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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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43/111

第43話 まだ白い傷

削られた面は、まだ白かった。


古いものではない。


俺にも、それだけは分かった。


泥の中で黒くなった木片。


水を吸った土器。


崩れた灰。


その中で、削りかけの骨だけが、妙に白かった。


そこだけ、まだ昨日の続きにいるように見えた。


俺は手の上の骨を見た。


輪ではない。


だが、輪になりかけている。


イナが大事にしていた骨の輪。


火のそばで、親指で何度も拭っていたもの。


あれと同じ形へ向かっていた。


トワは骨を受け取らなかった。


ただ、俺の手の上をのぞき込んだまま、動かなかった。


リクも声を出さない。


壊れた籠を胸に抱き、唇を強く結んでいる。


泣かない人の顔だった。


泣けない人の顔かもしれなかった。


「アオ」


トワが低く言った。


俺は骨をそっと泥の上に置こうとした。


持っていていいものではない気がした。


だが、その前にリクが手を伸ばした。


彼女は骨を受け取り、泥を親指でぬぐう。


傷の二本線を確かめる。


それから、骨を自分の胸ではなく、壊れた籠の中へ入れた。


この骨は、彼女のものではない。


だが、ここに置いていくものでもない。


そういうことなのだろう。


俺は周囲を見た。


流された住居。


折れた木。


泥をかぶった草。


水は、何も区別しなかった。


道具も、食べ物も、寝る場所も、人の印も、同じように流した。


けれど、この白い削り跡だけは残っていた。


残ったものには、残った理由があるのかもしれない。


そう思いかけて、やめた。


意味を急いでつけるのは、俺の悪い癖だ。


*


トワが地面にしゃがんだ。


削りかけの骨があった場所の周りを、手でそっと払う。


泥の下から、小さな削りくずが出てきた。


白い粉のようなもの。


骨を削ったあとだ。


リクが息を吸った。


トワはその削りくずを指でつまみ、匂いをかぐ。


俺も近づいて見た。


分かるわけがない。


それでも見た。


トワは立ち上がり、周囲を歩き始めた。


住居跡の外へ。


川の方へ。


また戻る。


今度は森の方へ向かう。


リクも後に続いた。


俺も続こうとして、足を泥に取られた。


片足が沈む。


抜こうとする。


抜けない。


もう一度力を入れる。


変な音がした。


トワとリクが振り返る。


俺は何もなかった顔をした。


泥の中に足を半分残したまま。


通じるわけがなかった。


リクが初めて、少しだけ笑った。


笑ったというより、息が漏れたくらいだった。


それでも、さっきまでの顔とは違った。


トワが戻ってきて、俺の腕をつかむ。


引く。


俺も足を引く。


泥が離れた。


足は戻った。


だが、草で編んだ履き物が半分脱げていた。


俺はそれを泥の中から拾った。


現代人は、川下へ来ても足元で負ける。


*


森の入口に、折れた枝があった。


新しい。


折れ口がまだ湿っている。


トワはその枝を手に取った。


枝の先は、二つに分かれていた。


灰に描かれた印と似ている。


リクが壊れた籠を抱え直した。


トワは枝を地面に置き、森の奥を指した。


誰かがここを通った。


そういう意味だと思った。


俺は森の中を見た。


光が少ない。


湿った匂いがする。


倒木の間に、細い獣道のようなものがある。


道と呼ぶには頼りない。


だが、トワは迷わず進んだ。


リクも続く。


俺は少し遅れて、後を追った。


森の中には、水の跡が残っていた。


川がここまで来たわけではない。


雨が斜面を流れ、土を削ったのだろう。


落ち葉が一方向へ寄っている。


小さな枝が泥に埋まっている。


トワは、ときどき立ち止まった。


地面を見る。


木を見る。


空を見る。


俺には何も見えない。


まただ。


この世界には、見えている人にしか読めない文字が多すぎる。


俺は文字のない時代に来たのだと思っていた。


違った。


文字はあった。


枝に。


泥に。


匂いに。


折れた草に。


俺が読めないだけだった。


少し進むと、リクが短く声を出した。


木の根元にしゃがんでいる。


そこには、細い紐が落ちていた。


獣の腱を撚ったものだ。


短く、片方がほどけている。


ナミが少年の手首に巻いた紐とは違う。


だが、同じように誰かの手で撚られたものだった。


リクは紐を拾い、指先でほどけたところを確かめた。


トワに見せる。


トワはうなずかなかった。


首も振らなかった。


