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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
人と生きる

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第29話 帰らなかった人

 朝になっても、昨夜の痕跡は残っていなかった。


 火のそばの灰は平らにならされ、二つの石も片づけられている。


 集落では、いつもの一日が始まっていた。


 男たちは石の刃を確かめ、狩りに使う柄へ蔓を巻きつけている。


 女たちは木の皮を細く裂き、それを膝の上で撚っていた。


 子どもたちは落ちた枝を拾い集め、抱えきれなくなると、何本か落として笑った。


 老女は火の前に座っていた。


 昨夜と同じ場所だった。


 手には木の実があり、一つずつ殻を割っている。


 何も起きなかったように見えた。


 ただ、昨夜、灰の線を踏み消した女の姿がない。


 佐伯は集落の中を見回した。


 寝床にもいない。


 火のそばにも、食べ物を分ける者たちの中にもいなかった。


 老女なら知っているかもしれない。


 そう思ったが、佐伯は尋ねなかった。


 何と尋ねればよいのか分からなかった。


 名前さえ知らない。


 昨日まで、そのことを不便だと思うだけだった。


 今は少し違った。


 名を知らないということは、その人について誰かに尋ねることさえできないということだった。


 佐伯は火のそばへ座った。


 老女は顔を上げない。


 殻を割る音だけが、小さく続いた。


 やがて、一人の子どもが集落へ戻ってきた。


 腕に濡れた枝を抱えている。


 朝露だけではない。脚の膝近くまで濡れていた。


 子どもは枝を置くと、佐伯のところへ来た。


「サエキ」


「ああ」


 子どもは川の上流を指した。


 それから両腕で何かを抱え上げる仕草をし、顔をしかめる。


 重い。


 うまく持ち上がらない。


 そんな動きだった。


 続いて、手の甲を指でなぞった。


 佐伯は立ち上がった。


「あの人がいるのか」


 子どもは意味を理解していない。


 もう一度、上流を指した。


 佐伯が歩き出すと、老女の手が止まった。


 一瞬だけ、佐伯を見る。


 だが、何も渡さなかった。


 何も指さなかった。


 すぐに目を伏せ、また木の実の殻を割り始めた。


          *


 川沿いを上流へ進むと、水を打つ音が聞こえた。


 一定の音ではない。


 重いものを落とすような音がして、しばらく静かになり、また水が跳ねる。


 木々の間を抜けると、浅瀬が見えた。


 女は膝まで水に入り、川底の石を動かしていた。


 浅瀬には、石と木の枝で作られた低い仕切りがある。


 川の流れを狭い場所へ集め、その先に編んだ籠を置いて魚を捕るものらしい。


 夜のうちに水かさが増えたのか、石が何個も崩れていた。


 籠も横を向き、枝の隙間に引っかかっている。


 女は川底へ手を入れ、大きな石を抱え上げた。


 一歩進もうとして、足を滑らせる。


 石が水へ落ちた。


 冷たい水が高く跳ね、女の胸元まで濡らした。


 佐伯が近づくと、女はすぐに振り返った。


 手には石刃が握られている。


 佐伯だと分かっても、その手を下ろさなかった。


「手伝う」


 通じないと分かっていながら、佐伯は言った。


 獣皮を岸へ置き、川に入る。


 水は思ったより冷たかった。


 足首から膝へ冷たさが這い上がり、思わず息が止まる。


 女は佐伯を見ていた。


 佐伯は何も説明せず、さきほど女が落とした石へ手をかけた。


 重い。


 一人では持ち上がらない。


 女が石刃を岸へ置いた。


 反対側へ回り、石に両手を添える。


 二人で持ち上げた。


 女が顎で場所を示す。


 崩れた石の間へ運び、ゆっくり下ろした。


 流れの音が少し変わった。


 二人は次の石へ向かった。


 言葉はなかった。


 女は石を選び、佐伯が持ち上げる。


 佐伯が枝を押さえ、女が蔓で固定する。


 水に浸かった脚は冷え、指先の感覚も薄くなっていった。


 女の手の甲が、割れた石の縁に触れた。


 細い傷が走り、赤い血が浮かぶ。


 女は川の水で一度洗っただけで、次の石へ手を伸ばした。


 佐伯はその手首をつかんだ。


 女の目が鋭くなる。


「待って」


 佐伯は岸に戻り、柔らかそうな葉を一枚取った。


 傷の上に当てようとすると、女は手を引いた。


 自分で葉を受け取り、手の甲へ押しつける。


 それから、また川へ入った。


 拒まれたのか、受け入れられたのか。


 佐伯には分からなかった。


 ただ、女はもう石刃を握らなかった。


 崩れた仕切りの端に、黒く腐りかけた木の杭が立っていた。


 女が杭へ巻かれた古い蔓を解こうとする。


 指で引いた途端、杭が根元から折れた。


 水の中へ倒れ、石の隙間に挟まる。


 女は舌を鳴らし、両手で杭を引き上げた。


 そのとき、小さなものが水へ落ちた。


 朝の光を受け、一瞬だけ白く光る。


