第4話 火のそばで眠る
火のそばを指されたあとも、
俺はしばらく立ったままだった。
本当に、ここにいていいのか。
老人を見る。
老人はもう俺を見ていなかった。
若い男も槍を下ろしている。
ただ、
納得した顔ではなかった。
俺と目が合う。
男は何も言わず、視線をそらした。
どうやら、
今夜は追い出されない。
それ以上の意味はなさそうだった。
俺は火のほうへ歩いた。
近くにいた人たちが、
少しだけ離れた。
場所を空けてくれた――
わけではない。
俺が近づいたぶんだけ、
距離を取ったのだ。
「……まあ、そうだよな」
火から少し離れたところに腰を下ろした。
地面は、
思ったより硬かった。
*
暗くなるのは早かった。
さっきまで見えていた森が、
気づけば黒い壁になっている。
火の周りでは、
まだ人が動いていた。
誰かが薪を足す。
誰かが器を運ぶ。
子どもが呼ばれる。
犬が地面に丸くなる。
声は聞こえる。
一つも分からない。
俺はただ、
座っていた。
何をすればいいのか分からなかった。
手伝おうにも、
何をしているのか分からない。
立ち上がれば、
また警戒されるかもしれない。
勝手に物へ触るわけにもいかない。
結局、
何もしなかった。
ポケットからスマートフォンを出した。
電源ボタンを押す。
何も起きない。
もう一度。
黒い画面に、
火の光だけが揺れた。
俺はボタンから指を離した。
そのとき、
何かが足元へ転がってきた。
小さな木の実だった。
顔を上げる。
昼間、
俺の革靴に触った子どもがいた。
少し離れたところから、
こちらを見ている。
俺は木の実を拾った。
子どもを見る。
子どもが手を伸ばした。
返せ、
ということらしい。
俺は立ち上がらず、
腕だけ伸ばした。
子どもが近づく。
俺の手から木の実を取った。
すぐに走って戻る。
母親らしい女の後ろに隠れた。
そこから、
また顔を出す。
目が合った。
今度は、
逃げなかった。
*
夜が深くなるにつれて、
音が増えた。
虫。
風。
葉が擦れる音。
火がはぜる音。
遠くで、
何かが鳴いた。
低い声だった。
俺は顔を上げた。
誰も驚いていない。
もう一度。
今度は、
少し近い気がした。
犬が耳を立てた。
若い男が森を見る。
俺も見る。
何も見えない。
昼間の森とは違った。
昼は、
知らない場所だった。
夜は、
何かがいる場所に見えた。
無意識に、
ポケットの中へ手を入れた。
指に硬いものが触れる。
鍵だった。
自宅の鍵。
こんなところまで、
持ってきてしまった。
指で握る。
いつもの形。
いつもの金属の感触。
それなのに、
今は何一つ開けられない。
森の奥で、
また何かが鳴いた。
俺は鍵から手を離した。
近くで笑い声がした。
見ると、
何人かがこちらを見ている。
俺が森の音に驚いたのが分かったらしい。
その中に、
若い男もいた。
口元が少し動いている。
「笑うなよ」
男が何か返した。
意味は分からない。
周りがまた笑った。
俺も、
少しだけ笑った。
言葉が分からなくても、
笑われていることくらいは分かる。
*
しばらくすると、
人が一人、また一人と横になり始めた。
俺はどうすればいいのか分からず、
また座っていた。
あの女が来た。
昼間、
水と木の実をくれた女だ。
俺を見る。
それから、
火から少し離れた地面を指した。
草を束ねたようなものが敷いてある。
俺を指す。
地面を指す。
「ここ?」
女がもう一度指した。
どうやら、
そういうことらしい。
「ありがとう」
頭を下げる。
女は少しだけこちらを見て、
離れていった。
俺は革靴を見る。
脱ぐべきか迷った。
周りを見る。
裸足の人もいる。
足に何かを巻いている人もいた。
さすがに革靴のまま寝るのも変だ。
靴紐をほどいた。
視線を感じる。
見る。
また、
あの子どもだった。
「またお前か」
当然、通じない。
革靴を脱ぐ。
子どもの目が大きくなった。
靴下を見ている。
「これは珍しいか」
子どもが少し近づいた。
俺は靴下も脱ごうとして、
やめた。
「そこまでは見せないぞ」
子どもには分からない。
それでも、
俺の顔を見て笑った。
俺も笑った。
母親らしい女の声がした。
子どもは振り返り、
走っていった。
俺は草の上に横になった。
硬い。
背中に何かが当たる。
少し身体をずらす。
まだ当たる。
もう一度ずらす。
今度は、
さっきよりましだった。
空を見る。
星が見えた。
多すぎる。
しばらく見ていた。
目を閉じる。
*
眠れなかった。
虫が鳴いている。
火がはぜる。
誰かが寝返りを打つ。
犬が小さく鼻を鳴らした。
森の奥から、
また何か聞こえた。
目を開ける。
火を見る。
まだ燃えている。
目を閉じる。
しばらくして、
また開ける。
火を見る。
燃えている。
何度繰り返したか分からない。
そのうち、
人の気配がした。
目を開ける。
若い男がいた。
火のそばにしゃがんでいる。
男は薪を一本取った。
火の端へ置く。
炎が木へ移る。
それから、
俺を見た。
「……何?」
男は俺を指した。
次に、
薪を指す。
火を指す。
俺。
薪。
火。
「……俺?」
男は答えない。
もう一度、
同じ順番で指した。
俺は身体を起こした。
「これを入れろって?」
男は立ち上がった。
少し離れたところへ行く。
横になった。
「おい」
返事はない。
眠るのかと思った。
けれど、
しばらくすると目が開いた。
俺を見ている。
いや。
火を見ているのかもしれない。
信用されているわけではないらしい。
それなら、
少し納得できた。
俺は火へ向き直った。
何をするのかは、
さっき見た。
火が小さくなったら、
薪を入れる。
たぶん、
それだけだ。
たったそれだけなのに、
妙に緊張した。
しばらく待つ。
炎が少し低くなった。
まだか。
もう少しか。
分からない。
若い男を見る。
目を閉じている。
俺は薪を一本取った。
男がやったのと同じように、
火の端へ置く。
すぐには燃えなかった。
「……違ったか?」
思わず男を見る。
動かない。
もう一度、
火を見る。
やがて、
小さな炎が木の端へ移った。
木の表面が、
ゆっくり赤くなる。
消えない。
俺は息を吐いた。
少し離れたところを見る。
若い男が、
こちらを見ていた。
目が合う。
男は何も言わなかった。
俺も何も言わない。
火へ向き直った。
ぱち、と、
薪が鳴った。
今夜、
俺にできることは、
これくらいだった。
火を、消さないこと。
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