↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/113

第37話 道のない場所

 翌朝、トワは森の入口に立っていた。


 腰には、昨日作った細長い石刃がある。


 肩から小さな袋を下げ、片手に短い槍を持っていた。


 遠くへ行く支度ではない。


 それでも、ただ木の実を拾いに行く格好にも見えなかった。


 俺が近づくと、トワは森を指した。


 次に俺を指す。


「サエ」


 昨日、子どもが呼んだ名だった。


 佐伯ではない。


 だが、この集落では俺を指す音になっている。


「……サエ」


 自分でも言ってみる。


 トワはうなずいた。


 もう一度、森の奥を指す。


 昨日の問いを、確かめに行くつもりらしい。


 少し離れたところに、イナが立っていた。


 俺とトワを見たあと、手にしていた包みを差し出す。


 大きな葉を蔓で縛ったものだった。


 中には焼いた木の実と、干した魚が入っている。


「すぐ戻る」


 言ってから、通じないことに気づいた。


 俺は集落を指した。


 それから太陽を指し、空を短く動かす。


 日が高くなる前に戻る。


 そう伝えたつもりだった。


 イナは俺ではなく、トワを見た。


 何か短く言う。


 トワが答える。


 イナはそれ以上尋ねなかった。


 ただ、包みを俺の手に押しつけた。


 トワが森へ入る。


 俺も後に続いた。


    *


 森の中には、細い道がいくつもあった。


 人が作った道とは限らない。


 獣が通った跡かもしれない。


 下草が倒れ、土の見える場所が木々の間を曲がっている。


 トワは、ときどき立ち止まった。


 折れた枝を見る。


 泥に残った小さな窪みへ触れる。


 木の幹についた傷を指でなぞる。


 俺には何も見えない場所で、彼は何かを読んでいた。


 少し進むと、トワが地面を指した。


 二つに割れた蹄の跡があった。


 まだ新しい。


 その横には、もっと小さな跡が続いている。


 親と子なのだろう。


 トワは森の奥へ向かう跡を目で追い、槍を握り直した。


 だが、追わなかった。


 今日は獲物を探しに来たのではない。


 俺を見て、先へ進んだ。


 木々の形には見覚えがなかった。


 最初にこの森を歩いたとき、俺は方角など見ていなかった。


 喉が渇き、足が痛み、誰かの声が聞こえるたびに身を隠した。


 どこを通ったのかも、どれくらい歩いたのかも覚えていない。


 ただ、一つだけ覚えていた。


 太い木が倒れ、その根が土ごと持ち上がっていた場所。


 根の下に、暗い穴があった。


 目を覚ましたとき、最初に見えたものだった。


 俺は周囲を探しながら歩いた。


 似たような倒木はいくつもある。


 そのたびに近づき、根元を確かめた。


 違う。


 幹の向きが違う。


 根の形が違う。


 上から差し込む光も違う。


 トワは何も言わず、俺についてきた。


 やがて俺は足を止めた。


 木々の間に、白い光が落ちていた。


 そこだけ空が少し広い。


 一本の大木が倒れ、地面から持ち上がった根が、黒い土を抱えている。


 根の下には、人が一人横になれるほどの窪みがあった。


 胸の奥が急に狭くなった。


「ここだ」


 声が思ったより小さくなった。


 トワは俺を見る。


 俺は窪みを指した。


「ここ」


 膝をつき、土へ触れた。


 湿っていた。


 落ち葉が重なり、その下から細い芽が伸びている。


 俺が横たわっていた跡など、もう残っていなかった。


 当然だった。


 あれから何日も過ぎている。


 雨も降った。


 風も吹いた。


 虫も獣も、ここを通ったはずだ。


 それでも俺は、落ち葉をどけた。


 土を指で探った。


 何かが残っている気がした。


 服の切れ端。


 靴の跡。


 金属の欠片。


 帰るための印。


 だが、出てくるのは湿った土と、白い木の根だけだった。


 トワが窪みの横にしゃがんだ。


 土へ手を置く。


 俺と同じように落ち葉をどけたが、何かを探している様子ではなかった。


 地面を見ている。


 窪みの周りを一周し、少し離れた木の下まで歩く。


 また戻ってくる。


 俺を指した。


 次に、窪みを指す。


「サエ」


 俺はうなずいた。


 トワは森の右手を指した。


 そこから来たのか。


 そう尋ねているようだった。


 首を振る。


 左手を指す。


 首を振る。


 倒木の向こう。


 首を振る。


 後ろ。


 それも違う。


 トワの眉が寄った。


 彼は窪みを指し、二本の指を地面の上で歩かせた。


 どこから歩いてきた。


