第46話 笑った男
男は、低く笑った。
声は大きくない。
だが、根の下に隠れている俺には、すぐ耳のそばで聞こえたように感じた。
割れた枝の印。
その下の短い線。
男は、それを知っている。
少なくとも、ただの傷だとは思っていない。
男は、すぐに仲間を呼んだ。
足音が戻ってくる。
一人。
二人。
三人。
根のすぐ外で止まった。
俺は息を止めた。
止めすぎて、胸が痛くなる。
リクの腕の中で、子どもが震えていた。
リクはその口元に手を添えたまま、動かない。
トワは槍を握っている。
だが、出ない。
出れば終わる。
それは俺にも分かった。
男は木の幹を指でなぞった。
もう一度、笑う。
一人の男が、しゃがんだ。
根の下をのぞこうとしている。
まずい。
そう思った瞬間、俺の手に何かが触れた。
さっき滑り込んできた葉だった。
乾いた葉。
泥はついているが、まだ形が残っている。
俺はそれを見た。
葉。
根の隙間。
外。
男の足。
頭の中で、何かがつながった。
役に立つかは分からない。
だが、何もしなければ見つかる。
俺はゆっくり、葉を指先で押した。
根の隙間から外へ。
ほんの少し。
葉は動いた。
男の目が、そちらへ向く。
しまった。
そう思った。
だが、葉は根の外へ出ると、風に押されて転がった。
斜面の下へ。
かさり、と音がした。
男がそちらを見た。
もう一枚。
近くにあった小枝を、俺は指先で押した。
今度は少し強すぎた。
小枝が根に当たり、軽い音を立てる。
トワの手が俺の腕を押さえた。
やめろ。
そういう手だった。
だが、男たちはもう根の下ではなく、斜面の下を見ている。
一人が声を上げた。
別の男がそちらへ歩き出す。
俺が動かしたのは、ただの葉だった。
ただの小枝だった。
それでも、男たちの目が一瞬だけ外れた。
その一瞬で、俺たちは見つからずに済んだ。
俺は動かなかった。
心臓だけが、勝手に走っていた。
*
男たちは、斜面の下へ向かった。
全員ではない。
印を見つけた男だけが、まだ木の前に残っている。
彼はしゃがんだまま、根のあたりを見ていた。
疑っている。
完全には外れていない。
トワの指が、槍の柄を少し握り直した。
リクの手に力が入る。
子どもは目を閉じている。
泣かないようにしている。
この小さな身体が、今いちばん強いのかもしれない。
男は根の前に手を伸ばした。
近い。
指が、土に触れる。
あと少しで、俺の足に届く。
俺は動けなかった。
そのとき、遠くで鳥が大きく飛び立った。
ばさばさ、と枝が揺れる。
斜面の下へ向かった男たちが、声を上げた。
印を見ていた男が顔を上げる。
もう一度、根の下を見た。
それから、立ち上がった。
仲間の方へ歩いていく。
足音が離れる。
一歩。
二歩。
三歩。
俺はまだ息を吐けなかった。
完全に聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。
*
どれくらい経ったのか分からない。
森の音が戻った。
虫の声。
鳥の声。
葉の揺れる音。
さっきまで全部遠かった音が、少しずつ戻ってくる。
トワが最初に動いた。
根の外を見て、しばらく待つ。
それから、ゆっくり俺を見る。
目が細い。
怒っている。
いや、怒っているというより、確かめている。
俺が何をしたのか。
俺自身にも、うまく説明できない。
葉を動かした。
音をずらした。
ただ、それだけだ。
現代で言えば、注意をそらした。
いや、そんな立派なものではない。
会議中に通知音が鳴って、全員が画面を見る。
あれに近い。
俺は小さく肩をすくめた。
通じるわけがない。
リクが俺を見ていた。
子どもを抱えたまま。
彼女は何か言いかけた。
だが言わなかった。
代わりに、子どもの額へ自分の額を近づけた。
子どもは目を閉じたまま、浅く息をしている。
熱がある。
まだ逃げられる状態ではない。
トワは木の印を見た。
男が指でなぞったせいで、傷のまわりに泥がついていた。
もう、隠れる印としては危ない。
男たちは、この印を知っている。
