第52話 ミナのいる場所
「ミナ」
森の向こうから、また声がした。
低い男の声だった。
呼んでいる。
探している。
そう思った。
けれど、少し違う気がした。
声は一つではなかった。
右からも聞こえる。
左からも聞こえる。
少し遠いところからも。
俺は倒木の陰で息を止めたまま、耳を澄ませた。
追ってきているだけなら、こんなふうには聞こえない。
たぶん。
いや、俺に森のことなど分からない。
分からないが、嫌な感じだけはした。
リクは子どもたちを抱き寄せている。
小さな子は、自分の両手で口を押さえていた。
泣けば見つかる。
それを、もう知っている。
アオは泥の上の小さな丸を見ていた。
ミナ。
骨の輪の持ち主。
まだ見つかっていない子。
森の向こうで、また声がした。
「ミナ」
今度は、少し近い。
アオの肩が小さく震えた。
俺は手の中の骨の輪を握りしめた。
小さくて、冷たい。
ただの飾りではない。
誰かが身につけていたもの。
誰かが、まだ帰ってきていない証。
それが今、俺の手の中にある。
そのことが、急に怖くなった。
*
トワが倒木の外を見た。
それから、俺たちに手で合図をする。
動く。
そういう意味だと思った。
だが、どちらへ。
トワは泥の上に線を引いた。
俺たちのいる場所。
周りから近づく声。
そして、一か所だけ空いたように見えるところ。
そこを指す。
抜けるなら、そこ。
俺にも、それくらいは分かった。
ところが、アオが首を振った。
トワを見る。
それから、別の方向を指した。
声が近づいてくる方だ。
俺は思わずアオを見た。
そっちは危ない。
言葉にはできない。
できても通じない。
だが、たぶん顔に出ていた。
アオは泥の上の小さな丸を指した。
ミナ。
そして、声のする方を指す。
トワの表情が硬くなった。
短く何か言う。
アオも返す。
声は小さい。
だが、二人の間の空気が鋭くなるのは分かった。
逃げるか。
ミナを探すか。
俺は森の声を聞いた。
また、左右から男たちの声がする。
不自然だった。
わざと大きく呼んでいるように聞こえる。
「……追い込んでる?」
小さくつぶやいた。
誰にも通じない。
けれど、トワが俺を見た。
俺は泥の上に指を置いた。
俺たちの場所。
左右の声。
前からの声。
そして、アオが指した方へ線を引く。
そこへ、俺たちが押されていく。
うまく伝わったかは分からない。
だが、トワの目が細くなった。
彼は森を見た。
アオを見る。
リクを見る。
最後に、子どもたちを見る。
それから、槍を握り直した。
行く。
そう決めた顔だった。
*
倒木の下から出ると、空気が冷たかった。
湿った土の匂いがする。
折れた枝。
濡れた葉。
どこかに、人の匂いが混じっている気がした。
気のせいかもしれない。
この時代に来てから、俺の鼻はあまり信用できない。
トワが先頭に立つ。
アオが続く。
リクと子どもたちは真ん中。
俺は後ろに回された。
たぶん、一番役に立たないからだ。
後ろから何か来ても、俺にできることは少ない。
走る。
転ばない。
子どもを押さない。
それくらいしかない。
俺たちは声の方へ進んだ。
まっすぐではない。
トワは何度も進む向きを変えた。
木の根を避ける。
ぬかるみを回る。
低い枝の下をくぐる。
俺だけが、何度も引っかかった。
枝に服がこすれる。
靴が泥を踏む。
息が荒くなる。
そのたびに、トワが振り返る。
怒ってはいない。
だが、急げという目だった。
分かっている。
分かっているが、身体がついていかない。
骨の輪は、今も俺の手の中にある。
握りすぎて、掌が痛かった。
突然、アオが止まった。
全員が止まる。
アオは地面を見ていた。
俺も見る。
枯れ葉。
泥。
細い枝。
いつもの俺なら、それだけだった。
だが、今回は違った。
泥の上に、小さな跡がある。
足跡だ。
小さい。
子どもの足。
アオが息を呑んだ。
リクも近づこうとして、すぐに止まった。
トワがしゃがむ。
足跡を指でなぞる。
その横に、別の跡があった。
大人の足跡。
一つではない。
子どもの足跡は、途中で乱れていた。
それから、引きずったような跡が続いている。
俺は喉が詰まった。
ミナは、ここを通った。
