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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
人と生きる

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第27話 帰る場所

 朝の川に、白い霧が残っていた。


 向こう岸の木々は、その半分を霧の中に沈めている。水の流れる音だけが、いつもより近く聞こえた。


 佐伯は火のそばに座り、木の実を口へ入れた。


 固い。


 噛むと、舌の奥にかすかな苦みが残った。


 だが、食べられるものなのかと疑うことは、もうなかった。


 目の前で、若い男が腰に石の刃を結びつけている。


 帰るのだ。


 最初の集落へ。


 そう思ってから、佐伯は自分の中に浮かんだ言葉に気づいた。


 帰る。


 いつから、そう呼ぶようになったのだろう。


 若い男が立ち上がった。


 佐伯も腰を上げ、昨夜借りた獣皮を畳んだ。近くにいた女へ差し出すと、女は受け取らなかった。


 獣皮を佐伯の胸へ押し戻し、そのまま肩に掛ける。


「持っていけ、ってことか」


 女は答えず、ずれた皮の端を直した。


 佐伯は小さく頭を下げた。


 集落では、すでに朝の仕事が始まっていた。


 魚を裂く者。


 火に枝を足す者。


 土器の中を木の棒でかき混ぜる者。


 誰も手を止めない。


 誰も佐伯を囲まない。


 昨日までと変わらない朝が、そのまま続いていく。


 若い男が森へ向かった。


 佐伯も、その背を追った。


 集落の端まで来たとき、後ろから小さな足音が聞こえた。


「サエキ」


 振り返ると、子どもが立っていた。


 初めて佐伯の名を呼んだ、あの子どもだった。


 肩で息をしながら、片方の手を固く握っている。


 佐伯がしゃがむと、子どもはその手を開いた。


 小さな貝殻が載っていた。


 乳白色で、端に穴が開いている。穴には、細く撚った植物の繊維が通されていた。


「俺に?」


 子どもは何も言わない。


 佐伯の手を取り、掌の中へ貝殻を押し込んだ。


 そして、すぐに手を離した。


「ありがとう」


 その音が通じたかどうかは分からない。


 子どもはしばらく佐伯の顔を見上げていたが、やがて身を翻し、集落へ走って戻っていった。


 佐伯は掌の貝殻を見た。


 驚くほど軽い。


 落とさないよう、獣皮の内側へしまった。


 若い男は少し先で待っていた。


 佐伯が追いつくと、何も言わずに歩き始めた。


 朝露を含んだ葉が、佐伯の腕に触れた。


 来たときには、どれも同じに見えた木々だった。


 今は少し違う。


 根が大きく浮き上がった木。


 赤い実をつけた低い枝。


 踏めば足の沈む黒い土。


 川へ下りる手前にある、二つに割れた大岩。


 見覚えのあるものが、一つずつ現れた。


 佐伯は、いつの間にか道を覚えていた。


 前を行く男の背だけを頼りに歩いているのではない。


 一人でも、戻れるかもしれない。


 そう思ったとき、若い男が止まった。


 佐伯も足を止める。


 男は腰を低くし、一本の木を見上げていた。


 幹の低いところに、折った枝が結ばれている。


 来る途中、男が残した目印だった。


 だが、枝の向きが変わっていた。


 男の手が、腰の石刃へ伸びる。


 それから地面にしゃがみ込み、湿った土へ指を触れた。


 佐伯も、その視線を追った。


 足跡がある。


 一つではない。


 裸足の跡が、森の奥から川の方へ続いていた。


 輪郭は、まだ崩れていない。


 佐伯は声を落とした。


「誰か、来たのか」


 男は答えず、立ち上がった。


 鳥の声が途切れた。


 葉を揺らしていた風まで、どこかへ消えたようだった。


 二人は歩調を落とし、足跡を追った。


 やがて、木々の向こうで何かが動いた。


 若い男が佐伯の前へ出る。


 腰の石刃を握る。


 向こう側からも、枝を踏む音がした。


 一人。


 少し遅れて、もう一人。


 木々の隙間から、石槍の穂先が現れた。


 佐伯は息を止めた。


 最初に姿を見せたのは、肩幅の広い男だった。


 見覚えがある。


 最初の集落で、狩りに出ていた男だ。


 その後ろから、もう一人が現れた。


 佐伯へ食べ物を渡し、寝る場所を作ってくれた女だった。


 女は佐伯を見るなり、足を止めた。


 大きく目を見開く。


 次の瞬間、槍を持つ男の脇を抜け、こちらへ走ってきた。


 佐伯が声を出すより早く、女の手が彼の腕をつかんだ。


 痛いほど強かった。


 女は佐伯の顔を見た。


