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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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第38話 行く者、残る者

森から戻ると、トワは魚を干し始めた。


 腹を開き、細い枝に通す。


 火から少し離れた場所へ並べ、煙が均等に当たるよう何度も向きを変えていた。


 その日のうちに食べる魚ではない。


 腰の石刃も外している。


 木の柄に巻いた紐をほどき、温めた樹脂を塗り直していた。


 作ったばかりの刃を、旅の道具にしようとしている。


 俺の視線に気づくと、トワは足元に小石を三つ並べた。


 一つ目を指し、東の空を指す。


 二つ目。


 もう一度、東。


 三つ目。


 最後に川下を指した。


「三日後か」


 トワは俺の言葉を理解しなかった。


 だが、指を三本立てると、うなずいた。


 干している魚を二つの束に分ける。


 一つを自分の前へ。


 もう一つを、俺の前へ置いた。


 俺は受け取らなかった。


 断ったわけではない。


 手を出せなかっただけだ。


 トワも急かさなかった。


 二つの束を並べたまま、石刃に紐を巻き始めた。


    *


 その日、俺は魚を捕るための縄を直した。


 切れかけたところへ、新しく撚った蔓をつなぐ。


 一か所を直すと、隣の結び目が緩んで見えた。


 そこを締めると、今度は端の細いところが気になる。


 気づけば、縄の半分近くをほどいていた。


「サエ」


 ナミから紐をもらった少年が、横にしゃがんだ。


 俺の手元を見ている。


 縄の端を渡し、結び方を見せた。


 輪を作る。


 端を通す。


 引く。


 少年も同じように手を動かした。


 一度目は、引いた途端にほどけた。


 二度目は輪が小さすぎた。


 三度目に、ようやく形になった。


 俺は結び目を引いた。


 ほどけない。


 少年は笑い、もう一本の縄へ手を伸ばした。


 今度は最初から一人で結ぶ。


 途中で手順が変わった。


 俺が教えたものとは少し違う。


 だが、強く引くと、結び目は締まった。


 少年は縄を持って走っていった。


 少し離れたところで、別の子どもを座らせる。


 今覚えたばかりの結び方を、もう教え始めていた。


 俺は呼び止めなかった。


 手元に残った縄を見下ろす。


 まだ直すところはいくつもある。


 出発まで三日ある。


 そう考えてから、手が止まった。


 俺はまだ、行くとは言っていない。


 それなのに、三日で終わるように仕事を数えていた。


 縄を巻き、いつもの場所へ戻す。


 次に、木の実を置く棚を確かめた。


 寝床の屋根を見上げた。


 ひびの入った籠にも目が向いた。


 どれも昨日までは、急いで直すものではなかった。


 今日は全部、残してはいけないものに見えた。


 俺は籠を手に取った。


 裂けたところへ蔓を通し始める。


 少し離れた場所で、イナがこちらを見ていた。


 目が合う。


 彼女は何も尋ねなかった。


 木の実を拾い上げ、そのまま背を向けた。


    *


 夕方、細かな雨が降り始めた。


 トワは干していた魚を火のそばへ移した。


 二つに分けた束は、そのままだった。


 俺の分も、濡れない場所へ置かれている。


 イナが寝床へ入ってきた。


 手には籠を持っていた。


 昼間、俺が直したものだった。


 彼女は俺の前に座り、籠の底へ乾いた葉を敷いた。


 その上に干した魚を置く。


 木の実を包んだ皮。


 骨の針。


 火を移すための乾いた木屑。


 小さな石刃。


 一つずつ確かめながら、籠へ入れていく。


「イナ」


 呼ぶと、一度だけ顔を上げた。


 それから、また手を動かす。


 薄い獣皮を畳み、荷の一番上へ置いた。


 トワから聞いたのだろうか。


 それとも、今日の俺を見て分かったのか。


 イナは理由を尋ねなかった。


 行くなとも言わなかった。


 俺がまだ口にしていない返事を、彼女の手だけが知っているようだった。


 俺は腰の小さな袋へ手を入れた。


 指先に、硬いものが触れる。


 骨の輪だった。


 アオが子どものころに身につけていたもの。


 灰の上に引かれた線。


 川下を示した指。


 最後に見たときは生きていた、という話。


 輪を持っていけば、俺はアオを探すことになるのだろうか。


 知らない集落へ行くたび、この輪を見せるのだろうか。


 けれど、俺はアオに会ったことがない。


 アオが帰るのを待っているのは、俺ではなかった。


 骨の輪を袋から出す。


 イナの手が止まった。


 俺は川下を指した。


 次に骨の輪を指す。


 少し迷ってから、首を振った。


 輪を彼女の前へ置いた。


 イナは俺の顔を見た。


 すぐには触れない。


 やがて骨の輪を取り、親指で表面を拭った。


 以前と同じ仕草だった。


 輪を籠には入れず、火のそばにある小さな皮の袋へ戻す。


 袋の口を閉じ、いつもの場所へ置いた。


 俺は何も言わなかった。


 イナも何も言わなかった。


 雨が屋根を打つ音だけが続いた。


    *


 雨がやむと、俺は川辺へ下りた。


 山や集落を描いた線は、ほとんど流されていた。


 白い石だけが、濡れた土の上に残っている。


 俺は石を拾った。


 土に丸を一つ描く。


 少し離れた場所へ、もう一つ。


 二つの丸を線で結んだ。


 白い石を最初の丸に置く。


 線の上を滑らせ、向こうの丸へ動かす。


 そこで止める。


 今度は同じ線を戻し、最初の丸へ置いた。


 背後に気配がした。


 イナが立っている。


 俺は、もう一度石を動かした。


 行く。


 戻る。


 それを表す言葉を、俺はまだ知らない。


 イナはしゃがみ、白い石を拾った。


 向こうの丸へ置く。


 俺を見る。


 そして石を戻し、集落を示す丸へ置いた。


「サエ」


 短く言った。


 俺は自分の胸を指した。


「サエ」


 川下を指す。


 集落を指す。


 もう一度、自分を指した。


 イナはうなずかなかった。


 笑いもしなかった。


 白い石を集落の中に残し、立ち上がった。


 それから、俺を待たずに歩き出した。


 俺は白い石を見た。


 線の向こうにある丸を見た。


 石には触れず、イナのあとを追った。


    *


 夜、籠は寝床の隅に置かれていた。


 中には、旅に使うものが入っている。


 だが、俺のものが全部入っているわけではなかった。


 眠るときに使う厚い皮は残されている。


 骨の輪を入れた袋も、火のそばにある。


 普段使っている木の椀は、いつもの場所に置かれていた。


 イナが椀を手に取る。


 籠へ入れるのだと思った。


 だが、彼女は乾いた草で内側を拭いただけだった。


 椀を伏せる。


 灰が入らないようにして、火のそばへ戻す。


 俺はまだ、行くとは言っていなかった。


 けれど、その椀を籠へ入れようとは思わなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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