一人ではない。
そう見えた。
正しいかは分からない。
でも、アオの顔を見れば、だいたい分かった。
彼女は小さく何かを言った。
たぶん、ミナの名だった。
*
足跡を追うと、地面が少し下がっていった。
川へ向かっているのかと思った。
だが、水の音は遠い。
代わりに、岩が増えた。
木の根が張り出し、土がえぐれている。
雨で崩れた場所のように見えた。
その奥に、大きな倒木があった。
ただ倒れているだけではない。
枝や草が、不自然に重ねられている。
隠している。
そう思った瞬間、トワが手を上げた。
全員が止まる。
アオが倒木へ近づこうとする。
トワが腕を伸ばして止めた。
彼は地面を指した。
そこに、細いものがあった。
縄ではない。
草をねじったものだ。
地面すれすれに張られている。
俺は息を止めた。
罠。
動物用なのか。
人用なのか。
分からない。
だが、踏んではいけないものだということだけは分かった。
トワは小さな石を拾った。
それを縄の向こうへ投げる。
石が落ちた。
次の瞬間、横の茂みが跳ねた。
細い枝が勢いよく戻り、石の落ちた場所を打った。
乾いた音がした。
もし足だったら。
もし子どもだったら。
俺は思わず一歩下がった。
リクが子どもたちを抱き寄せる。
小さな子が震えた。
トワは表情を変えなかった。
だが、槍を握る手に力が入っていた。
これは自然にできたものではない。
誰かが作った。
そして、ここへ誰かを来させるために置いた。
俺たちは、やはり追い込まれていた。
*
トワが罠を避ける道を探す。
アオは待てない様子だった。
倒木の奥を見ている。
声を出しそうになり、唇を噛んで止める。
俺はアオの横にしゃがんだ。
何を言えばいいのか分からない。
大丈夫。
待て。
危ない。
どれも言えない。
言えたとしても、たぶん軽すぎる。
俺は手の中の骨の輪を少し見せた。
アオがそれを見る。
俺は倒木の奥を指す。
それから、耳に手を当てた。
聞こえるか。
そう尋ねたつもりだった。
アオはしばらく俺を見た。
それから、ゆっくり目を閉じた。
森の音。
遠くの声。
葉の擦れる音。
子どもたちの息。
俺も耳を澄ませた。
何も聞こえない。
いや。
聞こえた。
かすかだった。
風かと思うほど小さい。
でも、風ではない。
声。
子どもの声。
アオの目が開いた。
彼女も聞いたのだ。
トワも顔を上げる。
リクが息を止める。
もう一度。
今度は、はっきり聞こえた。
「……アオ」
アオの身体が固まった。
俺の掌の中で、骨の輪が冷たくなる。
声は、倒木の奥からではなかった。
もっと下だ。
土の下。
いや、岩の隙間の奥。
俺は地面を見た。
ここにいる。
ミナは、ここにいる。
だが、同時に分かった。
ここは、見つけたら終わりの場所だ。
ミナを出せば、俺たちの居場所も知られる。
出さなければ、子どもは土の下にいる。
アオが動こうとした。
トワが止める。
アオが振り払おうとする。
そのとき、森の向こうで男たちの声が近づいた。
「ミナ」
さっきより近い。
完全にこちらへ向かっている。
俺は倒木を見た。
罠を見る。
土の下の声を聞く。
考えろ。
そう思った。
未来の知識なんて、ほとんど役に立たない。
だが、考えることだけはできる。
ここで誰か一人が焦れば、全員が終わる。
俺はアオの腕をつかんだ。
彼女が俺を見る。
怒った目だった。
俺は首を振った。
強く。
そして、地面を指した。
次に、耳を指す。
最後に、森の向こうを指す。
来ている。
待て。
聞け。
伝わったかどうか分からない。
アオの腕は震えていた。
それでも、彼女は動きを止めた。
土の下から、もう一度声がした。
「……アオ」
今度は、泣いていた。
アオの目に、火のようなものが宿った。
トワが槍を構える。
リクが子どもたちを岩の陰へ押し込む。
俺は手の中の骨の輪を握りしめた。
助けたい。
でも、どうやって。
森の向こうから、枝を踏む音がした。
一人ではない。
近い。
すぐそこだ。
俺たちは、ミナを見つけた。
そして同時に、追いつかれた。
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