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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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第39話 いなくても

 夜明け前、川の方から声が上がった。


 一人ではない。


 短い声が続き、集落のあちこちで人が起きる気配がした。


 俺も身体を起こす。


 火のそばには、木の椀が伏せてある。


 寝床の隅には、イナがまとめた籠。


 薄暗い中で、二つが並んで見えた。


 外へ出ると、雨はやんでいた。


 だが、川の音がいつもより大きい。


 濁った水が岸近くまで上がっていた。


 魚を捕るために組んだ柵が、片側だけ倒れている。


 何本かの木は流され、石の間に張った縄も切れていた。


「まずい」


 俺は川へ向かって走った。


 あの仕掛けには、俺も手を入れていた。


 水の流れを見ながら木の位置を変え、魚が狭い場所へ集まるようにした。


 倒れた部分へ水が当たり続ければ、残った木も流される。


 岸へ着いたときには、すでに何人も水へ入っていた。


 男たちが倒れた木を起こしている。


 女たちは岸から石を運び、根元へ積んでいた。


 ウネは浅い場所に立ち、手を上げて人を動かしている。


 イナも腰まで水に入り、流れてくる枝を受け止めていた。


 俺は近くに落ちていた木を持ち上げた。


 水へ入ろうとする。


 前にいた男が片手を上げた。


「ア」


 止まれという声だった。


「これを運ぶ」


 木を示したが、男は首を振った。


 俺の後ろを指す。


 振り向くと、太い流木が水面を回りながら近づいていた。


 今入れば危ない。


 流木が通り過ぎると、男たちはまた作業を始めた。


 俺も続こうとした。


 今度はウネが岸を指した。


「でも——」


 彼女はもう俺を見ていなかった。


 次の者へ声をかけ、木の位置を示している。


 水の中には、立つ場所がなかった。


 木を支える者。


 石を積む者。


 縄を張る者。


 俺が入れば、かえって動きを止めてしまう。


 岸へ戻ると、ナミから紐をもらった少年が、切れた縄を集めていた。


 昨日教えた結び方で、二本をつなごうとしている。


 雨を吸った縄は硬く、滑っていた。


 少年が引くと、結び目がずれた。


「そこは、もう一度——」


 俺が手を伸ばす前に、少年は結び目をほどいた。


 今度は輪を二つ作る。


 二本を重ね、端を反対側から通す。


 俺が教えた形とは違っていた。


 強く引く。


 大きな結び目ができた。


 少年はもう一度、両側から引いた。


 ずれない。


 俺を見て、縄を差し出す。


 受け取り、力を入れた。


 ほどけなかった。


「これでいい」


 縄を返す。


 少年はすぐ次の一本へ手を伸ばした。


 別の子どもが横に座る。


 二人で切れた縄をつなぎ始めた。


 俺の手は空いたままだった。


 川の中では、新しい木が立てられていた。


 俺が考えた位置とは少し違う。


 水は以前より大きく曲がり、柵の隙間へ流れている。


 これでは魚が逃げるかもしれない。


 そう思った。


 だが、流れを正面から受けない分、木は倒れにくかった。


 元の形へ戻しているのではない。


 今の川に合う形を作っていた。


 俺は抱えていた木を、岸へ置いた。


    *


 ウネが水から上がってきた。


 髪も肩も濡れている。


 岸に置かれた土器を持ち上げ、中を見る。


 空だった。


 彼女は土器を俺の胸へ押しつけた。


 火のある方を指す。


「俺が?」


 ウネは答えず、もう川へ戻っていた。


 俺は空の土器を抱え、集落へ向かった。


 火のそばには、朝の残りがある。


 魚と砕いた木の実を、水で煮たものだった。


 温め直し、土器へ移す。


 別の土器には水を入れた。


 川辺へ運ぶ。


 最初に戻ってきたのは、小さな子どもだった。


