第54話 俺の名を呼んだ子
「……サエ」
ミナは、確かにそう言った。
俺は動けなかった。
森の中で、槍の音が鳴る。
トワが男の槍を受けていた。
木と石がぶつかる乾いた音。
リクが子どもたちを立たせる。
アオはミナを抱えたまま、俺を見た。
その顔にも、驚きがあった。
俺だけが聞き間違えたわけではない。
ミナは俺を見て、俺の名を呼んだ。
いや。
本当に、俺の名なのか。
考えようとした瞬間、トワが叫んだ。
意味は分からない。
だが、今だけは分かった。
走れ。
アオがミナを抱えて動く。
リクが子どもたちを押す。
俺も立とうとした。
膝が泥に滑った。
手の中には、まだ鍵があった。
自宅の鍵。
縄を切った鍵。
この世界で初めて役に立った、俺の持ち物。
それを握ったまま、俺は走り出した。
*
森は、さっきより狭く感じた。
前にはアオ。
その腕の中にミナ。
リクと子どもたちは左へ回る。
トワは後ろで男たちを止めている。
俺は、その間を走った。
どこにいれば邪魔にならないのか分からない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
背後で声が上がる。
足音が増える。
追ってくる。
ミナが小さく咳をした。
アオの腕の中で、身体が揺れている。
顔は泥だらけで、唇は白い。
それでも、ミナの目だけは開いていた。
俺を見ている。
なぜ見る。
なぜ俺を知っている。
聞きたかった。
でも、聞けない。
言葉もない。
時間もない。
今必要なのは、理由ではなく、逃げ道だった。
トワが追いついてきた。
肩で息をしている。
腕に浅い傷があった。
血がにじんでいる。
それでも止まらない。
俺の横を抜けると、前の地面を見た。
足跡。
泥。
折れた草。
彼は一瞬で進む方向を変えた。
アオも従う。
俺も曲がる。
少し遅れて、子どもたちも続く。
そのとき、背後の声がまた近づいた。
こちらの向きに気づかれた。
*
道などない。
それでも、トワたちは進む。
俺だけが、森に拒まれているようだった。
枝が袖に引っかかる。
革靴が滑る。
息が喉に刺さる。
ミナがまた咳をした。
アオが足を止めかける。
トワが振り返る。
止まるな。
そういう目だった。
アオは唇を噛んで、また走った。
リクの子どもの一人が転びかけた。
俺は反射的に手を伸ばした。
腕をつかむ。
小さな身体が、俺の方へ倒れてくる。
何とか支えた。
子どもが俺を見る。
泣きそうな顔だった。
俺は首を振った。
泣くな。
そう言ったつもりだった。
子どもは唇を噛んで、また走った。
背後で枝が大きく折れた。
近い。
振り返ると、男の姿が見えた。
二人。
いや、三人。
木々の間から追ってくる。
槍の先が見えた。
俺の足が、一瞬止まりかける。
トワが俺の肩を強く押した。
前へ行け。
分かっている。
分かっているのに、身体が遅い。
現代人の身体は、この森で本当に役に立たない。
それでも、俺の手にはまだ鍵があった。
鍵。
スマートフォン。
財布。
役に立たないものばかり。
だが、さっき鍵は縄を切った。
なら、何かできるかもしれない。
俺は走りながら周りを見た。
地面。
枝。
泥。
倒れた木。
そして、自分の足跡。
革靴の跡。
この森で、俺だけが残す変な跡。
追う者には分かりやすい。
なら、逆に使える。
そう思った。
*
「トワ」
俺は名前を呼んだ。
正しく言えたかは分からない。
だが、トワは振り返った。
俺は自分の足元を指した。
革靴の跡。
次に、右のぬかるみを指す。
そして、左へ行くアオたちを指した。
最後に、自分を指す。
俺が右へ行く。
皆は左へ。
トワの目が鋭くなった。
すぐに首を振る。
駄目だ。
そういう意味だろう。
俺も、本当は駄目だと思う。
一人で離れれば、たぶん終わる。
でも、追われているのは足跡だ。
この靴の跡だ。
男たちは森を読める。
俺のような異物の跡なら、もっと読む。
だったら、少しだけ時間を作れる。
アオが俺を見る。
ミナも俺を見る。
ミナの目が、俺の手元へ落ちる。
鍵。
骨の輪。
そして、俺の顔。
小さな唇が動きかけた。
だが、声は出なかった。
トワが短く何か言った。
怒っている。
俺は首を振った。
言葉はない。
だから、動くしかない。
俺は右のぬかるみへ踏み込んだ。
わざと深く。
革靴の跡がはっきり残る。
一歩。
もう一歩。
足音を立てる。
枝を折る。
わざとだ。
現代人が森で一番得意なこと。
余計な音を立てること。
今だけは、それが役に立つ。
