第44話 声のする方へ
森の奥から、かすかな声が聞こえた。
小さい。
けれど、風ではなかった。
人の声だった。
トワが槍を握る。
リクが一歩前へ出た。
その腕を、トワがすぐに押さえる。
リクは振り払おうとした。
だが、トワは離さない。
二人の間に、短い声が交わされた。
俺には意味が分からない。
けれど、リクが行きたがっていることは分かった。
トワが止めていることも。
声は、もう一度聞こえた。
今度は少し近い。
泣き声のようだった。
いや、違う。
泣いているのに、泣かないようにしている声だ。
俺は息を止めた。
子どもかもしれない。
そう思った瞬間、リクの身体がまた前へ動いた。
トワが低く声を出す。
リクは止まった。
止まったが、壊れた籠を抱く手に力が入っていた。
トワが手を下げろと示した。
身を低くする。
進む。
*
俺は静かに歩こうとした。
静かに歩こうとした人間ほど、枝を踏む。
森はそういう仕組みでできているらしい。
足元で小さな枝が折れた。
乾いた音。
俺は固まった。
トワが振り返る。
リクも振り返る。
俺は何もなかった顔をした。
通じなかった。
トワは少しだけ目を細めた。
怒っているのではない。
呆れているのだと思う。
たぶん、そのほうがつらい。
声はまた聞こえた。
今度は、左の方だった。
トワがすぐ向きを変える。
リクも続く。
俺は足元を見た。
もう枝は踏まない。
そう決めた直後、今度は濡れた葉で滑りかけた。
森は、現代人に厳しい。
だが、転ばなかった。
そこは少しだけ成長したと思いたい。
進むほど、声ははっきりした。
高い声。
子どもだ。
だが、助けを呼んでいる声ではない。
口をふさがれたような、喉の奥で止まる声だった。
リクが息を吸った。
名前を呼びそうになったのかもしれない。
トワが指を口元へ当てる。
リクは唇を噛んだ。
*
声は、木の根の下から聞こえていた。
大きな木だった。
雨で土が流され、根の下に小さな穴ができている。
大人は入れない。
だが、子どもなら入れる。
トワが槍の先で草をそっと払った。
中に、子どもがいた。
小さな身体を丸めている。
髪に泥がつき、頬にも土がこびりついていた。
口元には、草の葉が挟まれている。
最初、俺は息が止まった。
誰かがふさいだのか。
そう思った。
だが違った。
草はきつく詰められていない。
声を小さくするために、自分で噛んでいたのかもしれない。
あるいは、誰かにそうしろと言われたのかもしれない。
子どもの目が、こちらを見た。
怯えている。
リクが前へ出た。
「――」
彼女が何か言った。
声は震えていた。
子どもの目がリクを見た。
一瞬だけ、力が抜ける。
知っている人なのだ。
リクは穴へ手を伸ばした。
その瞬間、トワが彼女の肩をつかんだ。
リクが振り返る。
今度は、本気で怒っていた。
トワも目をそらさない。
穴の周り。
木の上。
森の奥。
トワは順に指した。
まだ危ない。
そう言っているのだと思った。
リクは歯を食いしばった。
それでも手を引いた。
俺は子どもを見た。
息はしている。
速い。
肩が小さく上下している。
額には泥と汗が混じっていた。
熱があるのかもしれない。
足に傷があった。
深くはない。
だが、泥が入っている。
俺は近づこうとして、トワを見た。
トワはうなずかなかった。
首も振らなかった。
ただ、俺の手元を見た。
俺が何をするのかを見ている。
俺にできることは少ない。
医者ではない。
薬もない。
清潔な布もない。
それでも、何もしないよりはいいことがある。
俺はゆっくり手を上げた。
子どもに見せる。
触る。
そう伝えたかった。
子どもは俺を見た。
リクを見る。
トワを見る。
それから、小さくうなずいた。
たぶん、うなずいた。
俺は穴の前に膝をついた。
まず、草の葉を外した。
子どもは咳き込んだ。
リクが動きかける。
トワが止める。
俺は子どもの胸を見る。
息はある。
速いが、止まってはいない。
額へ手を当てた。
熱い。
やはり熱がある。
足の傷を見る。
泥を払いたくなる。
だが、強くこすれば余計に悪くなる。
水が要る。
俺は自分の口を指し、手で飲む仕草をした。
トワがすぐに筒を出した。
俺は少しだけ水を手に受け、傷の周りへ垂らした。
泥が流れる。
子どもが痛そうに顔を歪めた。
リクが息を殺す。
俺も息を止めそうになった。
だが、止めてはいけない。
ここで一番落ち着いているふりをしなければならないのは、俺だった。
ふりでもいい。
ふりは、ときどき役に立つ。
*
傷の泥を少し落とすと、血の色が見えた。
まだ新しい。
だが、深くはなかった。
俺はほっとした。
ほっとした途端、子どもの目が動いた。
俺を見ていない。
リクも見ていない。
トワも見ていない。
俺たちの後ろを見ていた。
背中が冷たくなった。
俺はゆっくり振り返ろうとした。
その前に、子どもの手が俺の腕をつかんだ。
小さい手だった。
泥だらけで、熱かった。
子どもは首を振った。
見るな。
そう言っているようだった。
俺は動きを止めた。
トワを見る。
トワはまだ子どもの足元を見ていた。
リクは子どもの顔しか見ていない。
気づいていない。
俺だけが、子どもの目線に気づいた。
いや、気づいてしまった。
この子は、森の奥を見ていない。
俺たちが来た方を見ている。
俺はゆっくり、片手を後ろへ向けた。
自分たちが来た方向。
そして、トワを見た。
トワの目が変わった。
すぐに分かったらしい。
彼は槍を握り直した。
リクも、ようやく気づいた。
子どもの顔を見る。
それから俺の手を見る。
彼女の顔から血の気が引いた。
子どもの唇が、少し動いた。
声はほとんど息だった。
それでも、俺には聞こえた。
「……くる」
トワの顔が変わった。
リクが子どもを抱きしめる。
俺は森の奥ではなく、自分たちが来た方を見た。
今度は、声ではなかった。
枝を踏む音がした。
一度。
二度。
こちらへ近づいていた。
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