 冷えた手で土器を受け取り、湯気へ顔を近づける。


 次に少年たち。


 それから、水の中で木を支えていた者たち。


 土器が空になると、また集落へ戻った。


 温める。


 運ぶ。


 濡れた獣皮が岸へ置かれれば、集めて火のそばへ広げた。


 手を傷つけた男が戻ると、泥を洗い、乾いた草を当てた。


 俺にしかできないことではない。


 だが、そのとき手が空いていたのは俺だった。


 昼近く、水の中から声が上がった。


 立て直された柵の間を、濁った水が流れている。


 木の位置は変わった。


 縄の結び目も変わった。


 それでも、柵は倒れなかった。


 最後まで水にいた者たちが岸へ上がる。


 誰か一人を褒める者はいない。


 皆、濡れた身体を火に向け、温かいものを口へ運んだ。


 少年が、つないだ縄の端を持ってきた。


 二つの結び目が並んでいる。


 一つは、俺が教えたもの。


 もう一つは、少年が変えたもの。


 新しい方を引いた。


 動かない。


 俺はその結び目を指した。


「こっちがいい」


 少年はうなずいた。


 縄を抱え、別の子どものところへ走っていった。


    *


 人が引き上げたあとも、俺は川辺に残った。


 立て直された柵を見る。


 俺が手を入れた形とは違っていた。


 流れも違う。


 結び方も違う。


 それでも、水の中に立っている。


 以前の俺なら、その違いが気になったかもしれない。


 自分の作った形が消えることを、自分まで消えるように感じたかもしれない。


 仕事を失った日、机の上に残っていたものは少なかった。


 持ち帰れば、そこに俺がいたことさえ分からなくなった。


 川の方から、少年の笑い声が聞こえた。


 振り返る。


 彼は別の子どもに、二つの結び方を見せている。


 教えているうちに、また少し形が変わっていた。


 俺は川の仕掛けから目を離した。


 集落では、細い煙が上がっている。


 火のそばには、俺の椀が残っていた。


    *


 トワは、いつもの場所で石刃を研いでいた。


 干した魚は、まだ二つの束に分けられている。


 一つはトワの前。


 もう一つは、俺が受け取らなかった場所に残されていた。


 俺はその束を手に取った。


 トワの手が止まる。


 顔を上げた。


 俺は魚を籠へ入れた。


 川下を指す。


 次に自分を指した。


「サエ」


 トワは自分の胸へ指を当てた。


「トワ」


 二本の指を並べ、地面の上を歩かせる。


 俺はうなずいた。


 トワも一度だけうなずき、また石刃を研ぎ始めた。


 それ以上の言葉は必要なかった。


 俺は籠の口を閉じた。


    *


 それから二日、トワは出発の支度を続けた。


 俺も火種を包み、獣皮の紐を確かめた。


 少年たちは川の縄を結び直した。


 結び目は一日ごとに少しずつ変わった。


 修復した柵は、増えた水の中に立ち続けていた。


 三つ目の夜、俺は籠を寝床の入口へ置いた。


 木の椀は、火のそばに伏せたままにした。


 夜が明ける前、肩を軽く叩かれた。


 トワかと思った。


 目を開けると、少年がしゃがんでいた。


 手首には、ナミからもらった紐がある。


 少年は何も言わず、短い縄を差し出した。


 真ん中に、大きな結び目が一つあった。


 受け取ると、少年は籠を指した。


 俺は縄を籠の隙間へ差し込む。


 少年は、さらに奥へ押し込んだ。


 それから川下を指す。


「ナミ」


 次に俺を指した。


「サエ」


 最後に、火のそばの木の椀を指した。


 俺はうなずいた。


 少年は立ち上がり、まだ眠っている者たちの間へ戻っていった。


 籠から縄の端を引き出す。


 結び目を両側から強く引いた。


 俺が教えたものとは、少し違っていた。


 それでも、ほどけなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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