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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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55/117

第55話 サエという音

沢の水は冷たかった。


足首を流れているだけなのに、

身体の奥まで冷えてくる。


上の森では、まだ声がしていた。


枝を踏む音。

短く呼び合う声。


遠い。

だが、消えてはいない。


トワは岩の陰から森を見ていた。


アオはミナを抱いたまま、

浅く息をしている。


ミナは目を閉じていた。


眠っているのかと思った。


だが、小さな手が、

まだ俺の方へ伸びていた。


スマートフォン。


黒い画面。


割れた枝の印。


そして、


「サエ」


さっきの声が、耳に残っている。


俺は胸に手を当てた。


佐伯。

サエキ。

サエ。


呼ばれたのは、俺なのか。


それとも。


考えようとしたとき、

リクが水をすくった。


ミナの唇につける。


ミナは少しだけ口を動かした。


アオが何かを言う。


低い声だった。


怒っているのではない。


こらえている声だった。


ミナが目を開ける。


アオを見る。

リクを見る。


最後に、俺を見る。


いや。


俺の手元を見ていた。


スマートフォン。


俺は反射的に、それを隠した。


ミナが小さく首を振る。


アオがミナの手を押さえた。


ミナは、それでも泥へ指を伸ばした。


沢の端にたまった黒い泥。


そこへ、細い線を引く。


一本。


途中で、二つに分かれる。


割れた枝の印。


俺は息を止めた。


ミナはスマートフォンを指した。


次に、俺を指した。


そして、かすれた声で言った。


「サエ」


トワが振り返った。


泥に描かれた印を見る。


次の瞬間、

彼は一歩で近づいてきた。


足で泥を崩す。


印は水に混じって消えた。


ミナが何か言おうとする。


アオが口元に手を当てた。


静かに。


トワは俺を見た。


それから、スマートフォンを見る。


その目は、

初めて見るものへの目ではなかった。


知っているものを恐れる目だった。


トワは俺の手を指す。


スマートフォン。


次に、自分の腰の獣皮を叩く。


隠せ。


たぶん、そういう意味だ。


俺はスマートフォンをシャツの内側へ押し込んだ。


冷たい板が胸に当たる。


トワは短く息を吐いた。


そのとき、

上の森で声が近づいた。


全員の身体が固まる。


一人ではない。


沢の上から、枝を折る音がした。


トワが指を立てる。


動くな。


息を殺す。


水の音が、やけに大きい。


リクは子どもたちを岩の陰へ押し込んだ。


子どもの一人が震えている。


泣きそうになって、

自分の口を両手で押さえた。


俺は、その子の横にいた。


何も言えない。


ただ、自分の口に指を当てた。


子どもが小さく頷く。


上で男の声がした。


近い。


足音が、岩の上で止まる。


見つかった。


そう思った。


だが、右の森から声が上がった。


さっき俺が足跡を残した方だ。


岩の上の男が何か叫ぶ。


足音が離れる。


二人分。


三人分。


追手は右へ流れていった。


俺は息を吐きそうになった。


その直前、

トワの手が俺の肩を押さえた。


まだだ。


俺はもう一度、息を止めた。


少し遅れて、

最後の足音が通り過ぎる。


今度こそ、声が遠ざかった。


トワはそれでも待った。


俺にはもう大丈夫に思えた。


だが、彼はまだ動かない。


森を知っている人間の待ち方だった。


ようやく手が下ろされたとき、

俺は全身から力が抜けた。


*


移動が始まった。


沢を下るのではなく、

少し上る。


理由は分からない。


でも、トワは迷わなかった。


俺は黙ってついていく。


革靴の中は水でいっぱいだった。


歩くたびに、

ぐじゅ、と嫌な音がする。


ミナはアオに抱かれていた。


時々、身体が揺れる。


そのたびに、

アオの腕に力が入る。


リクは後ろを見ながら歩いている。


子どもたちは黙っていた。


あの子どもも、

今日は笑わない。


俺の名前を覚えてくれた子。


火のそばで、

俺を「サエキ」と呼んだ子。


その声を思い出したとき、

胸の奥が少し痛くなった。


サエキ。


サエ。


似ている。


似すぎている。


俺は考えるのをやめた。


考えても、

足元の石は避けてくれない。


*


しばらく歩くと、

沢が少し広くなった。


岩が重なり、

木の根が水の上へ張り出している。


トワがその下を指した。


休むらしい。


全員が根の陰へ入る。


外からは見えにくい。


だが、中は狭かった。


アオはミナを横たえた。


リクが獣皮の端で、

ミナの顔についた泥を拭く。


ミナが目を開ける。


俺を探すように、視線が動いた。


アオが俺を見た。


表情は硬い。


でも、止めなかった。


俺は少しだけ近づいた。


ミナの手が動く。


俺の胸元を指す。


スマートフォンがある場所だ。


俺は首を振った。


ミナは、今度は泥へ手を伸ばした。


アオが支える。


ミナは丸を一つ描いた。


その中に、小さな点。


少し離れたところに、

もう一つ丸。


二つの丸の間に、

曲がった線。


川。


たぶん、川だ。


ミナは一つ目の丸を指し、

自分の胸に手を当てた。


ミナの場所。


次に、二つ目の丸を指す。


アオの顔が変わった。


リクも近づく。


トワが低く何か言った。


ミナは二つ目の丸の横に、

例の印を描こうとした。


トワの手が伸びる。


止めた。


ミナの指は泥の上で止まった。


トワは首を振る。


描くな。


強い拒絶だった。


ミナはしばらくトワを見た。


そして、印ではなく、

小さな線を二つだけ描いた。


割れた枝になりかけて、

途中でやめたような線。


それだけで、

アオの顔から血の気が引いた。


俺には分からない。


分からないが、

悪いことだというのは分かった。


ミナは俺を指した。


次に、二つ目の丸を指す。


何か言った。


サエではない。


別の音。


アオがすぐに首を振った。


リクも何か言う。


声が重なる。


ミナは目を閉じた。


疲れたのだと思った。


だが、また開けた。


俺を見る。


ゆっくり口を動かす。


「サエ」


そして、

二つ目の丸を指した。


行け、なのか。


行くな、なのか。


そこにいる、なのか。


分からない。


リクが、ミナの描いた丸を消した。


一つ目。


二つ目。


川の線。


全部。


泥は、またただの泥になった。


でも、俺の頭には残った。


二つの丸。


川。


描きかけの割れた枝。


サエ。


*


少し休んだあと、

トワが立った。


進む。


そういう合図だった。


ミナはもう話せなかった。


アオが抱き上げる。


リクが子どもたちを立たせる。


俺も立った。


足が重い。


靴の中の水が動く。


沢の先で、

トワが急に足を止めた。


全員も止まる。


前方から、

煙の匂いがした。


火。


集落か。


それとも追手か。


トワが身を低くする。


アオがミナを抱き直す。


リクが子どもたちを後ろへ下げる。


俺は胸元のスマートフォンを押さえた。


そのとき、

ミナが薄く目を開けた。


煙の方を見る。


そして、ほとんど息だけの声で言った。


「サエ」


俺は煙の向こうを見た。


木々の間に、

人影が立っていた。


一人ではなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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