第40話 川下へ
夜が、まだ残っていた。
火は小さくなっている。
灰の奥に赤いものがあり、ときどき細く息をした。
俺は籠を背負った。
中で、少年にもらった短い縄が少し動く。
結び目が背中に当たった。
痛くはない。
けれど、そこにあることだけは分かった。
トワはもう外にいた。
肩に袋をかけ、腰に石刃を下げている。
手には短い槍。
いつもの顔だった。
行くことが、特別ではない者の顔だ。
俺だけが、何度も後ろを見た。
火のそばには、木の椀が伏せてある。
俺の椀だ。
昨日まで何度も手に取った。
熱いものを飲み、苦いものを食べ、指で縁の欠けたところをなぞった。
持っていくこともできた。
だが、持っていかなかった。
ここに戻る場所があるなら、椀はここにあったほうがいい。
そう思った。
思っただけで、誰にも言わなかった。
外へ出ると、空はまだ青くなっていなかった。
川の音が近い。
昨日より少し低くなったが、まだ普段より太い音をしている。
柵のあたりには、黒い影が立っていた。
新しく立てた木。
積み直した石。
少年たちが結んだ縄。
俺がいなくても、そこにあった。
俺がいなくても、立っていた。
トワが川下を指した。
俺はうなずく。
二人で歩き出した。
*
集落の端まで来たとき、足音がした。
振り向くと、イナが立っていた。
手には何も持っていない。
髪を後ろでまとめ、いつもの獣皮を肩にかけている。
俺を見て、それからトワを見た。
トワが軽く頭を下げる。
イナは小さくうなずいた。
俺は、何か言わなければと思った。
すぐ戻る。
必ず戻る。
待っていてくれ。
どれも違った。
必ずなど、この世界では簡単に言えない。
すぐ、も分からない。
待っていてくれ、はもっと言えなかった。
イナにはイナの明日がある。
俺が言葉で縛っていいものではない。
俺は自分の胸を指した。
「サエ」
次に、集落を指す。
それから川下を指し、もう一度、集落を指した。
行って、戻る。
そう伝えたかった。
イナは俺の手の動きを見ていた。
少しだけ首を傾ける。
それから、俺の胸を指した。
「サエ」
集落を指す。
何か短い音を言った。
俺には分からなかった。
だが、その音を言うとき、彼女は火の方を見た。
木の椀のある場所だ。
俺はうなずいた。
イナは近づき、俺の籠の紐を引いた。
緩んでいたところを締め直す。
近い。
思ったより近い。
俺は少しだけ息を止めた。
イナは気にしない。
紐を締める。
結び目を確かめる。
ただそれだけだ。
俺の中の現代人だけが、一人で勝手に忙しくなっていた。
トワが横から俺を見た。
具合が悪いと思ったのか、俺の額に手を伸ばす。
「違う」
思わず日本語が出た。
トワは分かっていない。
イナも分かっていない。
分かっているのは俺だけだ。
そして、その俺が一番分かっていなかった。
イナは紐を強く引いた。
動かない。
それだけを確かめて、手を離した。
俺は頭を下げた。
深く。
トワが歩き出す。
俺も後に続いた。
振り返ると、イナはまだ立っていた。
だが、手は振らなかった。
俺も振らなかった。
川の音だけが、二人の間にあった。
*
川下への道は、道ではなかった。
俺は、川下へ向かうと聞いて、少なくとも道らしいものがあると思っていた。
なかった。
道どころか、トワはときどき川の中を歩いた。
そこは道ではない。
川だ。
けれど、トワは迷わない。
濡れた石を踏み、倒れた枝を避け、木の根を越える。
俺は三度滑った。
一度目は、手をついた。
二度目は、膝をついた。
三度目は、もう何も言わずに起き上がった。
トワは振り返った。
手を貸すときもあれば、貸さないときもある。
貸さないときは、そこを自分で越えろということだった。
俺も少しずつ分かってきた。
全部助けられたら、次に同じ場所で転ぶ。
自分で越えたところだけ、身体が覚える。
仕事をしていたころ、俺は何度も同じ説明をした。
画面の前で、手順を書き、図を作り、相手が間違えないようにした。
便利だった。
早かった。
けれど、この森では違う。
間違える前に止めてもらえるとは限らない。
痛くない間違いは、自分でしたほうが早い。
