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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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45/121

第45話 来るもの

枝を踏む音がした。


一度。


二度。


こちらへ近づいていた。


いや、近づいているのは一つではなかった。


上からも聞こえる。


後ろからも聞こえる。


トワが槍を握ったまま、身体を低くする。


リクは子どもを抱き寄せた。


俺は、息を止めようとして失敗した。


喉の奥で、変な音が出そうになる。


慌てて口を閉じる。


こういうとき、静かにすることが一番難しい。


子どもは、リクの胸に顔を押しつけている。


だが、目だけは横へ向いていた。


森の奥ではない。


俺たちが来た方でもない。


少し上。


斜面の方だ。


俺はその視線を追った。


木々の間に、薄く明るい場所がある。


斜面。


そこから何かが来ている。


「上……」


日本語が漏れた。


トワには通じない。


だが、俺が指した方向を見て、彼の目が変わった。


トワはすぐにリクの肩を押した。


低く。


もっと低く。


リクは子どもを抱いたまま、根の陰へ身体を沈める。


俺も伏せた。


湿った土の匂いが近い。


顔のすぐ横に、小さな虫がいた。


今は気にしない。


気にしないと決めた。


虫は、こちらを歩いてきた。


やはり気になる。


だが、動かなかった。


*


音が近づいた。


枝。


葉。


小石。


何かが斜面を下りてくる。


人の足音ではない。


もっと重い。


もっと乱れている。


トワが槍を少し上げた。


その瞬間、茂みが揺れた。


飛び出してきたのは、人ではなかった。


鹿だった。


いや、鹿に似た動物だった。


細い脚。


濡れた毛。


大きく開いた目。


それが俺たちの前を横切った。


速い。


泥を蹴り、枝を折り、川の方へ駆けていく。


俺は思わず身体を起こしかけた。


トワの手が、俺の肩を押さえた。


強い。


動くな。


そういう手だった。


鹿のような動物は、あっという間に見えなくなった。


森は静かになった。


いや、静かではない。


俺の心臓だけが、やけにうるさかった。


終わったのか。


そう思いかけた。


子どもは、まだ震えていた。


リクの腕の中で、小さな身体が固まっている。


鹿を見ていない。


鹿が走っていった方も見ていない。


子どもは、まだ斜面を見ていた。


俺は、そこでやっと分かった。


あの動物は、来るものではなかった。


逃げてきたものだ。


*


トワも気づいたらしい。


槍を下げない。


斜面の上を見ている。


リクが子どもをさらに強く抱く。


俺は唾を飲み込んだ。


動物が逃げる。


その後ろに、何がいる。


考えたくなかった。


けれど、考えないわけにはいかなかった。


現代なら、画面を見る。


通知を見る。


原因を探す。


ログを追う。


何が先に起きたのか。


何が後から来たのか。


ここにはログがない。


だが、森にも順番はある。


枝が折れる。


動物が逃げる。


子どもが震える。


その後ろに、まだ何かがある。


俺は斜面を見た。


木の根。


石。


落ち葉。


その中に、細い線が見えた。


岩ではない。


木の幹だった。


幹の低いところに、浅い傷がある。


二本に分かれた線。


割れた枝の印。


トワは斜面を見ていた。


リクは子どもを見ていた。


俺だけが、その印を見ていた。


俺はトワの腕を軽く叩いた。


音を立てないように。


それから、その印を指した。


トワが見る。


リクも見る。


子どもが、小さく息を吸った。


その印の下に、もう一つ線があった。


短い線。


横ではない。


下へ向いている。


道を示しているようには見えなかった。


上へ行け、でもない。


下へ行け、でもない。


隠れろ。


そう見えた。


本当にそうなのかは分からない。


俺がそう見たいだけかもしれない。


だが、子どもはその印を見ていた。


そして、根の下へ身体を縮めようとしていた。


アオの印。


逃げ道ではない。


隠れる場所。


俺はそう思った。


*


トワが動いた。


声は出さない。


手だけで示す。


リク。


子ども。


根の下。


俺。


その横。


トワは最後。


そういう順番だった。


リクは子どもを抱え、根の奥へ身体を入れた。


小さな穴だ。


大人には狭い。


それでも、身体を丸めれば隠れられる。


俺も横へ滑り込む。


肩が木の根に当たった。


痛い。


だが声は出さない。


今度は出さなかった。


少しだけ成長したと思いたい。


トワは最後に入った。


完全には隠れない。


外を見られる位置にいる。


槍を持ったまま、身体の半分だけ影に沈めていた。


リクの腕の中で、子どもが息を殺している。


俺も息を殺した。


そのとき、斜面の上で、また枝が折れた。


今度は軽い音だった。


一つ。


また一つ。


人だ。


俺にも分かった。


人の足音だった。


*


足音は、斜面を下りてきた。


一人ではない。


二人。


いや、もっといる。


声がした。


低い声。


短い声。


知らない音だった。


トワの身体が、さらに低く沈む。


リクが子どもの口元へ手を添えた。


強くふさいでいるのではない。


声が漏れないように、そっと当てている。


子どもは泣かなかった。


泣かないようにしていた。


俺は根の隙間から外を見た。


足が見えた。


泥のついた足。


草で編んだ履き物。


二つ。


三つ。


四つ。


知らない者たちだ。


俺たちの集落の者ではない。


リクの集落の者でもない。


少なくとも、彼女の身体がそう言っていた。


リクは固まっている。


壊れた籠を抱く手が震えていた。


知らない男たちは、さっき鹿のような動物が走っていった方を見た。


一人が何か言う。


別の者が笑った。


笑い声だった。


だが、楽しい声には聞こえなかった。


俺の背中に汗がにじむ。


一人が、木の根の近くまで来た。


近い。


近すぎる。


俺は目を閉じたくなった。


閉じたら、余計に怖い気がした。


その男は、地面に落ちていた葉を蹴った。


葉が根の中へ滑り込んできた。


俺の手に触れた。


動くな。


自分に言った。


動くな。


男はしばらく立っていた。


それから、別の方向を向いた。


*


声がまたした。


その中に、一つだけ聞き取れた音があった。


「アオ」


俺の胸が止まった。


いや、止まってはいない。


だが、一瞬そう感じた。


リクの腕に力が入る。


子どもが小さく震える。


トワは動かなかった。


知らない男たちは、何かを言い合っている。


アオ。


その音だけは、もう一度聞こえた。


探しているのか。


呼んでいるのか。


追っているのか。


俺には分からない。


だが、一つだけ分かった。


この男たちは、アオを知っている。


足音が少しずつ遠ざかった。


完全に消えるまで、誰も動かなかった。


リクも。


トワも。


俺も。


子どもも。


森の音が戻ってきたころ、俺はようやく息を吐いた。


吐いた瞬間、身体が震えた。


怖かった。


今さら、はっきり怖かった。


トワがゆっくり外を見た。


リクは子どもを抱いたまま、目を閉じている。


俺は根の隙間から、さっきの木の幹を見た。


割れた枝の印。


その下に刻まれた短い線。


隠れろ。


アオは、ここに来る誰かを知っていた。


そして、その誰かから隠れる場所を残していた。


そう思ったときだった。


遠ざかったはずの足音が、一つだけ戻ってきた。


男が一人、木の幹の前で止まった。


割れた枝の印を見ている。


俺は息を止めた。


男はその印を指でなぞった。


そして、低く笑った。

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