第3話 ここに、いていいのか
縄文土器。
頭に浮かんだその言葉を、俺はすぐには信じられなかった。
もう一度、老人の足元を見る。
土の器。
表面に残る、縄を押しつけたような模様。
顔を上げた。
煙が上がっている。
子どもが走っている。
石を打つ乾いた音がする。
犬が吠えている。
教科書の中じゃない。
ここで暮らしている人間が、俺を見ていた。
「……本当に?」
声が漏れた。
若い男が反応した。
槍を持ち直す。
近くにいた子どもが泣き出した。
女がすぐに抱き上げ、俺から離れる。
別の男が立ち上がった。
何人かが子どもを自分たちの後ろへ下がらせる。
俺は動かなかった。
両手を見えるところに出す。
森の中では三人だった。
今は、数え切れないほどの目がある。
*
年上の男が話し始めた。
森で俺を見つけた男だ。
短く話しては、俺を指す。
また話す。
今度は森を指す。
何を言っているのかは分からない。
若い男が何か言った。
声が強い。
年上の男が答える。
若い男はまた言う。
俺を指した。
それから、森を指す。
俺を見る。
もう一度、森。
さすがに分かった。
「……帰れって?」
若い男の表情は変わらない。
帰る。
どこへ?
俺も森を見る。
あの中へ戻されたら、夜を越えられるだろうか。
蛇一匹、見つけられなかった。
地面の足跡も読めない。
水がどこにあるのかも知らない。
空を見る。
太陽は、もう傾き始めていた。
そのとき、急に喉の渇きを感じた。
「水……」
誰も反応しない。
「水」
口を指す。
喉を指す。
手を丸めて、飲む真似をする。
もう一度やった。
「水」
若い男の眉が寄る。
俺はまた飲む仕草をした。
すると、あの女が動いた。
スマートフォンを調べていた女だ。
少し離れた場所へ行き、やがて器を持って戻ってきた。
俺の前まで来る。
差し出す。
水だった。
「……ありがとう」
受け取ろうとした。
女はすぐには手を離さなかった。
俺を見る。
俺も見る。
しばらくして、女の手が離れた。
器は思ったより重かった。
両手で持つ。
水面に、自分の顔が揺れていた。
髪には葉がついている。
頬には土がついていた。
一口飲む。
冷たい。
もう一口。
止まらなくなった。
「うまい……」
ただの水だった。
昨日までなら、水を飲むことに困るなんて考えたこともなかった。
今は、水が欲しい。
その一言さえ伝えられない。
俺は器を女に返した。
「ありがとう」
頭を下げる。
女は俺を見てから、ほんの少し、同じように頭を動かした。
*
話はまだ続いていた。
誰かが言う。
別の誰かが答える。
若い男の声が強くなる。
年上の男が返す。
老人は、ほとんど話さなかった。
さっき土器を落とした老人だ。
少し離れたところに座り、ずっと俺を見ている。
いや。
見ているのは、俺だけじゃない。
手。
シャツ。
ズボン。
ベルト。
革靴。
時々、ポケットの辺り。
やがて老人が立ち上がった。
こちらへ来る。
若い男が何か言った。
老人は答えない。
俺の前で止まった。
近くで見ると、かなり年を取っていた。
顔には深い皺がある。
老人が手を伸ばした。
反射的に身体が固くなる。
指がシャツの袖に触れた。
布をつまむ。
擦る。
裏返す。
縫い目を見る。
次にズボン。
ベルト。
そして、革靴の前でしゃがんだ。
靴の表面を指で押す。
何か言った。
周りにいた人間が答えた。
何人かが近づいてくる。
その間から、一人の子どもが出てきた。
母親らしい女が腕を伸ばしたが、少し遅かった。
子どもは俺の前で止まった。
俺を見る。
俺も見る。
視線が下がった。
革靴。
子どもがしゃがむ。
指を伸ばす。
ちょん、と靴の先に触れた。
すぐに手を引いた。
俺は思わず笑った。
子どもも、少しだけ笑った。
次の瞬間、女が飛んできた。
子どもを抱き上げ、何か言いながら離れていく。
「ごめん」
その背中に言った。
老人だけが、まだ俺を見ていた。
*
腹が鳴った。
思ったより大きな音だった。
近くにいた女が俺を見る。
俺は腹を押さえた。
「……今度は飯か」
女は俺の仕草を見ると、何か言って離れていった。
戻ってきた手には、木の実らしいものがいくつかあった。
女が一つ取り、自分の口に入れる。
俺も一つ取った。
匂いを嗅ぐ。
女が見ている。
口に入れた。
硬い。
噛むと、わずかに香ばしい匂いがした。
もう一つ取る。
女は何も言わない。
俺は頷いた。
「うまい」
もちろん通じない。
腹を軽く叩いて、もう一度頷いた。
女の口元が少し動いた。
そのとき、声がした。
若い男だった。
女に何か言っている。
女が振り返る。
若い男が俺を指した。
それから、森を指した。
女の口元から、笑いが消えた。
*
日が沈み始めた。
森の影が長く伸びる。
昼間より空気が冷たい。
火の周りに人が集まり始めた。
子どもの声も少なくなっていく。
俺は、まだ同じ場所にいた。
誰も俺を、あの建物の中へ連れていこうとはしなかった。
若い男がこちらへ来た。
手に何か持っている。
俺の財布と、スマートフォンだった。
男はそれを俺の足元に置いた。
それから、森を指した。
俺を見る。
もう一度、森を指す。
今度は間違えようがなかった。
出ていけ。
俺は森を見た。
木々の向こうは、もう暗い。
昼間ですら、何があるのか分からなかった。
「……今から?」
若い男は動かない。
「せめて、朝まで」
通じない。
「明るくなるまででいい」
やはり通じない。
若い男が一歩近づいた。
槍は持っている。
だが、俺には向けていなかった。
ただ森を指している。
俺は足元のスマートフォンを拾った。
財布も拾う。
ポケットに入れた。
そのとき、短い声がした。
老人だった。
若い男が振り返る。
老人がこちらへ歩いてくる。
若い男が何か言った。
老人が答える。
若い男の声が強くなった。
老人は動かなかった。
二人が見つめ合う。
周りの人間も、黙っている。
やがて老人が俺を見た。
俺の足元を指す。
次に、火のそばを指した。
俺は動かなかった。
老人がもう一度やる。
俺。
足元。
火。
そして、地面へ手を向けた。
若い男が何か言った。
老人は首を振った。
俺にも意味が分かった。
仲間になったわけじゃない。
ただ、今夜だけ。
俺は頭を下げた。
顔を上げる。
火の向こうでは、まだ何人もの目が俺を見ていた。
それでも、森ではない。
火のそばだ。
俺は、そこへ座った。
けれど、誰も俺の隣には座らなかった。
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