 肩に触れ、胸に触れ、腹を見る。


 傷がないことを確かめると、もう一度、佐伯の顔を見上げた。


 怒っているようにも見えた。


 泣き出しそうにも見えた。


「探しに来てくれたのか」


 女は何も答えない。


 佐伯の腕をつかんだまま、もと来た方へ引いた。


 一歩。


 そのとき、若い男が動いた。


 女の手が止まる。


 槍を持つ男が、すぐに前へ出た。


 石の穂先が上がる。


 若い男の手も、腰の刃から離れない。


 四人の間に、川音だけが流れ込んだ。


 佐伯には、二つの集落がどのような関係にあるのか分からなかった。


 互いを恐れているのか。


 怒っているのか。


 それとも、近づかないことにしているだけなのか。


 ただ、初めて会った者同士の目ではなかった。


 女が、もう一度佐伯を引いた。


 若い男の眉が動く。


 佐伯は、その場に足を残した。


「待ってくれ」


 通じない言葉が、森の中へ落ちた。


 何を伝えればいいのか、自分でも分からない。


 片方は、森を越えて佐伯を連れてきた。


 もう片方は、佐伯を探してここまで来た。


 佐伯は、どちらの後ろにも立てなかった。


 獣皮の内側へ手を入れる。


 槍を持つ男の肩が強張った。


 佐伯はゆっくり手を出し、掌を開いた。


 朝、受け取った貝殻が、木漏れ日の下で白く光った。


 女の表情が変わった。


 佐伯の手から取ろうとはせず、顔を近づける。


 穴に通された繊維へ、そっと指を触れた。


 それから女は、若い男を見た。


 若い男の手が、石刃から離れた。


 槍の穂先も、少しずつ下がった。


 誰も笑わなかった。


 誰も近づかなかった。


 それでも、石は振るわれなかった。


 しばらくして、若い男が佐伯を見た。


 佐伯の胸を指し、それから最初の集落へ続く道を指す。


 佐伯はうなずいた。


「ありがとう」


 若い男は、佐伯ではなく、掌の貝殻を見ていた。


 やがて背を向け、来た道を戻っていく。


 木々の間にその姿が消えるまで、女たちは動かなかった。


 最初の集落へ戻ると、子どもたちが駆けてきた。


 一人が佐伯の脚にしがみついた。


 もう一人は、肩に掛けた獣皮へ鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。


 煙の匂いが違うのだ。


 それに気づいた子どもたちは、代わる代わる皮の匂いを嗅ぎ、顔を見合わせた。


 佐伯は思わず笑った。


 集落の中央では、いつもの火が燃えていた。


 魚が焼かれ、土器から湯気が上がっている。


 離れていたのは、ほんの数日だった。


 それなのに、ずいぶん長く留守にしていたような気がした。


 子どもの一人が走り去り、やがて獣皮を抱えて戻ってきた。


 佐伯が寝床に敷いていたものだった。


 ほかの誰かが使った形跡はない。


 子どもはそれを、当然のように佐伯へ差し出した。


 佐伯は両手で受け取った。


 自分がいなくても、困る者はいない。


 少し前まで、そう思っていた。


 だが、ここには、空けられたままの場所があった。


 佐伯は何も言わず、火のそばへ腰を下ろした。


 あの女が、木の器を差し出す。


 中には、木の実を煮たものが入っていた。


 佐伯は受け取った。


 器の底まで、温かかった。


          *


 夜になっても、佐伯はなかなか眠れなかった。


 火のはぜる音が、ときおり暗闇を揺らす。


 佐伯は寝返りを打ち、獣皮の内側から貝殻を取り出した。


 火のそばへ行き、その光にかざす。


 乳白色の表面に、細い傷があった。


 初めは、自然についたものだと思った。


 だが、線は不自然なほど整っている。


 短い線が三本。


 その下を横切る、緩やかな曲線。


 佐伯は貝殻を裏返した。


 裏側にも、細い線が続いていた。


 どこかで見た。


 佐伯は火の周囲を見回した。


 乾かすために並べられた土器。


 その一つに、同じ形が刻まれている。


 三本の短い線。


 その下を通る、一筋の曲線。


 貝殻の線と、土器の文様。


 二つは、途中で切れた同じもののように見えた。


 佐伯が土器へ手を伸ばしかけたとき、視線を感じた。


 火の向こうに、老女が座っていた。


 老女は土器を見ていない。


 佐伯の掌にある貝殻だけを見つめている。


 炎が揺れた。


 老女はゆっくりと口を開いた。


 聞いたことのない音を、一つだけ発した。


 そして、自分の胸に手を置いた。


お読みいただき、ありがとうございます。

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