第34話 六人目
火が小さくなっても、俺はしばらく眠れなかった。
灰の上に引かれた線は、もう残っていない。
けれど、アオの名だけが、耳の奥に残っていた。
最後に見たときは、生きていた。
そのあと、どこへ行ったのかは分からない。
分かったことより、分からないことのほうが多い。それでもイナは、もう何も尋ねなかった。
骨の輪を握ったまま、火を見ていた。
俺も声をかけなかった。
言葉にすれば、かえって遠くなる気がした。
寝床へ戻ろうとして、俺は足を止めた。
訪れた者たちの荷が、木の下にまとめて置かれている。
籠が六つあった。
川下から来たのは五人だ。
白い髪の男。年老いた女。もう一人の女。若い男。そして子ども。
何度数えても、五人だった。
だが、籠は六つある。
一番端の籠だけ、色が違っていた。
見覚えがあった。
この集落で編まれたものだ。
中には、乾かした木の実と、小さな獣の皮が入っている。土を入れた袋、骨の針、それから使い込まれた石の刃。
旅人に渡す品には見えなかった。
一人が暮らすための荷だった。
背後で足音がした。
振り向くと、若い女が立っていた。
ナミだった。
彼女は俺を見ても驚かなかった。手にしていた骨の櫛を籠の中へ入れ、上から皮をかぶせた。
「ナミ」
呼ぶと、彼女はうなずいた。
それだけだった。
俺が川下の方角を指すと、ナミはもう一度うなずいた。
迷いのない動きだった。
暗がりから、別の影が飛び出してきた。
七つか八つほどの男の子だった。ナミとよく一緒にいる子だ。
少年は籠を見ると、顔を強張らせた。
「ナミ」
ナミが手を伸ばした。
少年はその手を振り払い、走り去った。
彼女は追わなかった。
しばらく少年の消えた方を見てから、籠を木の根元へ寄せた。
その夜、川下から来た者たちは、いくつかの家に分かれて眠った。
年老いた女はウネのそばにいた。
白い髪の男は、罠や道具を作る男たちの火の近くへ座った。
連れてきた子どもは、いつの間にか集落の子どもたちに交じっていた。言葉はほとんど通じていないはずなのに、笑うときだけは同じだった。
若い男は、石を割る男のそばから離れなかった。
火の前には黒曜石が置かれていた。
集落の男が石を打つ。
乾いた音がして、薄い欠片が落ちる。
若い男はその手元を見つめていた。
今度は自分の石を取り出し、少し違う角度から打った。
欠片は思った方向へ飛ばなかった。
集落の男が何か言った。
若い男も言い返した。
声は荒くない。けれど、どちらも譲らなかった。
やがて二人は黙り、また石を見た。
俺が眠りにつくまで、石を打つ音は途切れなかった。
*
朝、短い声が集落に響いた。
ナミが籠の中を探していた。
皮をどけ、木の実の袋を出し、底に手を入れる。
何度探しても、石の刃がない。
人が集まり始めた。
誰かが何かを尋ねる。
ナミは首を振った。
そのとき、少し離れた木の陰で、昨日の少年が動いた。
胸元に何かを抱えている。
俺と目が合うと、少年は背を向けた。
俺は近づいた。
少年は逃げなかった。
腕の隙間から、石の刃が見えた。
ナミのものだった。
「それ……」
手を出すと、少年は強く首を振った。
刃を抱えたまま、ナミを見た。
「ナミ」
かすれた声だった。
ナミも少年に気づいた。
ゆっくり近づき、彼の前にしゃがんだ。
手は出さなかった。
ただ、川下から来た者たちを指した。
次に、川の流れる方角を指した。
最後に、自分の胸へ手を置いた。
少年は何度も首を振った。
「ナミ」
ナミは同じ動きを繰り返した。
川下。
自分。
行く。
少年は石の刃を背中へ隠した。
ナミはしばらく彼を見ていた。
それから立ち上がり、刃を持たないまま籠を背負った。
少年の顔が変わった。
ナミは歩き出した。
一歩。
二歩。
少年は耐えきれなくなったように駆け寄り、後ろからナミの腰にしがみついた。
声を上げて泣いた。
ナミは籠を下ろした。
少年の前に座り、両腕で抱いた。
二人の額が触れた。
ナミが何かを言った。
短い言葉だった。
少年は泣きながら首を振る。
ナミは自分の手首に巻いていた細い紐をほどいた。
獣の腱を撚ったものだった。
その紐を、少年の手首へ巻く。
何度も引いて、簡単にはほどけないように結んだ。
少年は結び目を見つめた。
やがて背中に隠していた石の刃を出し、ナミへ差し出した。
ナミはすぐには受け取らなかった。
少年の手ごと包むように握ってから、刃を受け取った。
それを籠の奥へしまった。
誰も二人を急かさなかった。
*
日が木々の上へ出るころ、旅立つ者たちが川辺に集まった。
ナミもその中にいた。
年老いた女が、彼女の籠を開く。
中の品を一つずつ確かめ、足りないものを指で示す。
集落の女が乾かした木の実を持ってきた。
別の者は、火を移すための乾いた木屑を渡した。
誰もナミに命じてはいなかった。
誰も彼女を、品のように扱ってはいなかった。
ナミは自分で籠を背負い、自分の足で川下へ向かおうとしている。
それでも、俺の中には小さな引っかかりが残った。
なぜ彼女は行くのか。
いつから決めていたのか。
向こうに何があるのか。
聞くための言葉を、俺はまだ持っていなかった。
少年は少し離れたところに立っていた。
手首の紐を何度も触っている。
ナミが彼を見る。
少年は泣かなかった。
唇を強く結び、手首を高く上げた。
ナミも自分の手首を上げた。
そこにはもう、紐はない。
それでも同じ仕草を返した。
白い髪の男が川へ入った。
年老いた女が続く。
もう一人の女と子どもも、水を渡り始めた。
ナミが最後に振り返った。
少年。
ウネ。
集落の者たち。
そして、ほんの一瞬だけ俺を見る。
彼女は何も言わなかった。
俺もうなずくだけにした。
ナミが川へ足を入れた。
水が膝まで上がる。
向こう岸へ渡った者たちが、彼女を待っていた。
そのとき、俺は気づいた。
一人、いない。
川下から来た若い男だ。
振り返ると、彼は集落の中にいた。
昨夜の火のそばで、石を割る男と向かい合っている。
足元には、自分の獣皮と、黒曜石を入れた袋が置かれていた。
旅支度ではない。
荷をほどいていた。
集落の男が黒曜石の塊を一つ持ち上げ、若い男へ渡す。
若い男は両手で受け取った。
二人はまだ笑っていなかった。
けれど、もう言い争ってもいなかった。
若い男は石を地面に置き、腰を下ろした。
そして、道具を並べ始めた。
川の向こうでは、ナミたちが歩き出していた。
白い髪の男。
年老いた女。
もう一人の女。
子ども。
そして、ナミ。
五人だった。
俺は集落に残った若い男を見る。
それから、遠ざかっていくナミの背を見る。
来たときも、五人だった。
帰るときも、五人だった。
数は同じだった。
けれど、来たときの五人とは、一人だけ違っていた。
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