第49話 嘘の道
「返せ」
その声が、森の中に落ちた。
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だから余計に近く聞こえた。
アオの手が、俺の腕をつかんでいる。
強い。
骨までつかまれているようだった。
リクの顔から、血の気が引いていた。
子どもたちは、倒木の下で息を殺している。
小さな子の喉が、ひゅっと鳴った。
泣き出す。
そう思った瞬間、抱いていた少女が、その子の口元に自分の手を当てた。
乱暴ではない。
だが必死だった。
この森では、泣き声にも重さがある。
誰かを呼ぶ。
誰かに知られる。
それだけで、命の場所が変わる。
アオは俺の腕を離した。
そして、リクを指す。
子どもたちを指す。
川の方を指す。
行け。
そういう意味だ。
リクは首を振った。
アオはもう一度、川を指した。
今度は強く。
リクの唇が震えた。
声は出なかった。
森の向こうで、葉が揺れる。
足音が二つ。
いや、三つ。
俺には多く聞こえた。
怖いと、音は増える。
現代でもそうだった。
夜中のアパートで、上の階の足音を聞いていると、一人が三人くらいになる。
ここでは、その三人が本当に槍を持っているかもしれない。
冗談にできないところが、つらい。
アオは短い枝を拾った。
二股に割れた枝。
それを俺に見せる。
次に、自分の胸を指す。
森の奥を指す。
追わせる。
そういうことか。
俺は思わず首を振った。
アオが追われる。
俺たちは逃げる。
それが一番いいのかもしれない。
でも、それは一番苦い。
トワが俺を見る。
短く、あごを動かした。
行け。
今度はトワも同じことを言っている。
俺は倒木の下を見た。
少女が、小さな子を抱きしめている。
白い骨の欠片が、その指の間に見えた。
リクはまだ動かない。
その足元で、小さな子がリクの獣皮を握っていた。
強く。
小さな指で。
リクはその手を見た。
そして、目を閉じた。
次に開けたとき、彼女はアオではなく、子どもを見ていた。
歩く。
そう決めた顔だった。
*
俺たちは川へ向かった。
リクが先に子どもを抱え、少女がその後ろを歩く。
俺は一番後ろについた。
ついた、というより、そうなった。
本当は前を歩いた方が安全かもしれない。
いや、違う。
俺が前を歩くと、たぶん全員が危ない。
枝を踏む。
泥にはまる。
見なくていいものを見る。
それが俺の今の実力だ。
だから後ろを歩く。
後ろなら、せめて落ちたものに気づける。
そう自分に言い聞かせた。
少し進んだところで、足元に二股の枝が落ちていた。
アオが持っていたものとは違う。
だが、形は似ている。
俺はそれを拾った。
リクが振り返る。
早く。
そういう目だった。
俺はうなずいた。
うなずいてから、枝を折った。
片方だけ短くする。
もう片方を泥で半分隠す。
そして、川とは少し違う方向へ置いた。
流れた枝。
俺が勝手に作った、意味のない印。
いや、意味はある。
間違えるための意味だ。
森の中で、人は正しい道だけを読むわけではない。
間違った道も読む。
だったら、間違った道を作れるかもしれない。
俺はもう一つ、枝を拾った。
また折る。
泥をつける。
草の下に半分だけ見えるように置く。
現代でやっていたことと、少し似ていた。
画面に表示される小さな印。
誰かが押し間違えないようにする配置。
あるいは、押してほしい場所へ目を向けさせる配置。
ただし、今ここに画面はない。
あるのは泥と枝と、近づいてくる足音だけだ。
リクが戻ってきた。
俺の手首をつかむ。
強い。
今日、この時代の人たちは、俺の腕や手首をつかむ力で会話をしている。
たぶん、「早くしろ」という意味だ。
かなり正確に伝わっている。
俺は歩き出した。
その直後、後ろで声がした。
「こっちだ」
知らない男の声。
近い。
俺の背中が冷えた。
リクも止まりかけた。
だが、子どもがまた獣皮を握った。
リクは止まらなかった。
足音が、俺たちの進んだ方ではなく、少し横へ流れる。
嘘の枝の方へ。
効いた。
俺が作ったものを、誰かが読んだ。
それが怖くて、少しだけ嬉しかった。
嬉しいと思った自分に、すぐ驚いた。
これは遊びではない。
でも、生きるために何かが伝わった。
