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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
AIで仕事を失う

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第2話 言葉が、通じない

槍の先が、俺の胸を向いていた。

石だった。

灰色の石を鋭く割り、木の棒の先に取り付けてある。

博物館なら、ガラス越しに眺めていたかもしれない。

だが今、その切っ先は、俺の胸から二メートルも離れていなかった。

「待ってくれ。俺は――」

そこで言葉が止まった。

槍を持つ男の顔を見る。

通じていない。

意味が分からないというより、俺の声そのものを警戒しているようだった。

男は三人の中で一番若く見えた。

俺より頭一つ近く低い。

それでも、小さいとは感じなかった。

肩から腕にかけて余分な肉がなく、日に焼けた肌が張っている。

肩まで伸びた髪は、後ろで束ねてあった。

男が何か言った。

短い音だった。

「……」

何一つ分からない。

男がもう一度言う。

やはり分からない。

俺は両手を上げたまま、黙った。

後ろにいたもう一人が、若い男の肩に手を置いた。

年上の男だった。

四十代なのか、五十代なのか。

よく分からない。

髪には白いものが混じっている。

彼はすぐには近づかなかった。

俺の顔を見る。

シャツを見る。

ズボンを見る。

革靴を見る。

最後に、俺の右手で目を止めた。

スマートフォン。

そうか。

俺が向こうを奇妙だと思っている以上に、向こうから見れば、俺のほうが奇妙なのだ。

年上の男が自分の胸に手を当てた。

何か言った。

同じ音を、もう一度。

俺は少し迷ってから、自分の胸を指した。

「佐伯」

三人が黙った。

「佐伯。直人」

年上の男が俺の口元を見た。

「サ……」

少し違う。

「佐伯」

もう一度言う。

男も、もう一度音を返した。

やはり違った。

それでも、さっきより少しだけ息がしやすくなった。

言葉は通じない。

それでも、何かを伝えようとしていることだけは分かった。

         *

三人目は女だった。

髪を後ろで束ね、首には小さな玉のようなものを連ねている。

彼女は、さっきから俺の顔を見ていなかった。

見ているのは右手だ。

スマートフォン。

俺は反射的にポケットへ戻そうとした。

若い男が鋭く声を上げた。

槍が動く。

「分かった」

手を止めた。

女が一歩近づく。

若い男が何か言った。

女が答える。

また男が言う。

声が少し強くなった。

言葉は一つも分からない。

だが、意見が合っていないことだけは分かった。

年上の男が短く何か言った。

二人とも黙る。

女が俺を見る。

いや。

スマートフォンを見る。

俺はゆっくり手を開いた。

黒い画面を上に向ける。

電源ボタンを押した。

反応はない。

もう一度。

やはり何も起きない。

昨日までなら、この一枚で大抵のことができた。

人と話せた。

金を払えた。

道を調べられた。

分からないことがあれば、AIに聞けばよかった。

今は、ただの黒い板だった。

女が手を伸ばしかけた。

止める。

俺は少し考えてから、スマートフォンを地面に置いた。

一歩下がる。

三人が見る。

誰もすぐには触らなかった。

やがて女がしゃがんだ。

指先で、そっと触れる。

すぐに手を引いた。

何も起きない。

もう一度触る。

今度は持ち上げた。

表。

裏。

側面。

光にかざす。

縁を指でなぞる。

また裏返す。

ただ珍しがっているわけではない。

調べているのだ。

しばらくして、女はスマートフォンを俺に差し出した。

俺は受け取った。

「ありがとう」

頭を下げる。

女が俺を見た。

少し間を置いて、同じように頭を動かした。

真似したのか。

もともと似た仕草があるのか。

分からなかった。

         *

年上の男が歩き出した。

数歩進んで振り返る。

俺を見る。

それから、森の奥を指した。

「……ついて来いってことか?」

当然、答えはない。

男はもう一度、同じ仕草をした。

若い男は嫌そうな顔をしている。

行くべきか。

逃げるべきか。

後ろを見る。

森。

前を見る。

森。

逃げたところで、どこへ行けばいい?

