第48話 声を出すな
そして、その背後で、別の影が動いた。
俺は息を止めた。
リクの肩が、ぴくりと上がる。
トワは槍を握ったまま、動かなかった。
前にいる男は、片手を口元に当てている。
声を出すな。
そういう形だった。
だが、その後ろで動いた影が、何なのか分からない。
敵か。
味方か。
それとも、もう逃げる力も残っていない誰かなのか。
リクが一歩出ようとした。
トワの手が、その腕を押さえる。
リクはトワを見た。
怒っている。
けれど、声は出さなかった。
前の影が、ゆっくり膝をつく。
その動きで、後ろの影が見えた。
小さい。
大人ではない。
子どもだ。
背中を丸め、両手で何かを抱えている。
葉で包んだ魚かと思った。
違った。
さらに小さな子どもだった。
俺の頭の中で、言葉が一瞬遅れた。
子どもが、子どもを抱えている。
前にいる男は、その二人を隠すように身体を置いていた。
若い男だった。
トワより少し若いかもしれない。
頬に泥がつき、額の横に乾いた血がある。
目だけが、妙にはっきりしていた。
リクが、喉の奥で小さく音を出した。
「ア……」
男はすぐに首を振った。
声を出すな。
もう一度、そう示す。
リクの顔が歪んだ。
泣きそうにも、怒りそうにも見えた。
そのどちらでもないのかもしれない。
この時代の顔は、俺の知っている名前に収まらないことが多い。
トワが低く言った。
「アオ」
男は、ほんの少しだけ目を動かした。
返事の代わりに、指で地面を指す。
ここにいる。
そう言ったように見えた。
アオ。
やっと、その名前が人の形を持った。
けれど、会えたという感じではなかった。
見つけた瞬間から、もう追われている。
そういう人の形だった。
*
アオは俺たちを、倒れた木の下へ押し込んだ。
根の陰に、わずかな隙間がある。
そこに子ども二人を入れ、リクを入れ、俺を入れようとしたところで、俺の肩が引っかかった。
入らない。
正確には、入る。
だが、時間がかかる。
この時代に来てから、俺は何度も思っている。
現代人の身体は、便利な場所で生きるためにできている。
倒木の下へ静かに素早く入るようには、たぶん設計されていない。
アオが俺を見た。
不思議そうだった。
俺は腹をへこませた。
意味があるかは分からない。
リクが俺の腕を引いた。
思ったより強い。
俺は根と土の間に、どうにか身体を滑り込ませた。
背中に泥がついた。
もう、どこが泥でどこが俺なのか分からない。
トワは外に残った。
アオも外だ。
二人は倒木の前に立ち、森の奥を見ている。
子どもを抱えていた少女は、息を殺していた。
腕の中の小さな子は、眠っているのか、気を失っているのか分からない。
リクがその顔に手を当てる。
額。
頬。
首。
呼吸はある。
浅い。
だが、ある。
少女の手が震えていた。
その指が、白いものを握っている。
骨だ。
細く削られた骨の欠片。
作りかけの骨の輪と同じ色だった。
まだ古くなっていない白。
削られて間もない白。
俺が見ていることに気づき、少女は骨を隠すように手を丸めた。
俺は両手を少し上げた。
取らない。
そう示したつもりだった。
伝わったかどうかは分からない。
だが、少女は泣かなかった。
それだけで、今は十分だった。
森の奥で、枝が折れる音がした。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
近い。
アオはすぐに膝をついた。
湿った土に、指を走らせる。
割れた枝の印。
それを描きかけて、止めた。
そして、手のひらで消した。
俺はその動きを見た。
印が使えない。
今は、その意味が分かった。
あの男たちは、印を見て笑った。
道しるべが、もう道しるべだけではなくなった。
誰かを助けるためのものが、誰かを追うためのものにもなる。
文字がない時代でも、情報は盗まれる。
俺の頭にそんな言葉が浮かんだ。
言葉だけは現代のままだ。
役に立つかどうかは、別の話だ。
アオは消した印の横に、短い線を三つ入れた。
一本目は川。
二本目は倒木。
三本目は、その奥。