 俺は答えられなかった。


 トワは、もう一度同じ仕草をした。


 俺は窪みの土を指した。


「ここで、目が覚めた」


 自分の目を閉じる。


 地面に頭をつける真似をする。


 目を開く。


 起き上がる。


 それから窪みを指した。


「ここからだ」


 トワは黙っていた。


 俺は空を指そうとして、手を止めた。


 空から来たわけではない。


 遠い山からでもない。


 この土の下から出てきたのでもない。


 俺がいたのは同じ場所だった。


 ただ、同じ時間ではなかった。


 それを表す仕草を、俺は持っていなかった。


 地面へ一本の線を引いた。


 一方の端に、小さな四角をいくつも描く。


 ビルのつもりだった。


 その間に二本の線を引く。


 電車が走る道。


 線の上へ細長い形を描き、人を表す小さな印を並べる。


 トワはしゃがみ込み、じっと見ていた。


 だが、俺が描いたものを山や集落だと思ったらしい。


 四角の一つを指し、聞いたことのない音を口にする。


「違う」


 俺は首を振った。


 もっと高い。


 もっと多い。


 火を使わなくても明るい。


 人の顔を見なくても話せる。


 どれも、地面に描けなかった。


 スマートフォンを出そうとして、腰へ手をやった。


 そこには何もない。


 あの端末が残っていたとしても、もう動かなかっただろう。


 俺は描いた四角を手で消した。


 二本の線も消す。


 人を表す印も、土に戻す。


 最後に一本だけ、長い線を引いた。


 その端に現在の自分を示す丸を置く。


 線の反対側を指す。


 そこが俺のいた場所だ。


 そう伝えたかった。


 だが、トワは線の向こうにある木々を見た。


 立ち上がり、その方向へ歩こうとした。


「違う」


 俺は慌てて腕をつかんだ。


 トワが振り返る。


 俺は線を指した。


 次に森を指し、首を振る。


 線は道ではない。


 向こうへ歩いても着かない。


 トワは俺の手を見た。


 それから、土に引かれた線を見る。


 しばらく動かなかった。


 やがて彼は、足で線の半分を消した。


 残った半分も消す。


 俺が最初に置いた丸だけが、土の上に残った。


 トワはその丸を指した。


 次に倒木の窪みを指す。


 俺を見る。


「サエ」


 俺はうなずいた。


 トワはもう、どの方向から来たのか尋ねなかった。


 窪みの周りをもう一度見回した。


 獣の跡はある。


 折れた枝もある。


 だが、俺につながる道はない。


 トワがすべてを理解したとは思わなかった。


 未来も、機械も、時間を越えることも知らない。


 それでも一つだけ、伝わったように見えた。


 俺には、指し示せる来た道がない。


 トワは腰を下ろした。


 イナから渡された包みを指す。


 俺たちは倒木に並んで座り、木の実を食べた。


 話すことはなかった。


 頭上で葉が揺れていた。


 光が途切れ、また地面へ落ちる。


 俺が最初に目を覚ました日にも、同じ光を見た。


 あのときは、ここがどこなのか分からなかった。


 今も分からないことは多い。


 だが、あの日とは違っていた。


 隣に一人、座っている。


    *


 帰り道、トワは何度も振り返った。


 俺がついてきているか確かめているらしい。


 森を抜けると、川の音が聞こえた。


 集落の煙が木々の向こうに見える。


 その煙を見た瞬間、肩から力が抜けた。


 トワは川辺へ下りた。


 昨日、山や集落を描いた場所は、子どもたちの足跡でほとんど消えていた。


 白い石だけが、集落を示す丸の中に残っている。


 少年が置いた、俺の石だった。


 トワはそれを拾わなかった。


 集落の丸の隣に、別の丸を描く。


 川下にも、もう一つ丸を描く。


 二つの丸を線で結んだ。


 トワは自分の胸を指した。


「トワ」


 川下の丸を指す。


 次に俺を指した。


「サエ」


 そして二本の指を並べ、線の上を歩かせた。


 俺とトワ。


 二人で川下へ行く。


 トワは腰の石刃を指した。


 遠い山を指す。


 ナミが去った川下を指す。


 最後に、もう一度俺を見た。


 俺は答えなかった。


 すぐには答えられなかった。


 白い石は、まだ集落の中にある。


 トワも、それを外へ動かそうとはしなかった。


 ただ集落から川下へ伸びる線を、指でもう一度なぞった。


 昨日まで、地面の線は、俺がどこから来たのかを探すために引かれていた。


 今、トワの指がなぞった線は、俺がこれから行くかもしれない場所へ伸びていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。