アオの印は、安全なものではなくなった。
いや、最初から安全ではなかったのかもしれない。
知っている者には、道しるべになる。
知らない者には、ただの傷。
さっきまでは、そうだった。
でも今は違う。
追う者も、それを読める。
*
トワは印の下へ手を伸ばした。
短い線を指でこすった。
消すのかと思った。
だが、消さなかった。
代わりに、線の横へ別の傷をつけた。
槍の先ではない。
石の欠片を使って、浅く。
一本。
それから、少し離れた場所へもう一本。
俺には意味が分からない。
リクは見ていた。
顔色が変わった。
彼女は小さく首を振る。
トワは答えない。
さらに、元の割れた枝の印の一部を泥で薄く隠した。
完全には消さない。
読める者には読める。
だが、少し違う。
俺はそこで気づいた。
これは、アオへの印ではない。
追う者への印でもない。
後から来る誰かを迷わせるための印だ。
地図を書き換える。
いや、地図ではない。
森の中の、読める者だけが読む文字。
トワはそれを書き換えている。
俺は背中が冷たくなった。
この時代には文字がない。
そう思っていた俺は、何度も間違えていた。
文字はある。
ただ、紙に書かれていないだけだ。
*
リクが子どもを抱き上げようとした。
だが、子どもは痛そうに顔を歪めた。
足の傷。
熱。
身体が軽すぎる。
このまま歩かせるのは無理だ。
リクが抱いて進むことはできる。
だが、速くは動けない。
トワは森の奥を見た。
次に、川の方を見る。
戻るか。
進むか。
どちらも危ない。
俺は子どもの呼吸を見た。
速い。
だが、さっきより少し落ち着いている。
水を少し飲ませた方がいい。
休ませた方がいい。
でも、ここに長くいるのも危ない。
頭の中で、現代の言葉が並ぶ。
リスク。
優先順位。
移動可能性。
安全確保。
どれも、この森では頼りない。
だが、考えるしかない。
俺は岩の方を指した。
さっき骨を削っていた場所。
雨宿りできる岩。
少なくとも、根の下よりは広い。
トワが俺を見る。
俺は子どもを指し、岩を指す。
休む。
隠れる。
そう伝えたかった。
リクも岩の方向を見た。
迷っている。
トワはしばらく黙っていた。
それから、短くうなずいた。
たぶん、うなずいた。
俺は胸の奥で息を吐いた。
少なくとも、今は同じ方向を見ている。
*
移動は、思ったより難しかった。
リクが子どもを抱く。
トワが先に立つ。
俺は後ろを見る。
後ろを見る役。
それだけで、首が痛くなる。
何も見えない。
何も見えないのに、何かいる気がする。
これがいちばん疲れる。
少し進むたび、トワが止まる。
耳を澄ませる。
枝を見る。
地面を見る。
俺も真似をする。
やはり分からない。
だが、分からないから見ない、ではなくなった。
分からなくても見る。
それが、今の俺にできることだった。
岩の近くまで戻ったとき、リクが小さく声を出した。
岩の下に、何かが置かれていた。
さっきはなかった。
少なくとも、俺は見ていない。
小さな木の実だった。
割れていない。
一つだけ。
その横に、白い骨の粉が少し落ちている。
トワの顔が変わった。
リクが子どもを抱く腕に力を入れる。
俺は木の実を見た。
さっきリクが震えながら拾った殻。
あれと同じものだ。
誰かが、ここに戻ってきた。
俺たちが根の下に隠れている間に。
アオなのか。
それとも、別の誰かなのか。
トワがゆっくり膝をつき、木の実に触れた。
木の実は、まだ濡れていなかった。
泥の上に置かれてから、時間が経っていない。
その下に、浅い傷があった。
割れた枝の印ではない。
一本の線。
川の方ではない。
森のさらに奥へ向いていた。
リクが息を止めた。
子どもが、うっすら目を開ける。
そして、ほとんど聞こえない声で言った。
「……アオ」
俺は初めて思った。
アオは、遠くにいるのではない。
俺たちのすぐ近くにいる。
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