第28話 同じ傷
老女は、自分の胸に手を置いた。
そして、もう一度、同じ音を発した。
短い音だった。
名前のようにも聞こえた。
佐伯は、老女を指した。
「あなたの名前か」
それから、自分の胸に手を当てる。
「サエキ」
老女は佐伯の口元を見つめていた。
やがて、ゆっくり首を横に振った。
違う。
老女は自分の胸から手を離し、佐伯の掌にある貝殻を指した。
また、同じ音を出す。
「これのことか?」
佐伯が貝殻を持ち上げると、老女はそれにも首を振った。
老女が何を伝えようとしているのか、分からない。
人の名なのか。
場所の名なのか。
それとも、佐伯にはまだ想像もできない何かなのか。
老女は立ち上がった。
腰が曲がっているため、立つまでに時間がかかった。佐伯が腕を貸そうとすると、老女は手の甲で軽く押し返した。
自分で立てる。
そう言われたような気がした。
老女は火に背を向け、集落の端にある竪穴住居へ歩いていく。
入口の前で一度振り返った。
佐伯が動かずにいると、老女は指を曲げ、こちらへ来るような仕草をした。
佐伯は貝殻を握り、後を追った。
住居の中は暗かった。
中央の火は消えかけ、灰の下に赤い光が残っている。壁際には籠や獣皮、束ねた草が置かれていた。
老女は奥へ進み、何枚か重ねられた獣皮の前に膝をついた。
一枚ずつ、ゆっくりめくっていく。
いちばん下から、細い紐を取り出した。
長い間、煙にさらされていたのだろう。植物の繊維を撚った紐は、黒く変色していた。
その先に、半分に欠けた貝殻が結ばれている。
老女はそれを両手で包み、しばらく動かなかった。
それから佐伯を見て、外を指した。
二人は、もう一度火のそばへ戻った。
老女は地面に腰を下ろすと、自分の貝殻を灰のそばへ置いた。
佐伯も、その隣に子どもから渡された貝殻を置いた。
二つは大きさも形も違っていた。
片方は欠け、長い年月を経て白さを失っている。
当然、二つを合わせても一枚の貝にはならない。
だが、刻まれた痕は似ていた。
三本の短い線。
その下を横切る、緩やかな曲線。
老女は新しい貝殻の線をなぞり、続いて自分の古い貝殻へ指を移した。
何度も触れてきたのだろう。
欠けた縁は滑らかに丸くなり、紐の近くには指で擦られた艶があった。
佐伯は二つの貝殻を見比べた。
「同じ……」
老女が顔を上げた。
もちろん、佐伯の言葉を理解したわけではない。
それでも、何を見つけたのかは分かったらしい。
老女は小さくうなずいた。
そして、森の向こうを指した。
昼間、佐伯が戻ってきた方角だった。
「あの集落か」
佐伯も同じ方向を指す。
老女は答えなかった。
灰の中から、拳ほどの石を二つ拾った。
一つを自分の近くに置く。
もう一つを、少し離れた場所へ置く。
それから、そばに落ちていた木の実を拾い上げた。
木の実を、遠い方の石の横に置く。
しばらく見つめたあと、指先で転がした。
木の実は灰の上に細い跡を残しながら、遠い石から近い石へ移った。
老女は、その木の実を掌に載せた。
そして、自分の胸に触れた。
佐伯は二つの石を見た。
遠い石。
近い石。
その間に残された、一本の跡。
「あなたも、向こうから来たのか」
老女は何も言わない。
古い貝殻を胸元へ戻した。
ただ、その横顔は、火を見ているようには見えなかった。
佐伯は、もう一度二つの石を見た。
老女が若いころ、森の向こうからこの集落へ来た。
そういうことなのだろうか。
だが、なぜ来たのかは分からない。
誰かと暮らすためだったのか。
食べ物を求めたのか。
争いを逃れたのか。
あるいは、ただ自分で選んだのか。
佐伯には、どれも確かめることができなかった。
入口の方で、足音がした。
昼間、佐伯を探しに来た女が立っていた。
女は佐伯を見る。
次に、地面へ視線を落とした。
二つの石。
その間に引かれた跡。
そして、火のそばに置かれた二枚の貝殻。
女の表情が消えた。
住居の中へ入り、佐伯の前まで来る。
女は新しい貝殻を拾い上げた。
しばらく見つめたあと、地面へ戻す。
刻まれた痕を下に向けて。
老女は無言で手を伸ばし、貝殻を表へ返した。
女が、また裏返す。
老女も、もう一度表へ返す。
二人は顔を見合わせない。
その繰り返しだけが、言葉の代わりのようだった。
三度目。
女の手は貝殻へ伸びなかった。
握られた指が、膝の上で震えている。
老女は新しい貝殻を佐伯の方へ押し戻した。
佐伯はそれを拾った。
何か言わなければならない気がした。
しかし、何を言えばいいのか分からない。
たとえ同じ言葉を話していたとしても、聞いてよいことなのかさえ分からなかった。
佐伯は無意識に、服の脇へ手を伸ばした。
ポケット。
いつもなら、そこに端末が入っていた。
知らないことがあれば調べる。
言葉が通じなければ訳させる。
迷えば道を表示させる。
指先が触れたのは、布ではなく、獣皮のざらついた表面だった。
ここには、画面も答えもない。
掌の中にあるのは、傷の刻まれた小さな貝殻だけだった。
女が立ち上がった。
もう終わりだ。
そう告げるように、入口へ向かう。
その背中へ、老女が声を掛けた。
先ほどと同じ音だった。
女の足が止まる。
老女は、地面に置いた二つの石を見た。
今度は、遠い方の石を指す。
次に、手を低い位置へ置いた。
子どもの背丈ほどの高さだった。
その手を、ゆっくり上へ持ち上げていく。
佐伯の肩よりも高いところで止める。
子どもが大人になる。
老女は新しい貝殻を指した。
そして、森の向こうを指す。
佐伯は息を止めた。
老女が聞いているのは、あの子どものことではない。
別の誰かだ。
昔は小さく、今はもう大人になっているはずの誰か。
老女は灰の上へ指を置いた。
近い石から、遠い石へ。
ゆっくりと一本の線を引く。
線の終わりに、指先を押しつけた。
灰の中に、小さな丸い跡が残った。
その瞬間、女が声を上げた。
短く、鋭い声だった。
佐伯は初めて、その女の声に怒りとも恐れともつかないものを聞いた。
女は足を踏み出し、灰の線を消した。
近い石も、遠い石も、足先で大きく払う。
二つの石が別々の方向へ転がった。
老女は止めなかった。
女も老女を見なかった。
荒い息を一つ吐き、女は外へ出ていった。
足音が遠ざかる。
佐伯は追うことができなかった。
火が小さくはぜた。
灰の上には、女の足跡だけが残っている。
老女は、しばらく動かなかった。
怒っているようには見えなかった。
悲しんでいるようにも見えなかった。
ただ、長い時間をかけて同じことを繰り返してきた人の顔をしていた。
やがて老女は手を伸ばし、転がった石を一つ拾った。
灰の中へ置く。
消された線の、その先に。
そして、佐伯を見た。
老女は、もう一度あの音を発した。
今度は、自分の胸には触れなかった。
森の向こうを指していた。
佐伯は掌の貝殻を握った。
老女が知りたいのは、場所ではない。
帰ってこなかった、誰かのことだった。
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