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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
人と生きる

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26/111

第26話 俺がいないところで

朝、


水の音で目が覚めた。


川ではない。


もっと近い。


ぱしゃ。


少し間を置いて、


また、ぱしゃ。


目を開ける。


火はまだ小さい。


空も白み始めたばかりだった。


それでも、もう何人か動いている。


俺は体を起こした。


         *


音のしたほうを見る。


昨日、手を傷つけた子どもがいた。


一人ではない。


隣に、もう一人いる。


二人とも地面にしゃがんでいた。


前には、水の入った器がある。


傷のある子どもが、


巻かれていないほうの手を水につけた。


上げる。


指をこする。


俺は立ち止まった。


昨日、水辺で見た動きに似ている。


隣の子どもは、


その手をじっと見ていた。


やがて、


自分も手を水に入れた。


上げる。


こする。


傷のある子どもが何か言う。


短い音。


もう一人が、


また手を水に入れた。


今度は勢いが強かった。


水が跳ねる。


二人が笑った。


「……覚えてたのか」


小さく言った。


もちろん、


聞こえていない。


近づこうとした。


そのとき、


傷のある子どもが水をすくった。


隣の子どもへ、


ぱしゃ。


水がかかる。


かけられたほうが固まった。


一瞬だけ。


次の瞬間、


そいつも水をすくった。


ぱしゃ。


「おい」


二人が笑う。


もう一度。


ぱしゃ。


「違う違う。そうじゃない」


二歩進んで、


止まった。


何が違うんだ。


俺は昨日、


手を洗った。


あの子はそれを見た。


今朝、


同じように手を水につけた。


そのあと、


二人で水をかけ合っている。


それだけだ。


俺は口を閉じた。


「……まあ、いいか」


その場から動かなかった。


しばらくして、


女の声が飛んできた。


二人の手が止まる。


女が近づいてくる。


地面を見る。


器を見る。


子どもたちを見る。


何か言った。


二人とも黙る。


傷のある子どもが顔を上げた。


俺を見つける。


嫌な予感がした。


子どもが俺を指す。


何か言う。


女もこっちを見る。


「俺?」


子どもはもう一度、


俺を指した。


それから、


残った水へ手を入れる。


指をこする。


また俺を指す。


「いや、水を撒いたのは俺じゃないぞ」


通じるわけがない。


女は俺を見る。


子どもを見る。


そして、


しゃがんだ。


傷のないほうの手を取る。


手のひらを見る。


裏返す。


指の間を見る。


次に、


器の水を見る。


怒っているのか。


考えているのか。


俺には分からない。


女が短く何か言った。


子どもが答える。


女がもう一度言う。


今度は、


もう一人の子どもまで何か言った。


三人の間を、


俺の知らない言葉が行き来する。


やがて女は器を持ち上げた。


二人の子どもも散っていった。


俺だけが残った。


足元には、


こぼれた水の跡がある。


濡れた土は、


そこだけ少し色が濃い。


見ているうちに、


ゆっくり薄くなっていった。


         *


午前中は、


若い男と物を運んだ。


何を持つのか。


どこへ置くのか。


前ほど一つ一つ指されなくなった。


若い男が持つ。


俺も持つ。


男が歩く。


ついていく。


置く。


戻る。


また持つ。


四度目には、


若い男は後ろを見なかった。


俺がついてきているか、


確かめもしない。


俺は荷を抱えたまま、


その背中を追った。


見られていないほうが、


少し楽だった。


途中で、


また水の音がした。


足が止まる。


女が一人、


少し離れたところにしゃがんでいる。


朝の女ではない。


前には水の入った器。


横には、


土のついたものがいくつか置かれていた。


根のようにも見える。


女は一つ取る。


水につける。


こする。


上げる。


見る。


また水につける。


俺はしばらく見ていた。


「サエキ」


前から声がした。


若い男が立っている。


俺が来ないので、


止まっていたらしい。


「今行く」


荷を持ち直す。


もう一度、


女を見る。


昨日の俺を見たのかもしれない。


前からこうしていたのかもしれない。


俺とは、


何の関係もないのかもしれない。


分からない。


若い男が歩き出した。


俺も追った。


         *


昼を過ぎたころ、


昨日の子どもが走ってきた。


手には、


まだ細いものが巻かれている。


少なくとも、


朝より悪くなったようには見えない。


俺の前を通り過ぎようとする。


「おい」


子どもが止まった。


振り向く。


俺は傷のある手を指した。


子どもも自分の手を見る。


それから、


なぜか得意そうに持ち上げた。


「いや、見せびらかすものじゃないだろ」


当然、


意味は伝わらない。


子どもはもう行こうとする。


俺は自分の手を出した。


昨日と同じように、


指をこする。


それから、


水のあるほうを指した。


子どもが俺を見る。


俺の手を見る。


水のほうを見る。


そして、


何か言った。


短い音。


聞いたことがある。


昨日だったか。


もっと前だったか。


俺は水を指す。


子どもが言う。


もう一度、


水を指す。


また、


同じような音。


俺は真似した。


子どもが首を傾げる。


もう一度。


子ども。


俺。


今度は、


首を振らなかった。


「……これか?」


水を指す。


覚えた音を、


もう一度言ってみる。


子どもが笑った。


でも、


首は振らない。


俺はその音を、


口の中で一度だけ繰り返した。


水。


そう決めたくなる。


けれど、


決めなかった。


昨日、


似た音を聞いて、


何度も間違えた。


今は、


水を指したときに、


この音が返ってきた。


それだけ覚えておけばいい。


子どもは、


もう俺に興味をなくしていた。


走っていく。


「忙しいな、お前」


背中に言った。


         *


午後になると、


また人が増えた。


林のほうから戻ってくる人。


何かを持ってくる人。


しばらくいて、


また出ていく人。


俺にも、


少しずつ見覚えのある顔が増えてきた。


それでも、


知らない顔のほうが多い。


昨日の女が、


俺の前を通った。


黒い石を渡そうとして、


受け取らなかった女だ。


昨日は何度か、


俺に物を運ばせた。


今日も何か持っている。


俺の横まで来る。


そのまま通り過ぎる。


俺は一度だけ見た。


手は出さない。


女も、


何も言わない。


それで終わった。


俺も自分の作業に戻った。


しばらくして、


遠くから声がした。


「サエキ」


顔を上げる。


朝の子どもだった。


少し離れたところで、


こっちへ手を振っている。


そばには、


別の子どもが二人いた。


俺は立ち上がった。


そちらへ歩く。


途中で、


足が止まった。


三人とも、


地面にしゃがんでいる。


真ん中には、


少しだけ水。


一人の子どもの手が、


泥で汚れていた。


傷のある子どもが、


その手をつかむ。


水につける。


こする。


一度。


二度。


それから、


顔を上げた。


俺を見る。


「サエキ」


俺は口を開きかけた。


でも、


何も言わなかった。


もう一人の子どもも、


手を水につける。


傷のある子どもが、


昼間の音を言った。


水を指したときに、


何度も聞いた音。


俺は、


少し離れたところに立っていた。


三人は、


もう俺を見ていない。


泥のついた手が、


水の中で動く。


小さな指が、


その指をこする。


水が少し濁る。


何か言う。


一人が笑う。


もう一人も笑う。


傷のある子どもが、


また何か言った。


俺には分からない。


やがて、


俺を呼んだことまで忘れたように、


三人とも水のほうを見ていた。


俺は、


そこへ行かなかった。


少しだけ見て、


元いた場所へ戻った。


後ろで、


また水の音がした。


振り返らなかった。

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