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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
つながる世界

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第31話 帰るところ

 翌朝、佐伯は自分の名で目を覚ました。


「サエキ」


 すぐ近くで声がした。


 獣皮をどけ、住居の入口から顔を出す。


 誰もいない。


「サエキ」


 今度は反対側だった。


 振り向くと、壁の向こうで枝が揺れ、小さな足が走り去った。


 笑い声がする。


「またか」


 佐伯が外へ出る。


「サエキ」


 木の陰から、子どもの頭がのぞいた。


 目が合った途端、引っ込む。


 佐伯が近づくと、別の子どもが背後から肩を叩いた。


 振り返ったときには、もう火の方へ逃げている。


 追いかける。


 子どもは火の周りを回り、ウネの背中へ隠れた。


 佐伯が右からのぞけば左へ逃げ、左へ回れば右へ行く。


 ウネは二人に挟まれたまま、木の実を割り続けていた。


 やがて子どもが足を滑らせ、ウネの背にぶつかった。


 殻を叩く音が止まる。


 子どもの動きも止まった。


 ウネは振り返り、その額を指で軽く弾いた。


 それから佐伯を指す。


「サエキ」


 子どもは額を押さえながら笑った。


 佐伯も笑った。


 昨日まで誰にも呼ばれなかった名が、朝の火のそばに残っていた。


          *


 イナが編み籠を背負った。


 そばには三人の女と、四人の子どもが集まっている。木の棒や鹿角の道具を手にしていた。


 一行が集落を出ていく。


 イナは数歩進んだところで振り返った。


 立ったままの佐伯を指し、前方へ手を振る。


「俺も行くのか?」


 返事はない。


 イナはもう歩き始めている。


 子どもの一人が戻ってきて、佐伯の手を引いた。


「分かった。行くよ」


 川沿いの道を上流へ進んだ。


 昨日、魚梁へ向かった道とは途中で分かれ、湿った斜面へ続いている。


 露出した木の根に足を取られ、佐伯は何度も遅れた。


 イナが立ち止まり、手招きする。


 音の意味は分からない。


 それでも、来いと言っていることは分かった。


 佐伯は歩みを速めた。


 追いついた勢いでイナを通り過ぎる。


 後ろから短い声が飛んできた。


 佐伯はそのまま進んだ。


 同じ声が、今度は強く繰り返される。


 周囲の足音が消えていた。


 振り返る。


 全員が立ち止まり、イナが掌を佐伯へ向けている。


「止まれ、か」


 佐伯が一歩戻ろうとすると、イナは足元を指した。


 落ち葉の下に、黒い穴が隠れている。


 枝を差し込むと、深く沈んだ。


 佐伯は足を引いた。


 イナが、先ほどの音をもう一度発する。


 佐伯は動かなかった。


 イナが小さくうなずく。


 正確な意味は分からない。


 だが、その音を聞いたら止まる。


 今は、それでよかった。


          *


 着いたのは、川に削られた低い崖だった。


 赤茶色の土が露出している。


 イナたちは籠を下ろし、木の棒や鹿角で表面を削り始めた。


 黒い土の下から、粒の細かい湿った土が現れる。


 一人の女がそれを指で丸め、細く伸ばした。


 土は切れずに形を保っている。


 女は籠へ入れた。


「粘土か」


 佐伯は集落の土器を思い出した。


 火にかけられ、黒くなったもの。


 縁が欠けても使われ続けているもの。


 表面に縄の跡が残るもの。


 あれは、この土から作られる。


 佐伯も棒を手にし、崖へ突き立てた。


 力を入れると、大きな塊が落ち、泥が膝まで跳ねた。


 そのまま籠へ入れようとすると、イナが腕を止めた。


 土を割り、小石と細い根を取り除く。


 それから籠へ入れる。


 佐伯もまねた。


 掘る。


 割る。


 石を除く。


 籠へ入れる。


 子どもたちは小さな塊を運んでいた。


 一人が粘土を細長く伸ばし、蛇のように地面を這わせる。


 隣の子どもの足元へ近づけると、驚いた声が上がった。


 笑いが広がる。


 イナが振り返り、短く叱った。


 子どもたちは急いで粘土を籠へ入れる。


 だが、イナが背を向けると、また小さな塊を丸め始めた。


 佐伯は見なかったことにした。


 籠が満ちた。


 持ち上げようと腰を落とす。


 見た目より重い。


 背負おうとした瞬間、泥で踵が滑った。


