第42話 消えた丸
「アオ」
トワの声は低かった。
火の音に混じれば、聞き逃してもおかしくないくらいだった。
けれど、その名だけは、はっきり残った。
アオ。
俺はイナの手を思い出した。
骨の輪を拭っていた指。
灰の上に引かれた線。
最後に見たときは、生きていた、という話。
あのアオなのか。
それとも、同じ音の別の誰かなのか。
人の名なのか。
場所の名なのか。
この世界では、俺の推理はよく滑る。
今日もたぶん、湿った土の上だ。
リクは、トワを見た。
トワは灰の上の印を指した。
細い線が、途中で二つに分かれている。
割れた枝。
そう見える。
リクはうなずかなかった。
首も振らなかった。
ただ、その印の横に、もう一つ丸を描いた。
小さい丸だった。
さっき消した丸より、ずっと小さい。
彼女は眠っている子どもを指した。
次に、その小さい丸を指す。
それから、灰の上で手を止めた。
何かを言おうとしている。
だが、言葉が分からない。
俺は自分の胸を指した。
「サエ」
次に、リクを指す。
「リク」
トワを指す。
「トワ」
最後に、灰の印を指した。
「……アオ」
問いかけのつもりだった。
リクの目が少し動いた。
トワも俺を見た。
間違えたのか。
合っているのか。
どちらの反応なのか分からない。
リクは灰の上の小さい丸を指した。
それから自分の胸ではなく、眠っている子どもの背に触れた。
子どもは少し身じろぎしたが、起きなかった。
リクは次に、消した丸のあたりを指した。
そこに何もないことを、もう一度見せるように、手のひらで灰をならした。
子ども。
消えた場所。
割れた枝の印。
アオ。
俺の頭の中で、線がつながりそうになる。
つながりそうになるたび、すぐ切れた。
分からないものを、分かったことにしてはいけない。
この世界で何度も学んだことだ。
年老いた男が近づいてきた。
さっき俺たちを見ていた男だ。
彼は火の前に座り、灰の絵をしばらく見た。
それから、リクの描いた小さい丸の横へ、短い線を一本引いた。
川ではない。
道でもない。
ただの線。
だが、トワはそれを見て、顔を上げた。
年老いた男は、川下を指した。
次に、森の方を指した。
最後に、手を下げた。
行け。
そう言っているように見えた。
トワは何か短く答えた。
リクがすぐに首を振った。
声が少し強くなる。
年老いた男も言い返す。
トワは黙っている。
俺には、誰が何に反対しているのか分からない。
ただ、リクが行きたがっていることだけは分かった。
彼女の手は、壊れた籠の縁を強く握っていた。
指の節が白くなっている。
*
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
眠っている子どもの足が、まだ俺の腕に乗っている。
重いわけではない。
だが、動かせない。
少し動けば起こしてしまいそうだった。
俺は火を見ていた。
火の向こうで、リクは目を閉じている。
眠っているのかは分からない。
トワは俺より先に横になったはずなのに、ときどき薄く目を開けた。
この男は、寝ているときも周りを見ている。
便利な能力だ。
会社にいたころ、もし俺にこの能力があれば、深夜障害対応でもう少し早く気づけたかもしれない。
いや、たぶん無理だ。
現代の障害は、森の枝の音では知らせてくれない。
メールとアラートと赤い通知で来る。
あれはあれで、心臓に悪い。
小さな子どもが寝返りを打った。
俺の籠の紐を握ったまま、眉を寄せている。
夢を見ているのかもしれない。
リクが目を開けた。
すぐに手を伸ばし、子どもの背を軽く叩いた。
母親なのだろうか。
そう思った。
だが、夕方には別の女がこの子の髪を直していた。
昼には年上の少女が肩を抱いていた。
さっきはリクが背を叩いている。
誰の子なのか。
そう考えかけて、やめた。
この集落では、その問い方がもう間違っているのかもしれない。
俺のいた時代なら、名前を書く欄がある。
父。
母。
保護者。
続柄。
ここには欄がない。
だから曖昧なのではない。
欄に入れる前から、人はこうして眠っていたのだ。
火のそばで、誰かの足を腕に乗せたまま。
*
朝になる前、リクは起きた。
音を立てずに火へ木を足し、壊れた籠を抱えた。
トワもすぐ起きた。
俺は起きようとして、腕が動かないことに気づいた。
子どもの足がまだ乗っている。
ゆっくり抜こうとした。
子どもが眉を寄せる。
止まる。
もう一度、少しずつ動かす。
今度は、隣の子が俺の籠の紐を引いた。