そのことだけは、確かだった。
俺は息を吐きそうになって、やめた。
安心するには、まだ早い。
この世界は、安心した瞬間に枝を踏ませてくる。
俺だけかもしれないが。
*
川の音が近づいた。
細い流れだ。
足首ほどの水が、石の間を走っている。
リクは子どもを抱えたまま渡ろうとした。
だが、小さな子の身体がずるりとずれた。
俺は慌てて手を出した。
支えようとして、自分の足が石の上で滑った。
危ない。
そう思ったときには、もう腰まで水に入っていた。
冷たい。
声が出そうになった。
出したら終わる。
俺は口を閉じたまま、変な顔をした。
リクが一瞬だけ俺を見た。
こんなときなのに、ほんの少しだけ目が変わった。
笑った、のかもしれない。
いや、笑ってはいけない場面だ。
でも、人は場面に合わせて感情を出すわけではない。
たぶん、少しだけ笑った。
少女も俺を見た。
泣きそうだった顔が、少しだけ別の形になった。
俺は水の中で動けずにいた。
役に立ったのか、邪魔をしたのか分からない。
ただ、小さな子は落ちなかった。
それだけは確かだった。
リクがその子を抱え直し、川を渡る。
少女が続く。
俺は最後に、濡れた足を引きずって上がった。
足音が増えた気がする。
いや、水の音かもしれない。
怖いと、音はまた増える。
川を渡ったところで、トワが追いついた。
息が荒い。
肩に泥がついている。
アオはいない。
リクがトワを見る。
トワは首を横に振らなかった。
縦にも振らなかった。
ただ、森の奥を指した。
まだ動いている。
まだ逃げている。
そういう意味だと思った。
リクは唇をかんだ。
そして、子どもを抱え直した。
*
少し開けた場所に出た。
大きな石がいくつか並び、その間に枯れた葉がたまっている。
風が抜ける。
火のない場所は、どれも同じように寒い。
トワはここで止まった。
リクに、子どもを下ろせと示す。
小さな子は目を閉じている。
呼吸はある。
さっきより少し浅い。
俺はその顔を見た。
頬に泥。
髪に草。
唇の端に乾いた土。
現代なら、救急車を呼ぶ。
病院へ運ぶ。
体温を測る。
点滴をする。
ここでは、手を当てる。
呼吸を見る。
冷やさないようにする。
そのくらいしかできない。
そのくらいを、ちゃんとやるしかない。
俺は自分の濡れた獣皮を見た。
使えない。
むしろ冷やす。
リクが乾いた葉を集める。
少女が小さな子の足をさする。
トワが周囲を見る。
それぞれが、できることをしている。
俺も何かを探した。
探して、地面に落ちているものを見つけた。
白い骨の欠片。
さっき少女が握っていたものだ。
川を渡るときに落ちたのかもしれない。
俺は拾い上げた。
少女がすぐに手を伸ばした。
返して。
その目だった。
俺は渡そうとした。
そのとき、森の向こうからアオが現れた。
音もなく、というわけではない。
枝を踏み、息を乱し、肩で呼吸していた。
人は、追われれば音を出す。
アオも人だった。
それが、なぜか少し安心した。
リクが立ち上がる。
アオは彼女を見た。
次に、俺の手の中の骨を見た。
顔が変わった。
俺は慌てて骨を差し出した。
少女のものだ。
そう示すつもりだった。
アオは首を振った。
そして、低く言った。
「それじゃない」
俺は手の中の骨を見た。
それじゃない。
何が違う。
追われているものは、これではないのか。
アオは俺に近づいた。
俺は思わず一歩下がりそうになった。
だが、彼は骨ではなく、俺の籠を指した。
籠に結ばれた短い縄。
少年の結び目。
アオはその結び目を、指で触れないまま見た。
そして、かすれた声で言った。
「それを、見せるな」
俺は自分の籠を見た。
ただの短い縄。
雨の朝、少年が俺にくれたもの。
ほどけにくく、外しやすい。
俺が教えた形ではなく、あの子が自分で変えた形。
ただのものでは、なかった。
森の奥で、また声がした。
さっきより近い。
「アオ」
男の声が、笑っていた。
「そっちか」
アオの手が、俺の籠の縄をつかんだ。
その指が、震えていた。
俺は初めて思った。
追われているのは、アオだけではない。
この結び目も、追われている。
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