「うわっ」


 尻から地面へ落ちた。


 傾いた籠から、粘土がこぼれる。


 子どもたちが一斉に笑った。


 イナまで口元を緩めている。


「そんなに笑うことか」


 一人の子どもが、こぼれた粘土を拾った。


 ほかの子どもたちも集まってくる。


 小さな手が、土の塊を一つずつ籠へ戻した。


 佐伯も腰を下ろした。


 笑われながら、一緒に粘土を拾った。


          *


 帰り道、列の後ろから足音が消えた。


 イナが立ち止まる。


 振り返ると、一番小さな子どもがいない。


 誰かがその名を呼んだ。


 返事はない。


 イナは背負った籠を下ろそうとした。


 だが、すぐ近くの茂みから、葉の擦れる音がした。


 佐伯が枝を分ける。


 子どもは倒木の前にしゃがんでいた。


 大きな甲虫が、木の表面をゆっくり登っている。


 子どもは顔を近づけ、じっと見つめていた。


 佐伯の胸から息が抜けた。


「そんなものを見てたのか」


 子どもが甲虫を指す。


 そこへイナが来た。


 子どもの顔を両手で挟み、腕と脚を確かめる。


 傷がないと分かると、後頭部を軽く叩いた。


 子どもは首をすくめた。


 イナはその手を握り、列へ戻った。


 再び歩き始める。


 今度は、誰も先を急がなかった。


 前を歩く者が、何度も後ろを見る。


 一番小さな子どもは、列の真ん中にいた。


 佐伯も振り返った。


 小さな足が、今度はちゃんとついてきている。


          *


 木々の隙間から、集落の煙が見えた。


 一人の子どもが煙を指し、短い音を発する。


「ラウ」


 佐伯には、そう聞こえた。


 別の子どもも同じ音を繰り返し、足を速める。


「火、か?」


 子どもは両腕を広げ、集落へ走り出した。


 途中で振り返る。


「ラウ」


 イナも同じ音を口にした。


 煙ではないらしい。


 帰る。


 あるいは、あそこへ戻る。


 そんな意味なのかもしれない。


 集落へ着くと、子どもたちはそれぞれ別の方へ走っていった。


 魚を干す女のもとへ。


 石器を磨く男のもとへ。


 一番小さな子どもは、火の前にいたウネへ飛びついた。


 ウネはよろめきながら受け止める。


 佐伯は籠を下ろした。


 イナたちは粘土を木陰へ運んでいる。


 ほかの者たちにも、それぞれ仕事がある。


 佐伯だけが、その場に残った。


 どこへ行けばよいのか分からない。


「サエキ」


 火のそばから呼ばれた。


 ウネが自分の隣を掌で二度叩く。


 佐伯がいつも座っている場所だった。


「ラウ」


 ウネはもう一度、地面を叩いた。


「ラウ」


 佐伯は火のそばまで行き、腰を下ろした。


 ウネは剥いてあった木の実を一つ、佐伯の掌へ載せる。


 歩き続けた脚の重さが、急に身体へ戻ってきた。


 火の熱が、泥で冷えた足元から上がってくる。


 佐伯は木の実を口へ入れた。


 そのときになって気づいた。


 呼ばれる前から、自分の足はここへ向かっていた。


          *


 夕方、佐伯は子どもたちと粘土から小石を取り除いていた。


 湿った土は、大きな葉の上に広げられている。


 隣の子どもの手が止まった。


 顔を上げ、河下の空を指す。


 木々の向こうから、細い煙が一本上がっていた。


 集落の炊事の煙とは違う。


 真っすぐ伸び、途中で消える。


 周囲の者たちも手を止めた。


 誰も騒がない。


 武器へ手を伸ばす者もいなかった。


 しばらくして、同じ場所から二本目の煙が上がった。


 今度は人々が動いた。


 干した魚を集める。


 木の実の籠を確かめる。


 住居から獣皮を運び出す。


 何本かの石器を並べ、欠けていないか調べる。


 慌てているのではない。


 知っている合図に応じているように見えた。


 イナは住居の前に立ち、河下を見ていた。


 火のそばでは、ウネがゆっくり立ち上がっている。


 衣服の内側から、半分に欠けた古い貝殻を取り出した。


 掌に載せ、指で刻みをなぞる。


 イナが振り返った。


 古い貝殻を見る。


 以前のように裏返そうとはしなかった。


 何も言わず、再び河下へ顔を向ける。


 二本目の煙が、夕暮れの中へ薄れていった。


 誰かが来る。


 そして、ここにいる者たちは、その誰かを待つことに慣れていた。


お読みいただき、ありがとうございます。

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