が何か叫ぶ。


トワが、今度ははっきり俺の前へ出た。


槍はまだ低い。


でも、身体は完全に俺を隠している。


俺はその背中を見た。


さっきまでなら、


この男は俺を突き出してもおかしくなかった。


いや、最初に会ったころなら、


そうしていたかもしれない。


今は違う。


理由は分からない。


信じられたのか。


ただ使えるから守られているのか。


ミナを助けたからか。


どれでもよかった。


トワの背中がそこにある。


それだけで、少し息ができた。


*


年老いた女は、トワを見た。


何か言う。


トワが答える。


短い。


強い声ではない。


だが、退かない声だった。


アオも何か言った。


ミナを抱いたまま、腕に力を込めている。


リクは子どもたちを背にして黙っていた。


追手の声は、もう聞こえない。


そのはずなのに、


ここはさっきより危なかった。


槍を向けられているわけではない。


叫ばれているわけでもない。


でも、俺の知らないところで、


何かが決まろうとしている。


年老いた女は、しばらく黙っていた。


やがて、ゆっくり背を向ける。


逃げるのかと思った。


違った。


彼女は煙の方へ歩いていく。


数歩進んで、振り返った。


こちらを見た。


来い。


そういう仕草ではなかった。


来てもいい。


来なければ、ここで終わる。


そんな顔だった。


トワはすぐには動かなかった。


森を見る。


沢を見る。


煙を見る。


そして、ミナを見る。


アオは何も言わない。


だが、その目は年老いた女を追っていた。


ミナを助けるためには、


あそこへ行くしかない。


たぶん、そういうことなのだろう。


トワが短く息を吐いた。


槍を持ち直す。


進む合図だった。


*


煙の方へ近づくと、


そこが集落ではないことが分かった。


家はない。


少なくとも、俺たちが知っているような竪穴は見えない。


大きな岩の陰。


倒れた木。


その間に、獣皮や枝を重ねた簡単な覆いがある。


火は小さかった。


煙を出しすぎないようにしているのか、


炎はほとんど見えない。


火のそばには、二人の子どもがいた。


一人は座っている。


もう一人は横になっていた。


怪我をしているのかもしれない。


若い女が、俺たちを見るなり、


横になっている子の前に立った。


隠すように。


ここも、逃げている。


そう思った。


追手からか。


別の何かからか。


分からない。


ただ、ここにいる人たちも、


どこかの集落で普通に暮らしている顔ではなかった。


荷物が少ない。


火が小さい。


声が低い。


いつでも動けるようにしている。


俺は自分たちと似ていると思った。


いや、


俺たちの方が、今だけ彼らに似ているのかもしれない。


*


アオがミナを火のそばへ下ろした。


年老いた女が膝をつく。


リクがすぐ横に座る。


アオはまだ離れない。


女はミナの額に触れた。


首。


腕。


足。


泥を指でぬぐう。


怪我を確かめている。


その手つきは、静かだった。


慣れている。


ミナが小さく呻いた。


アオの肩が震える。


年老いた女が何かを言う。


若い女が水を持ってくる。


木の器。


ミナの唇に少しずつ含ませる。


俺は少し離れて立っていた。


何もできない。


ここでも、俺は見ているだけだ。


そう思ったとき、


横になっていた子どもが俺を見た。


大きな目だった。


怖がっている。


俺は目をそらした。


怖がらせたくなかった。


だが、そらした先に、


また別の視線があった。


少年だ。


さっき人影の中にいた少年。


彼は俺の足元を見ていた。


革靴。


沢の水で濡れ、泥だらけになった革靴。


それから、俺の胸元。


スマートフォンを隠した場所。


俺はシャツを押さえた。


少年は何も言わなかった。


ただ、少し後ろへ下がった。


*


年老いた女は、ミナの様子を見終えると、


火の向こうへ移動した。


そこには、黒く焦げた木が一本あった。


倒れた木ではない。


地面に半分埋められたように立っている。


表面は灰で覆われていた。


女は指で灰を払った。


一度。


二度。


黒い木肌が出る。


そこに、細い傷があった。


ただの傷ではなかった。


一本の線。


途中で、二つに分かれる線。


俺は、息を止めた。


割れた枝の印。


泥に描かれたものではない。


灰に消されたものでもない。


木に刻まれている。


古い。


昨日今日のものではない。


トワが小さく声を出した。


アオがミナを抱いたまま、顔を上げる。


リクの手が止まる。


年老いた女は、焦げた木の印を指した。


次に、俺を見た。


俺の胸元を見る。


黒い板が隠れている場所。


そして、低い声で言った。


「サエ」


誰も動かなかった。


火の煙だけが、


細く上へ流れていた。

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