ただ、森の奥を見た。


紐が落ちている。


削りかけの骨が新しい。


枝が折れている。


誰かが、ここを通った。


生きている誰かが。


そう考えた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


アオは生きているのか。


そう思った。


思ってすぐ、怖くなった。


期待は、外れたときに重い。


俺のいた時代でも同じだった。


結果が出る前の数秒。


返信が来る前の画面。


病院の待合室。


障害対応の復旧確認。


希望はいつも、少しだけ人を黙らせる。


リクも黙っていた。


トワも黙っていた。


*


森は深くなった。


川の音が遠くなる。


代わりに、鳥の声が増えた。


ときどき、上の枝が揺れる。


小さな動物が走ったのだろう。


俺は何度も振り返った。


帰り道を覚えるためだ。


と言いたい。


本当は、不安だった。


トワがいなければ、俺は二度と川へ戻れない。


いや、川どころか、さっきの泥にも戻れないかもしれない。


目印になるものは多い。


木。


石。


倒れた枝。


全部同じに見える。


現代なら地図がある。


現在地が青い点で出る。


目的地までの距離も出る。


到着予定時刻まで出る。


便利だった。


便利すぎて、自分がどこを歩いているのか、知らなくても進めた。


ここでは違う。


知らなければ、進めない。


知らなければ、戻れない。


トワが足を止めた。


前方に、低い岩があった。


岩の下が少しえぐれている。


雨宿りくらいならできそうな場所だ。


その奥に、灰があった。


古い火の跡ではない。


指で触れると、まだ少し柔らかい。


トワは灰に触れた。


手を近づける。


温かくはない。


だが、昨日より古いものではなさそうだった。


リクが岩の下へ膝をついた。


奥から、小さな木片を取り出す。


片側が削られている。


骨を削るために使ったのか。


火を扱うためのものか。


俺には分からない。


だが、その木片の横に、白い粉がついていた。


骨の粉。


トワが息を止めた。


俺にも、今度は分かった。


誰かがここで、骨を削っていた。


消えた住居の跡ではない。


ここで。


川から少し離れた、岩の下で。


リクは壊れた籠を下ろした。


中から、さっきの削りかけの骨を出す。


木片の横へ置いた。


白い粉と、骨の白い削り跡。


同じ色だった。


*


岩の下には、木の実の殻も残っていた。


割られたばかりではない。


だが、古くもない。


中身はなかった。


誰かが食べた。


ここで。


リクが殻を拾い、見つめる。


その手が少し震えていた。


彼女は殻を俺に差し出した。


俺は受け取った。


見た。


匂いをかいだ。


分からない。


殻は、殻だった。


俺が困っていると、リクは今度はトワへ渡した。


トワは匂いをかぎ、殻の割れ方を見た。


それから、森の奥を指した。


同じものを食べた誰かが、奥へ行った。


そう言っているように見えた。


俺は殻を見た。


俺にとっては、ただの木の実の殻。


リクにとっては、手が震えるほどのもの。


トワにとっては、進む方向を示すもの。


同じものを見ているのに、見えているものが違う。


俺は、もう一度その殻を見た。


少なくとも、それを忘れないようにした。


トワが周りを確かめる。


俺も何かを探した。


探すふりではなく、今度は本当に探した。


岩の横。


木の根元。


落ち葉の下。


すると、岩の裏側に細い線が見えた。


最初は自然の傷だと思った。


だが、違った。


二本の線。


割れた枝の印。


浅く、石でこすったように刻まれている。


俺は声を出しそうになった。


手でトワを呼ぶ。


トワが近づく。


リクも来る。


三人で、その印を見た。


森の中は静かだった。


いや、静かではない。


鳥は鳴いている。


虫もいる。


葉も揺れている。


だが、その印の前だけ、音が遠くなったように感じた。


トワは岩の印に触れた。


次に、森のさらに奥を見た。


リクが小さく首を振った。


行くな。


そう言っているように見えた。


だが、トワは森の奥を見続けた。


俺も見た。


木々の間に、細い道のようなものがある。


人が通ったのか。


獣が通ったのか。


それとも、俺がそう見たいだけなのか。


分からない。


そのとき、遠くで音がした。


枝が折れる音。


一度だけ。


トワが槍を握った。


リクが壊れた籠を胸に寄せる。


俺は息を止めた。


森の奥から、かすかな声が聞こえた。


小さい。


けれど、風ではなかった。


人の声だった。


お読みいただき、ありがとうございます。

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