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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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第36話 どこから

 翌朝、川辺の地面には、まだ線が残っていた。


 夜露で輪郭は崩れている。


 山の一つは誰かに踏まれ、半分消えていた。


 それでも、遠い山からこの集落まで続く線だけは見えた。


 黒曜石はなかった。


 若い男が持ち帰ったのだろう。


 代わりに、小さな丸い石が一つ置かれていた。


 集落の子どもが拾ってきたらしい。


 子どもは石を指で押し、昨日、黒曜石がたどった線の上を動かしていた。


「こっち」


 そう言っているような声を出し、石を一つ先の丸へ進める。


 もう一人の子が、その先に別の小石を置いた。


 二人には、それぞれの小石が人に見えているらしい。


 後から来た子どもたちも、次々に石を置き始めた。


 白い石。


 赤い石。


 細長い石。


 欠けた石。


 地面の上に、小さな人の群れができた。


 一人の子が細長い石を取り、川下へ動かした。


「ナミ」


 昨日、ナミから紐をもらった少年だった。


 手首には、あの細い紐が巻かれている。


 少年は石を川下の丸へ置いた。


 少し考えてから、その横に四つの石を並べた。


 ナミと一緒に去った者たちだ。


 数は合っていた。


 子どもたちは、誰がどこへ行ったのかを覚えている。


 文字もない。


 描かれた地図も、雨が降れば消える。


 それでも、ナミが川下へ向かったことは、少年の中に残っていた。


 背後で石の触れ合う音がした。


 振り向くと、若い男が立っていた。


 昨日作った長い石刃を腰に下げている。


 子どもたちは逃げなかった。


 一人が地面に置かれた石を指し、若い男を見た。


「トワ」


 若い男が自分の胸に手を当てた。


「トワ」


 もう一度、はっきり言った。


 子どもが同じ音を繰り返す。


「トワ」


 若い男はうなずいた。


 それが彼の名らしい。


 トワはしゃがみ、崩れた山を指で描き直した。


 一番遠い山を指す。


「ハウ」


 次の山。


「ミナ」


 川が曲がる場所。


「スイ」


 音は短かった。


 俺には、それが山の名なのか、そこに住む人々の名なのか分からない。


 だが、トワが指すたび、別の音が返ってくる。


 何もないと思っていた山の向こうに、名前があった。


 見えない場所にも、人が暮らしていた。


 少年が川下に置いた細長い石を指した。


「ナミ」


 トワはうなずき、川下の丸を指す。


 聞いたことのない音を一つ口にした。


 少年はその音をまねた。


 最初は違った。


 トワが言い直す。


 少年も言い直す。


 三度目に、音が近くなった。


 少年は手首の紐を持ち上げ、その音をもう一度言った。


 ナミが向かった場所にも、名前がある。


 名を知っているだけで、少年の顔から少し力が抜けたように見えた。


 そこへ集落の女が来た。


 トワを呼んだのだと思った。


 だが、トワは立ち上がらない。


 地面に描かれた山を指し、何かを答えた。


 女は呆れたような顔をして、彼の肩を軽く叩いた。


 その手に木の実を載せ、戻っていく。


 トワは木の実を一つ口へ入れた。


 残りは子どもたちへ渡した。


 最初に来たとき、子どもたちは彼のそばへ近づかなかった。


 今は肩越しに地面をのぞき込み、腕に触れ、腰の石刃を指している。


 トワは石刃に手を伸ばした子の額を、指で軽く押した。


 子どもが笑った。


 トワも笑った。


 昨日まで彼は、川下から来た若い男だった。


 今はもう、名を呼ばれていた。


    *


 トワは木の実を食べ終えると、地面に丸を描いた。


 空を指す。


 それから、その丸の右側を削り取る。


 もう一つ丸を描き、今度は半分消す。


 細くなり、消え、また太くなる。


 月だと分かった。


 トワは同じ形を何度も並べた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 数えながら描いているわけではない。