トワがそれを見て、短く息を吐いた。
リクは首を振った。
行きたくない。
いや、行かせたくない。
そんな顔だった。
アオは少女を指した。
小さな子を指した。
それから、森の奥を指す。
まだいる。
その意味だけは、俺にも分かった。
まだ、誰かがいる。
助ける人数が増えれば増えるほど、安心するはずなのに、そうならない。
この森の中に、まだ人がいるということは、追う者もまた近いということだ。
*
倒木の下から出ると、足が少し震えた。
寒さのせいにしたい。
だが、たぶん違う。
アオが俺の手を見た。
次に、腰。
肩。
籠。
知らないものを見る目だった。
最初に俺がこの世界を見ていた目と、少し似ている。
けれど、アオの目にはもう一つ別のものがあった。
警戒。
それから、かすかな疑い。
俺は自分を指した。
「サエ」
声は小さくした。
トワが俺を指して、もう一度言った。
「サエ」
アオは何も言わなかった。
だが、俺の籠に結ばれた短い縄を見た。
少年がくれた結び目だ。
あの集落を出る前、俺の手に渡された短い縄。
ほどけにくく、けれど外しやすい。
俺が教えた形ではない。
少年が、自分で変えた結び目。
アオの指が、その縄に近づいた。
触れる直前で止まる。
彼は結び目を見ていた。
長く。
かなり長く。
リクもそれに気づいた。
トワも見ている。
俺だけが、意味を知らない。
まただ。
俺はいつも、自分の持ち物の意味を最後に知る。
アオは、自分の手を見せた。
爪の間に、白い粉が入っている。
骨を削った粉だ。
濡れて、泥と混じっているが、白さは残っていた。
リクが壊れた籠に入れていた、あの白い傷。
半分だけできた骨の輪。
あれを作ったのは、アオなのか。
誰かのために。
イナの骨の輪と、同じようなものを。
俺の頭の中で、川と森と集落が、少しずつつながり始めた。
だが、完成した地図ではない。
濡れた灰に描かれた、消えかけの線だ。
アオは、俺の籠の縄を見たまま、かすれた声を出した。
「イナ」
俺は動けなかった。
耳が、その音だけを拾った。
イナ。
この森の奥で。
この泥の中で。
アオの口から、その名前が出た。
トワが、俺を見る。
リクも、俺を見る。
俺は何も返せなかった。
イナの手を思い出した。
火のそばで、骨の輪を拭いていた手。
俺の籠の紐を直した手。
行く俺に、何も多く言わなかった顔。
その名前が、知らない森の中で急に開いた。
懐かしいというより、怖かった。
名前は、人を連れてくる。
いないはずの場所まで。
*
森の奥で、また枝が折れた。
今度は、すぐ近くだった。
トワが槍を構える。
リクが子どもたちの前に出る。
俺も何かをしようとした。
何をするのかは決まっていない。
ただ、手だけが先に動いた。
足元に、割れた枝が落ちている。
二股に分かれた小さな枝。
俺はそれを拾った。
そのまま土に置けば、あの印になる。
追う者が知っている印だ。
だから、片方を少し折った。
もう片方を、泥で隠す。
割れた枝ではなく、流れた枝。
川に引かれたような形。
正しい意味はない。
でも、間違った意味なら作れる。
アオの目が細くなった。
彼は一瞬だけ俺の手元を見て、それから同じように土をならした。
トワが短くうなずく。
伝わった。
ほんの少しだけ。
俺は息を吐いた。
この世界で、初めて嘘の道を作った気がした。
いいことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ、今は生きるための線だった。
枝の音が止まる。
誰かが近くで立ち止まった。
葉の向こうに、足が見えた。
一人。
いや、二人。
アオが、音もなく口を動かした。
声にはならない。
だが、形だけは分かった。
逃げろ。
その瞬間、森の向こうから低い声がした。
「アオ」
知らない男の声だった。
低く、笑っているような声だった。
少し間を置いて、同じ声が言った。
「返せ」
アオの手が、俺の腕をつかんだ。
リクの顔から、血の気が引いた。
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