なぜだ。
俺は出発する前から、すでに捕まっている。
リクがこちらを見た。
少しだけ口元が動いた。
笑ったのかもしれない。
俺は困った顔をした。
それが通じたらしく、リクは子どもの足を持ち上げた。
軽い。
あっさり外れた。
俺の苦労は何だったのか。
トワが俺を見た。
また何か分かっていない顔だった。
分かっていないのは、いつも俺の方だ。
俺は籠を背負った。
少年にもらった縄の結び目が、中で小さく揺れる。
リクは壊れた籠を持ったまま、年老いた男の前に立った。
男は彼女を見た。
それから、俺とトワを見る。
短く何かを言う。
リクは答えない。
ただ、川下を指した。
男はしばらく黙っていた。
やがて、腰の袋から小さなものを取り出した。
黒い石ではない。
骨でもない。
焼けた木片のように見えた。
片側が黒く、もう片側に細い傷が二本ある。
割れた枝の印と同じ形だった。
男はそれをリクに渡そうとした。
リクは受け取らなかった。
代わりに、眠っている子どもを指した。
男は目を閉じた。
それから、木片をトワに渡した。
トワは受け取り、俺にも見せた。
細い傷が二本。
ただの傷にしては、まっすぐすぎる。
誰かが意図してつけたものだ。
トワが低く、あの名を言った。
今度は俺にも分かった。
これは、アオにつながる印だ。
*
川沿いを歩き始めたころ、空は白くなっていた。
リクが先頭に立った。
トワがその後ろ。
俺は一番後ろだ。
順番に意味があるのかもしれない。
単に俺が遅いだけかもしれない。
たぶん両方だ。
昨日より水は少し引いていた。
だが、岸の草は泥をかぶっている。
枝には枯れ葉や蔓が絡みつき、高いところにまで水が来たことを示していた。
リクは何度も立ち止まった。
折れた枝を見る。
泥に残った跡を見る。
川に近づき、また離れる。
トワとは見ている場所が違った。
トワは道を見る。
リクは流されたものを見る。
俺はその二人を見ていた。
役に立っていない。
いつものことだ。
だが、今はそれでもよかった。
見ることしかできないなら、せめて見落とさないようにしたかった。
少し進むと、泥の中に魚の柵があった。
いや、柵だったものだ。
木が二本、根元から折れている。
縄は切れていた。
俺たちの集落で見た切れ方とは違う。
刃物で切ったのではない。
水にねじられ、引きちぎられた跡だ。
リクが膝をついた。
壊れた縄を持ち上げる。
その結び目は、俺の知らない形だった。
少年の結び目でもない。
イナの結び方でもない。
この集落のものだ。
リクは縄を握ったまま、しばらく動かなかった。
トワがそっと肩に触れた。
リクは振り払わなかった。
ただ、立ち上がった。
*
昼に近づくころ、森が少し開けた。
川が大きく曲がる場所だった。
そこに、住居の跡があった。
最初、俺には分からなかった。
ただのくぼみに見えた。
だが、よく見ると、土の色が違う。
火を焚いた跡。
柱が立っていたらしい穴。
散らばった土器のかけら。
水が通ったあとに、すべてが低い方へ寄っていた。
丸が消えた場所。
リクが灰に描いた丸は、ここだった。
彼女は走らなかった。
ゆっくり歩いた。
足元を確かめるように。
何かを踏まないように。
壊れた土器を拾う。
見る。
置く。
別の木片を拾う。
見る。
置く。
トワも黙って探し始めた。
俺もしゃがんだ。
何を探しているのか分からない。
分からないまま、泥を見た。
土器。
木片。
魚の骨。
灰。
どれも同じように見える。
同じように見えてはいけないのだろう。
誰かの暮らしだったものだ。
俺は泥の中から、白いものを見つけた。
骨かと思った。
指でつまみ上げる。
細い。
曲がっている。
輪ではない。
だが、輪になりかけていた。
削りかけの骨だった。
表面に、細い傷が二本ある。
割れた枝と同じ形。
削られた面は、まだ白かった。
古いものではない。
俺にも、それだけは分かった。
トワを見た。
トワはすぐに近づいてきた。
俺の手の中を見る。
息が止まったような顔をした。
リクも振り返る。
彼女は骨を見ると、唇を強く結んだ。
泣かなかった。
声も上げなかった。
ただ、壊れた籠を胸に抱いた。
トワが低く言った。
「アオ」
俺はその骨を見た。
輪になる前の骨。
イナが大事にしていた骨の輪。
そして、ここに残された削りかけの骨。
川の音が、すぐ近くで聞こえた。
流れは何も説明しなかった。
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