 女の動きが止まった。


 流される前に、両手を水へ差し入れた。


 何度か川底を探り、泥の中からそれを拾い上げる。


 小さな輪だった。


 骨を薄く削り、輪の形にしたものらしい。


 一部が割れ、古い紐が残っている。


 子どもの腕なら通るだろう。


 だが、大人には小さすぎた。


 女は手の中で泥を洗い流した。


 いつまでも見つめている。


 佐伯が近づくと、女は隠すように握った。


「それは……」


 佐伯は言葉を止めた。


 聞いても答えは返ってこない。


 女は川から上がり、岸の石へ腰を下ろした。


 骨の輪を、自分の手首へ通そうとする。


 当然、入らない。


 指の付け根で止まった。


 女は輪を外すと、佐伯を見た。


 自分を指す。


 次に、手を低い位置へ置いた。


 幼い子どもの背丈ほどの高さ。


 その隣に、もう一つ手を並べる。


 二人の子ども。


 女は二本の指を立て、並べたまま上へ動かした。


 少しずつ高くなる。


 一緒に大きくなる。


 やがて、一方の指だけを森の方へ向けた。


 昨夜、老女が示したのと同じ方向だった。


 指はそのまま遠ざかる。


 残されたもう一方の指は、動かなかった。


 佐伯は女の顔を見た。


「一緒に育ったのか」


 女は骨の輪を握っている。


「その人と」


 返事はない。


 だが、否定もしなかった。


 佐伯は老女の仕草を思い出した。


 子どもの高さから、大人の高さへ。


 近い石から、遠い石へ。


 同じ人のことを話していたのだ。


 老女に育てられた、もう一人の子ども。


 女にとって、きょうだいに近い誰か。


 佐伯は指で森の向こうを示した。


 次に、両手を合わせて頬へ当て、目を閉じた。


 死。


 通じるかどうか分からなかった。


 女は佐伯の手を見た。


 すぐに首を横へ振る。


 違う。


 死んだと知っているわけではない。


 佐伯は自分の胸を指し、それから集落の方を指した。


 歩いて戻る仕草をする。


 帰ってくる。


 女は顔を背けた。


 川の中から、掌に収まるほどの石を拾う。


 それを強く握りしめた。


 そして、流れの中央へ投げた。


 石は水面を一度だけ割り、そのまま沈んだ。


 女は石が落ちた場所を見ていた。


 浮かんでくるはずのないものを、待っているように。


 佐伯は手を下ろした。


 帰れなかったのではない。


 帰らなかった。


 女は、そう思っているのかもしれない。


 佐伯は獣皮の内側へ手を入れた。


 子どもから渡された貝殻を取り出す。


 女の目が、すぐにそれを捉えた。


 佐伯は貝殻を掌に載せ、骨の輪の隣へ差し出した。


 二つの古さは違っていた。


 貝殻の紐は新しく、骨の輪に残る紐は黒く変色している。


 女はしばらく動かなかった。


 やがて貝殻を手に取る。


 三本の短い線。


 その下を通る、緩やかな曲線。


 女は骨の輪を裏返した。


 泥の残る表面を親指で強く擦る。


 薄い痕が現れた。


 ほとんど消えかけている。


 それでも見間違えようがなかった。


 三本の短い線。


 その下を横切る、一筋の曲線。


 女の指が止まった。


 佐伯は第二の集落で、自分の名を呼んだ子どもを思い出した。


 あの子が、この貝殻を渡した。


 なぜ持っていたのか。


 誰から受け取ったのか。


 佐伯には分からない。


 目の前の女にも分からないはずだった。


 それでも女は、二つの印を何度も見比べた。


 怒りも、悲しみも見えなかった。


 そのどちらにもなる前の、まだ形を持たないものだけが目に残っていた。


 女は骨の輪を握った。


 腕を上げる。


 川へ投げるつもりだと分かった。


 佐伯は止めなかった。


 それを捨てるかどうかは、女が決めることだった。


 女の腕は上がったまま動かない。


 川は変わらず流れている。


 修した石の隙間を抜け、水が籠の中へ集まっていく。


 長い時間が過ぎた。


 女の腕が、ゆっくり下りた。


 指は開かなかった。


 女は佐伯へ近づいた。


 佐伯の手を取り、掌を上に向ける。


 そこへ、骨の輪を置いた。


 佐伯が顔を上げる。


 女は貝殻を指した。


 続いて骨の輪を指す。


 最後に、森の向こうへ腕を伸ばした。


「俺に、持っていけと?」


 女は答えなかった。


 森を指した手を下ろし、川へ戻っていく。


 崩れた魚梁の前にしゃがみ、ずれた石を拾った。


 もとの場所へ置く。


 流れがまた少し変わった。


 佐伯は岸に立ったまま、掌を見た。


 新しい紐のついた貝殻。


 割れた古い骨の輪。


 手を閉じると、二つが触れ合った。


 小さな音がした。


 佐伯はもう一度、女の背中を見た。


 彼女は振り返らない。


 ただ、水の中で石を動かし続けていた。


 佐伯の掌に残ったのは、答えではなかった。


 この時代へ来て初めて、誰かから託された過去だった。


お読みいただき、ありがとうございます。

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