ポケットの中で財布に触れた。

一万円札。

クレジットカード。

交通系ICカード。

運転免許証。

社員証。

昨日までなら、どれも俺が何者なのかを証明してくれた。

ここでは、何の意味もない。

社員証には会社名と俺の名前が書いてある。

その会社では、来月から俺の仕事がなくなる。

そして今は、会社そのものがどこにもない。

俺は財布から手を離した。

三人についていった。

         *

道はなかった。

少なくとも、俺にはそう見えた。

三人は迷わず木々の間を進んでいく。

俺だけが何度も枝に引っかかった。

革靴は最悪だった。

湿った土では滑る。

落ち葉の下に何があるか分からない。

木の根につまずく。

小さな斜面を下りるだけで、二度も転びそうになった。

前を歩いていた若い男が振り返った。

俺の足元を見る。

何か言った。

女が笑った。

たぶん、笑われた。

「仕方ないだろ。革靴なんだから」

言い返す。

もちろん通じない。

若い男は俺よりずっと背が低い。

それなのに森へ入ってからは、俺のほうが小さくなったような気がした。

どこに足を置くのか。

どの枝を避けるのか。

どこを踏めば滑るのか。

男はいちいち確かめない。

ただ歩いていく。

俺は十五年間、毎日歩いて会社へ通った。

一日一万歩を超えて、スマートフォンに褒められた日もある。

ここでは百メートル歩くだけで息が上がった。

そのとき、若い男が突然振り返った。

俺の腕をつかんだ。

強く引く。

「何する――」

足が止まった。

男は俺を見ず、足元を指した。

草の間で、何かが動いた。

細長いものだった。

一瞬だけ模様のある背が見え、そのまま落ち葉の下へ消えていく。

俺は動けなかった。

蛇。

あと一歩だった。

若い男は俺の腕を離した。

何か吐き捨てるように言うと、また歩き出した。

さっきまで、あれほど俺に槍を向けていた男だった。

俺は自分の腕を見た。

つかまれたところが少し赤くなっている。

「……ありがとう」

背中に言った。

男は振り返らなかった。

しばらく歩く。

今度は年上の男が止まった。

片手を上げる。

全員が止まる。

男は地面を見ていた。

俺も見る。

枯れ葉。

土。

小枝。

それだけだ。

年上の男がしゃがみ、土の一か所を指した。

若い男の表情が変わった。

女も周囲を見回す。

俺には何も見えない。

年上の男は立ち上がると、進む方向を変えた。

三人が続く。

俺もついていった。

少し先で、泥の上に跡を見つけた。

足跡。

人間ではない。

大きい。

何の動物かは分からなかった。

俺には、ここまで来なければ見えなかった。

年上の男は、ずっと手前で気づいていた。

俺は自分の革靴を見た。

泥だらけだった。

さっきから転びそうになっているのも、蛇を踏みそうになったのも、俺だけだ。

前を行く三人の背中が、さっきまでとは少し違って見えた。

         *

森を抜けるころには、足が痛くなっていた。

最初に気づいたのは煙だった。

木々の向こうから、細い煙が上がっている。

風に乗って匂いが来た。

火。

それから、何かを焼いている匂い。

人の声も聞こえた。

子どもの声。

石を打つような乾いた音。

犬らしい鳴き声。

三人の歩く速度が少し上がった。

木々が途切れた。

視界が開ける。

俺は足を止めた。

人がいた。

思っていたより、ずっと多い。

子どもが走っている。

その向こうで煙が上がる。

地面を浅く掘り下げたところに、木を組んだ建物がいくつもあった。

誰かが石を打っている。

別の場所では、人が火を囲んでいた。

犬らしいものがこちらを見て吠えた。

生活している。

その当たり前のことに、俺はなぜか驚いた。

一人がこちらに気づいた。

動きが止まる。

次の一人も俺を見る。

走っていた子どもが止まった。

声が一つずつ消えていく。

やがて、そこにいたほとんど全員が俺を見ていた。

俺も動けなかった。

若い男が何か叫んだ。

人々がざわつく。

一人の子どもが近づこうとして、女に腕をつかまれた。

年上の男が前へ出る。

何かを話し始めた。

何度か俺を指す。

森で見つけたことを説明しているのだろうか。

俺は黙って立っていた。

そのときだった。

火のそばにいた老人が立ち上がった。

俺を見る。

一歩前へ出る。

手にしていたものが落ちた。

土の上で、鈍い音がした。

器だった。

割れなかった。

土の器。

表面に、縄を押しつけたような跡がある。

俺は、その模様を知っていた。

教科書で見た。

博物館でも見た。

だが、ガラス越しではない。

老人の足元にあるそれは、今ここで使われている器だった。

縄文土器。

俺は息を呑んだ。

教科書の中にあったものが、土の上で、まだ温かい火のそばに転がっていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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