第32話 二つの煙
その夜、集落の火は遅くまで消えなかった。
干した魚が束ね直され、木の実は小さな籠へ移された。獣皮を広げ、傷んだところを確かめる者もいる。
誰も急いではいない。
それでも、ときどき手が止まった。
皆、河下を見る。
ウネは半分に欠けた貝殻を膝に載せていた。
指先で刻みをなぞり、また河下へ目を向ける。
イナは魚を束ねている。
貝殻を見ようとはしなかった。
だが、細い蔓を結ぶ指は、同じところで何度も止まった。
佐伯には、誰が来るのか分からない。
尋ねる言葉も、まだ知らなかった。
*
翌朝、川面に薄い霧が残っていた。
火が起こされ、土器から木の実を煮る匂いが漂う。
人々はいつもの仕事をしながら、何度も河下を見た。
日の位置が少し高くなったころ、森の中から声が響いた。
長く引くような声だった。
川の曲がり角、その向こうから聞こえる。
子どもたちが立ち上がった。
走り出そうとした一人の肩を、大人がつかむ。
集落の男が川辺へ進み、両手を口の横に当てた。
同じような声を返す。
森の向こうから、もう一度声が届いた。
さっきより近い。
人々の肩から、少しだけ力が抜けた。
佐伯も川辺へ向かった。
浅瀬の向こうに、人影が現れる。
全部で五人いた。
先頭は、髪に白いものが混じった男だった。長い杖をつき、肩から獣皮の包みを下げている。
その後ろに二人の女。
若い男。
最後に、十歳ほどの子どもが続いていた。
全員が荷を負っている。
五人は対岸まで来ると、足を止めた。
すぐには水へ入らない。
白髪の男が杖を地面へ置き、両手を見せた。
こちらの男も、手にしていたものを足元へ置く。
両手を開く。
それを見て、来訪者たちは浅瀬へ入った。
水が膝の下で白く割れた。
子どもが流れに足を取られ、若い男の腕につかまる。
岸へ上がると、集落の者たちが近づいた。
抱き合う者はいない。
大声を上げる者もいない。
荷を受け取り、水の入った器を渡す。
濡れた足に傷がないか確かめる。
来訪者たちも、それを当然のように受け入れた。
初めてではないのだ。
*
二人の女のうち、年上の方がウネを見つけた。
足を止める。
ウネも立とうとしたが、腰に力が入らない。
佐伯が腕を貸そうとすると、いつものように手で払われた。
年上の女が、ウネの前まで来てしゃがんだ。
二人は、しばらく互いの顔を見た。
女の右の眉に、細い傷がある。
ウネが手を伸ばした。
指先で傷に触れる。
女は目を細め、ウネの頬を両手で挟んだ。
何か短く言う。
ウネも音を返した。
二人は額を一度だけ触れ合わせた。
それから笑った。
佐伯は少し離れたところで見ていた。
言葉は分からない。
だが、離れていた時間の長さだけは、二人の手に残っているように見えた。
佐伯はイナを探した。
イナは人々の後ろに立っていた。
白髪の男。
二人の女。
若い男。
子ども。
一人ずつ見ていく。
最後まで確かめると、握っていた手をゆっくり開いた。
探していた顔はなかった。
イナは何も言わず、来訪者の荷を運び始めた。
*
獣皮の包みが、火の近くで開かれた。
黒く乾いた海藻。
穴を開けられた小さな貝殻。
細い骨針。
そして、光を返す黒い石。
「黒曜石……」
佐伯は小さくつぶやいた。
集落の石器を作る男が、黒い石を受け取った。
光にかざし、薄く割れた縁を指で確かめる。
白髪の男も隣に座った。
二人は石の面を指し、短い言葉を交わした。
集落からは、木の実、干した魚、獣皮、編み籠が運ばれてきた。
品物は一か所に積まれなかった。
誰かが海藻を渡す。
受け取った者は、その場では何も返さない。
しばらくして、別の者が相手の前へ獣皮を置く。
細い骨針は、いつの間にか籠を編んでいた女の手元にあった。
