第33話 線の先
「アオ」
川下から来た女の指は、灰の上にあった。
火のそばから河下へ伸びる、一本の線。
その先を指したまま、女は話を続けようとした。
だが、誰も応じなかった。
イナの器から落ちた魚の骨が、灰に半分埋まっている。
ウネは顔を上げていた。
佐伯も、女を見ていた。
火のはぜる音だけが、三人の間に落ちる。
女はようやく異変に気づいた。
まずウネを見る。
次に、少し離れて座るイナを見る。
イナは動かなかった。
木の器を持つ指だけが、縁を強くつかんでいる。
年長の女は、灰から手を離した。
ゆっくりとウネへ向き直る。
「アオ」
今度は、確かめるような声だった。
ウネの唇が動く。
「アオ」
二人の音は、わずかに違って聞こえた。
それでも、呼んでいるものは同じらしい。
女が小さくうなずいた。
ウネは胸に手を置いた。
次にイナを指す。
最後に、火のそばに空いた場所を指した。
そこには誰もいない。
年長の女は、その場所を見つめた。
しばらくして、またうなずいた。
佐伯は息を吐いた。
聞き間違いではなかった。
同じアオだ。
少なくとも、そこまでは分かった。
*
イナが立ち上がった。
木の器を地面へ置き、佐伯の前まで来る。
何も言わず、手を差し出した。
佐伯は、その手を見た。
何を求めているのか、すぐに分かった。
腰に巻いた獣皮の内側から、骨の輪を取り出す。
イナはそれを受け取った。
来訪した女へ見せようとはしない。
両手で包み、自分の膝へ戻った。
指の間から、骨の白い縁だけがのぞいている。
年長の女は骨の輪を見なかった。
再び灰へ向き直る。
火のそばから、焼けた細枝を一本拾った。
灰の上へ先端を置く。
ゆっくりと線を引いた。
まっすぐではない。
何度か曲がり、途中で細く途切れている。
川を表しているのか。
人の歩いた道なのか。
佐伯には分からなかった。
女は線の途中を指した。
それから自分の胸へ手を当てる。
白髪の男を指す。
もう一人の女。
若い男。
順番に指していく。
最後に、火のそばの地面へ手を置いた。
掌を下に向け、頬をその上へ傾ける。
眠る仕草に見えた。
続いて、枝を火へ入れる。
石を打つ。
両手で何かを削る。
いくつもの動作が、言葉の間に混じった。
「アオ」
女は、もう一度その名を口にした。
灰の線の途中を指す。
アオは、彼女たちのいる場所まで行った。
同じ火のそばで眠り、働いた。
そういうことなのかもしれない。
だが、一晩だったのか。
長く暮らしたのか。
佐伯には分からなかった。
白髪の男が自分の肩を指した。
そこから、腕を前へ何度か動かす。
木を削るようにも、何かを投げるようにも見える。
年長の女が笑い、白髪の男の腕を軽く叩いた。
ウネの顔にも、わずかな笑みが浮かんだ。
佐伯には、その理由が分からない。
彼らの中には、すでに共有されているアオの姿がある。
佐伯だけが、それを見ることができなかった。
イナは笑わなかった。
両手の中で、骨の輪を握っていた。
*
年長の女が、細枝を灰へ戻した。
線の途中へ指を置く。
そこから二本の指を立て、ゆっくり歩かせる。
火から離れる方へ。
線の先へ。
指は何度か止まった。
女は何かを話す。
河下を指したようにも見えた。
だが、次の瞬間には森の方へ手を向ける。
佐伯には、方向さえ確かではなかった。
二本の指が再び進む。
灰の線をたどり、火の明かりが届く端まで来た。
そこで止まる。
女は指を上げた。
掌を開く。
何も持っていない手だった。
「それから先は?」
佐伯が尋ねる。
もちろん、言葉は通じない。
佐伯は線の終わりを指し、さらに先へ指を動かした。
年長の女は、その指を見る。
だが、うなずかなかった。
首も横に振らなかった。
もう一度、空の掌を見せる。
アオはそこを離れた。
それ以上は知らない。
佐伯には、そう見えた。
イナが顔を伏せた。
握った手の中で、骨の輪が小さく鳴った。
ウネは灰の線から目を離さない。
線は、火の外へ向かって途中で消えている。
*
ウネが自分の胸へ手を当てた。
手のひらを押しつける。
少し待ってから、灰の線の先を指す。
もう一度、胸へ手を戻す。
佐伯には、その問いが分かった。
生きているのか。
今も、どこかで。
年長の女も分かったらしい。
だが、すぐには動かなかった。
やがて、灰の線の途中を指した。
アオが彼女たちといたらしい場所。
そこを指してから、自分の胸へ手を当てる。
アオは、そこにいたときには生きていた。
おそらく、そう伝えている。
ウネはさらに先を指した。
女の手が胸から離れる。
答えはなかった。
うなずかない。
首も振らない。
火の向こうで、子どもたちの寝息が聞こえた。
誰かが薪を足した。
炎が一度高くなり、灰の線を照らす。
ウネの手が、ゆっくり膝へ下りた。
希望を得たのか。
失ったのか。
佐伯には分からなかった。
ただ、ウネはアオが最後に生きていた場所を、今夜初めて知った。
*
イナが手を開いた。
掌の骨の輪には、灰がついていた。
親指で丁寧に拭う。
一度では落ちず、何度も擦った。
佐伯は、イナがそのまま持っていくと思った。
もともと彼女が守ってきたものだ。
戻ってきたアオの消息も、彼女自身のものだった。
だが、イナは立ち上がった。
佐伯の前へ来る。
骨の輪を、彼の掌へ置いた。
「俺が、持っているのか」
イナは答えない。
佐伯の指を折り、骨の輪を握らせた。
それから火を離れ、暗がりへ歩いていった。
ウネは止めなかった。
年長の女も、背中を見送るだけだった。
佐伯は掌を開いた。
骨の輪から、まだ少し灰が落ちた。
年長の女が、灰の線へ手を伸ばす。
線の終わりを、掌で覆った。
火の光が、手の甲を赤く照らす。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて手を上げる。
灰の線の先は、消えていた。
そこには、何も残っていなかった。
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