 月が満ちて、欠け、また満ちる。


 その繰り返しを見せていた。


 最後に、トワは地面へ落ちていた緑の葉を拾った。


 頭の上の木を指す。


 葉を土でこすり、裏返す。


 何度か繰り返してから、枯れた葉を探して隣に置いた。


 そして川下を指した。


「帰るのか」


 俺が言うと、トワは俺の言葉を理解しなかった。


 だが、川下を指し、自分の胸を叩いた。


 ここに残ったからといって、ずっとここにいるわけではない。


 葉の色が変わるころなのか。


 月が何度か満ちたあとか。


 トワは、また川下へ戻る。


 それでも、昨日作った石刃を指し、集落の方を指した。


 次に、黒曜石が来た遠い山を指す。


 行って、戻る。


 渡して、持ち帰る。


 そのどれも、彼らにとっては同じ道の上にあるらしい。


 俺は地面に置かれた石を見た。


 ナミは去った。


 トワは残った。


 けれど、どちらもそこで終わったわけではなかった。


 道があるかぎり、また誰かが来る。


 また誰かが去る。


 トワが俺の前に小石を一つ置いた。


 他の石より白く、片側だけ平らだった。


 彼はその石を指し、次に俺を指した。


「俺?」


 トワがうなずく。


 白い石を持ち上げた。


 地面に描かれた一番遠い山の上へ置く。


 俺を見る。


 俺は首を振った。


 トワは石を次の山へ移した。


 また俺を見る。


 首を振る。


 川下の丸。


 違う。


 川の上流。


 そこでもない。


 トワは地面のあちこちへ白い石を置いた。


 そのたびに、俺は首を振った。


 子どもたちも、いつの間にか黙っていた。


 トワは白い石を俺の前へ戻した。


 自分の胸を指す。


「トワ」


 遠い山を指す。


「ハウ」


 次に俺を指した。


 地面の山や川を、手のひらで示す。


 短い音を口にした。


「……トコ」


 聞き間違いかもしれない。


 俺の知っている日本語と、偶然似ていただけかもしれない。


 それでも、何を尋ねているのかは分かった。


 どこから来た。


 俺は地面を見た。


 山。


 川。


 いくつもの集落。


 昨日までは知らなかった場所が、今は線でつながっている。


 だが、そのどこにも俺の来た場所はなかった。


 東京。


 電車。


 高い建物。


 夜になっても消えない明かり。


 人の声より先に、機械の声が答える場所。


 そのすべてを、どの方向へ指せばいいのか分からなかった。


 空を指すわけにもいかない。


 遠い山の向こうでもない。


 海の向こうでもない。


 俺は手を上げられなかった。


 沈黙が長くなった。


 すると、ナミの紐を巻いた少年が、俺の前にある白い石を拾った。


 少年は迷わなかった。


 山にも、川下にも置かない。


 集落を示す丸の中へ、白い石を置いた。


「サエ」


 少年が俺を見た。


 もう一度、石を指す。


「サエ」


 俺の名を、彼らはそう呼んでいた。


 佐伯ではない。


 けれど、今ではその音に振り向く。


 ほかの子どもたちも、集落の中に置かれた白い石を見て笑った。


 俺も少しだけ笑った。


 胸の奥で、張っていたものが緩んだ。


 ここに置かれたことが、うれしかった。


 トワも白い石を見ていた。


 だが、笑わなかった。


 ゆっくりと首を振った。


 少年が不満そうな声を出す。


 トワは少年の置いた石を動かさなかった。


 白い石は、そのまま集落の中に残した。


 そのうえで、もう一度俺を指した。


 次に、集落の外を指す。


 川ではなかった。


 山でもなかった。


 俺が初めて、この時代の光を見た森。


 トワの指は、まっすぐそこへ向いていた。


 笑っていた子どもたちが静かになった。


 少年が、自分の置いた白い石を見る。


 トワは集落の丸を指さなかった。


 俺がここにいることを尋ねているのではない。


 ここへ来る前、どこにいたのか。


 そう尋ねていた。


 俺は森を見た。


 木々の間は暗く、その先までは見えない。


 地面に描かれたどの線も、あの森へは続いていなかった。


お読みいただき、ありがとうございます。

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