代わりに、その女の編み籠が来訪者の荷のそばへ置かれている。
誰も数えない。
何と何を取り替えたのか、佐伯には最後まで分からなかった。
それでも物は、途切れることなく人の手から人の手へ動いていった。
黒曜石も、貝殻も、最初にどこから来たのかは分からない。
目の前の五人だけが運んできたのではないのかもしれない。
もっと遠い場所から、いくつもの手を渡ってきた。
佐伯は、黒い石の表面に映る火を見た。
道がなくても、人はつながっている。
*
来訪者の子どもは、初めのうち大人のそばを離れなかった。
集落の子どもたちも、少し離れて見ている。
一人が木の実を地面へ転がした。
来訪者の子どもが拾う。
持ち主へ返そうと近づいた瞬間、別の木の実が転がった。
今度は二人が同時に追った。
肩がぶつかる。
顔を見合わせる。
どちらからともなく笑った。
それからは早かった。
走る。
追いかける。
木の陰へ隠れる。
しばらくすると、誰がどちらの子どもか分からなくなった。
一人が佐伯を指した。
「サエキ」
来訪者の子どももまねをする。
少し違う音になった。
集落の子どもたちが一斉に首を振った。
「サエキ」
もう一度、来訪者の子どもが言う。
今度は近かった。
皆がうなずく。
佐伯は何も言わず、その様子を見ていた。
昨日まで佐伯の発音を笑っていた者たちが、今日は彼の名を教えている。
名前は、呼ばれるうちに、その場所のものにもなっていくらしい。
*
昼を過ぎると、年上の女が貝殻を葉の上へ広げた。
白いもの。
赤みを残すもの。
表面を滑らかに磨かれたもの。
ウネの手が、一枚の小さな貝で止まった。
三本の短い線。
その下を通る、緩やかな曲線。
佐伯の胸元にある貝殻と同じ刻みだった。
骨の輪にも残っている。
ウネは衣服の内側から、半分に欠けた古い貝を取り出した。
新しい貝の隣へ置く。
二枚は形も大きさも違う。
合わせても一枚にはならない。
だが、刻みは同じだった。
年上の女は古い貝を見つめた。
やがて指を伸ばし、三本の線をなぞる。
ウネも同じ場所へ指を置いた。
二人の指先が、刻みの上で触れた。
イナは少し離れた場所に立っていた。
以前のように貝を裏返そうとはしない。
佐伯は腰元へ手を当てた。
包んである骨の輪に触れる。
取り出そうとして、やめた。
今は、まだ見ているだけでよい。
*
夜、二つの集団は同じ火を囲んだ。
魚と木の実が煮られ、来訪者の海藻も土器へ入れられた。
汁には、これまでにない塩気があった。
大人たちは食べながら、長い話を始めた。
佐伯には、ほとんど分からない。
それでも手の動きは見える。
白髪の男が両手を大きく広げた。
水が増えたのだろうか。
若い男が腕を斜めに倒し、指先を下へ滑らせる。
崖か、大きな木が崩れたようにも見える。
年上の女は二本の指を並べ、灰の上を歩かせた。
途中で一本を止める。
もう一本だけを、先へ進ませる。
誰かが、誰かと別れた。
女の指が灰へ下りた。
一本の線を引く。
この集落から、河下へ。
さらに遠くへ。
話の中に、知っている音が混じった。
佐伯の手が止まった。
今の音。
イナを見る。
木の器を持つ指が、強く縁をつかんでいる。
ウネも顔を上げていた。
年上の女は話を続ける。
灰の線を、火の明かりの外へ延ばす。
そして、もう一度その音を発した。
「アオ」
イナの器から、魚の骨が一本落ちた。
灰の上に落ちる。
誰も拾わなかった。
女の指は、線の先に置かれている。
アオ本人のことなのか。
同じ音を含む別の言葉なのか。
佐伯には、まだ分からない。
それでも今度は、はっきり聞こえた。
「アオ」
灰の線は、河下へ延びていた。
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