木の根をまたいだとき、籠の中で縄が揺れた。
少年の結び目が、また背中に当たった。
*
日が高くなるころ、トワが足を止めた。
大きな木の根元に、赤い実がなっていた。
トワは一つ取ると、匂いをかいだ。
それから口に入れる。
俺にも一つ差し出した。
赤い。
丸い。
見た目だけなら、食べられそうだった。
だが、この世界では、見た目ほど信用できないものはない。
俺は実を見た。
トワを見る。
もう一度、実を見る。
トワはうなずいた。
食べろ、という顔だ。
俺は覚悟を決めて、少しかじった。
酸っぱい。
思ったより酸っぱい。
顔が勝手に歪んだ。
トワが笑った。
かなりはっきり笑った。
彼はもう一つ実を取り、俺に差し出す。
違う。
量の問題ではない。
俺が首を振ると、トワは不思議そうに自分で食べた。
その顔は平気だった。
身体の作りが違うのかもしれない。
時代が違うのかもしれない。
あるいは、俺が弱いだけかもしれない。
最後の可能性が一番高かった。
*
川幅が少し広くなった。
水の色はまだ濁っている。
流れの真ん中に、倒れた木が引っかかっていた。
枝には草や細い蔓が絡みついている。
昨日の雨で流れてきたものだろう。
トワが川岸へ下りた。
俺も後を追う。
流れの弱いところに、何かが引っかかっていた。
最初は木の皮かと思った。
だが、違った。
細く裂いた蔓が、何本も編まれている。
籠の一部だった。
この集落の編み方ではない。
少なくとも、俺が見慣れたものとは違っていた。
トワはそれを水から引き上げた。
手で泥を払う。
編み目が斜めに重なっている。
ところどころに、赤い土がこびりついていた。
トワの顔が変わった。
大きな変化ではない。
だが、目だけが少し細くなった。
彼は川上を見た。
次に川下を見る。
そして、編みかけの籠を俺に渡した。
軽い。
だが、水を吸って冷たかった。
「これ……」
言いかけて、やめた。
聞いても分からない。
トワは地面にしゃがみ、指で丸を描いた。
この集落ではない。
少し離れた場所に、もう一つ丸を描く。
川の線を引く。
その丸から、川へ向かって短い線をいくつも入れた。
何かが流れた。
そういう意味だと思った。
トワは立ち上がると、歩く速さを変えた。
さっきより速い。
俺も籠を背負い直した。
胸の奥が、少し重くなる。
ただの壊れた籠かもしれない。
雨で流れただけかもしれない。
けれど、トワの足は速かった。
*
昼を過ぎると、川の匂いが変わった。
濁った水の匂いに、煙の匂いが混じっている。
トワが急に低く身をかがめた。
俺も慌ててしゃがむ。
前方に、細い煙が見えた。
一本ではない。
二本。
いや、三本。
木々の間から、薄く上がっている。
集落だ。
そう思った。
だが、トワはすぐには近づかなかった。
木の陰に身を寄せ、耳を澄ませている。
俺も息を止めた。
川の音。
鳥の声。
枝が揺れる音。
その中に、人の声が混じった。
短く、鋭い声だった。
笑い声ではない。
呼び合う声とも少し違う。
トワの手が、腰の石刃へ近づいた。
俺の背中で、少年の縄がまた当たる。
集落を出る前、火のそばに伏せた木の椀を思い出した。
戻る場所。
残してきたもの。
そして今、目の前にある煙。
トワが俺を見た。
声を出すな。
そう言われた気がした。
俺はうなずいた。
そのとき、川の向こうで子どもの泣き声がした。
続いて、女の声が上がる。
怒っているのか。
呼んでいるのか。
助けを求めているのか。
俺には分からない。
トワは木の陰から、ほんの少しだけ顔を出した。
俺も同じようにのぞいた。
煙の下に、人がいた。
だが、俺たちの集落とは違った。
火のそばに、人が集まっていない。
男たちは川の方を向き、女たちは子どもを後ろへ下げている。
その中心に、一人の若い女が立っていた。
腕に、壊れた籠を抱えている。
俺の手の中にあるものと、同じ編み目だった。
トワが小さく息を吸った。
そして、今まで聞いたことのない名を、低く口にした。
「リク」
若い女が、こちらを見た。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