背後の男たちの声が変わった。
気づいた。
俺はさらに右へ走った。
数歩だけ。
深く入りすぎない。
戻れる距離。
そう思ったが、森は甘くなかった。
足元が滑った。
身体が傾く。
転ぶ。
そう思った瞬間、誰かが俺の腕をつかんだ。
トワだった。
「お前、来たのかよ」
当然、通じない。
トワは怒った顔をしていた。
俺の腕を引き、左へ押す。
自分は右へ一歩出る。
そして、俺の足跡の上を、さらに自分の足で乱した。
分かってくれた。
半分だけかもしれない。
それでも、分かってくれた。
トワは俺を一人にはしなかった。
彼は低く何か言うと、俺の背中を押した。
今度こそ走れ。
そう言われた気がした。
*
男たちの声が右へ流れた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
だが、その少しで十分だった。
リクが子どもたちを木の根の向こうへ押し込む。
アオがミナを抱え直す。
トワが俺を追い越し、先頭へ戻る。
俺は息を切らしながら続いた。
肺が痛い。
足が重い。
だが、後ろの声は少し遠くなった。
たった数歩分。
それだけでも、生き延びるには大きい。
森の中を下っていくと、水の音が聞こえた。
川ではない。
もっと細い。
沢だ。
トワが足を止めた。
浅い水が石の間を流れている。
幅は狭い。
だが、泥の足跡を消すには十分だった。
トワは迷わず水の中へ入った。
アオも続く。
リクと子どもたちも入る。
俺も入った。
冷たい。
革靴の中に水が入る。
昨日までなら最悪だった。
今はありがたかった。
水の中を歩けば、足跡が残りにくい。
俺の変な靴の跡も、少しは消える。
沢を少し進んだところで、トワが岩の陰を指した。
全員が身を伏せる。
息を殺す。
追手の声が、上の方を通り過ぎていく。
一人。
二人。
枝を払う音。
短い声。
彼らは、俺がつけた足跡を追って右へ流れたらしい。
俺は濡れた岩に手をついた。
冷たい。
手が震えている。
怖かったのか。
疲れたのか。
たぶん、両方だ。
*
しばらくして、声が遠ざかった。
誰もすぐには動かなかった。
水の音だけが聞こえる。
アオはミナを抱きしめたまま、岩にもたれていた。
ミナの呼吸は浅い。
リクが水を手ですくい、ミナの唇につける。
ミナは少しだけ飲んだ。
俺はようやく息を吐いた。
助かった。
いや、まだだ。
でも、今は追いつかれていない。
それだけで十分だった。
トワが俺の前に来た。
俺を見る。
泥だらけの足元を見る。
ぬかるみに残してきた靴の跡。
それから、俺の顔を見る。
怒られると思った。
勝手なことをするな。
そういう顔をされると思った。
だが、トワは何も言わなかった。
ただ、俺の肩を一度だけ叩いた。
強かった。
痛い。
でも、嫌ではなかった。
俺は小さく頷いた。
「……どうも」
通じない。
それでも、トワはもう俺を見ていなかった。
森の上の方を見ている。
まだ終わっていない。
それは、全員が分かっていた。
*
俺はミナの方を見た。
アオの腕の中で、ミナは目を開けていた。
さっきより少しだけ呼吸が落ち着いている。
だが、その目はまた俺を見ていた。
逃げている間も。
今も。
ずっと。
俺は近づこうとして、ためらった。
怖がらせるかもしれない。
いや、俺の方が怖かった。
この子は俺の名を呼んだ。
まだ会ったばかりのはずなのに。
土の下から助け出したばかりなのに。
ミナが、小さく手を伸ばした。
俺ではない。
俺の手元。
そこには、泥で汚れたスマートフォンがあった。
いつの間にか握っていたらしい。
黒い画面。
動かない板。
ミナの指が震えながら、それを指した。
俺はスマートフォンを見る。
何も映っていない。
電源も入らない。
ただの黒い板だ。
ミナは次に、沢の泥へ指を伸ばした。
アオが支える。
ミナは震える指で、泥の上に線を引いた。
細い線を一本。
途中で、二つに分かれる線。
俺は息を止めた。
割れた枝の印。
リクが灰に描いた印。
スマートフォンに一瞬だけ浮かんだ印。
アオが見せるなと言ったもの。
ミナはその印を描いた。
そして、俺のスマートフォンを指した。
次に、俺を指した。
最後に、かすれた声で言った。
「サエ」
俺は、何も言えなかった。
俺の名前だと思っていた音が、俺だけのものではなくなった。
ミナは、俺を知っているのではない。
この印を知っている。
この黒い板を知っている。
そして、そのどちらかを――
サエと呼んでいる。
お読みいただき、ありがとうございます。




