第26話 俺がいないところで
朝、
水の音で目が覚めた。
川ではない。
もっと近い。
ぱしゃ。
少し間を置いて、
また、ぱしゃ。
目を開ける。
火はまだ小さい。
空も白み始めたばかりだった。
それでも、もう何人か動いている。
俺は体を起こした。
*
音のしたほうを見る。
昨日、手を傷つけた子どもがいた。
一人ではない。
隣に、もう一人いる。
二人とも地面にしゃがんでいた。
前には、水の入った器がある。
傷のある子どもが、
巻かれていないほうの手を水につけた。
上げる。
指をこする。
俺は立ち止まった。
昨日、水辺で見た動きに似ている。
隣の子どもは、
その手をじっと見ていた。
やがて、
自分も手を水に入れた。
上げる。
こする。
傷のある子どもが何か言う。
短い音。
もう一人が、
また手を水に入れた。
今度は勢いが強かった。
水が跳ねる。
二人が笑った。
「……覚えてたのか」
小さく言った。
もちろん、
聞こえていない。
近づこうとした。
そのとき、
傷のある子どもが水をすくった。
隣の子どもへ、
ぱしゃ。
水がかかる。
かけられたほうが固まった。
一瞬だけ。
次の瞬間、
そいつも水をすくった。
ぱしゃ。
「おい」
二人が笑う。
もう一度。
ぱしゃ。
「違う違う。そうじゃない」
二歩進んで、
止まった。
何が違うんだ。
俺は昨日、
手を洗った。
あの子はそれを見た。
今朝、
同じように手を水につけた。
そのあと、
二人で水をかけ合っている。
それだけだ。
俺は口を閉じた。
「……まあ、いいか」
その場から動かなかった。
しばらくして、
女の声が飛んできた。
二人の手が止まる。
女が近づいてくる。
地面を見る。
器を見る。
子どもたちを見る。
何か言った。
二人とも黙る。
傷のある子どもが顔を上げた。
俺を見つける。
嫌な予感がした。
子どもが俺を指す。
何か言う。
女もこっちを見る。
「俺?」
子どもはもう一度、
俺を指した。
それから、
残った水へ手を入れる。
指をこする。
また俺を指す。
「いや、水を撒いたのは俺じゃないぞ」
通じるわけがない。
女は俺を見る。
子どもを見る。
そして、
しゃがんだ。
傷のないほうの手を取る。
手のひらを見る。
裏返す。
指の間を見る。
次に、
器の水を見る。
怒っているのか。
考えているのか。
俺には分からない。
女が短く何か言った。
子どもが答える。
女がもう一度言う。
今度は、
もう一人の子どもまで何か言った。
三人の間を、
俺の知らない言葉が行き来する。
やがて女は器を持ち上げた。
二人の子どもも散っていった。
俺だけが残った。
足元には、
こぼれた水の跡がある。
濡れた土は、
そこだけ少し色が濃い。
見ているうちに、
ゆっくり薄くなっていった。
*
午前中は、
若い男と物を運んだ。
何を持つのか。
どこへ置くのか。
前ほど一つ一つ指されなくなった。
若い男が持つ。
俺も持つ。
男が歩く。
ついていく。
置く。
戻る。
また持つ。
四度目には、
若い男は後ろを見なかった。
俺がついてきているか、
確かめもしない。
俺は荷を抱えたまま、
その背中を追った。
見られていないほうが、
少し楽だった。
途中で、
また水の音がした。
足が止まる。
女が一人、
少し離れたところにしゃがんでいる。
朝の女ではない。
前には水の入った器。
横には、
土のついたものがいくつか置かれていた。
根のようにも見える。
女は一つ取る。
水につける。
こする。
上げる。
見る。
また水につける。
俺はしばらく見ていた。
「サエキ」
前から声がした。
若い男が立っている。
俺が来ないので、
止まっていたらしい。
「今行く」
荷を持ち直す。
もう一度、
女を見る。
昨日の俺を見たのかもしれない。
前からこうしていたのかもしれない。
俺とは、
何の関係もないのかもしれない。
分からない。
若い男が歩き出した。
俺も追った。
*
昼を過ぎたころ、
昨日の子どもが走ってきた。
手には、
まだ細いものが巻かれている。
少なくとも、
朝より悪くなったようには見えない。
俺の前を通り過ぎようとする。
「おい」
子どもが止まった。
振り向く。
俺は傷のある手を指した。
子どもも自分の手を見る。
それから、
なぜか得意そうに持ち上げた。
「いや、見せびらかすものじゃないだろ」
当然、
意味は伝わらない。
子どもはもう行こうとする。
俺は自分の手を出した。
昨日と同じように、
指をこする。
それから、
水のあるほうを指した。
子どもが俺を見る。
俺の手を見る。
水のほうを見る。
そして、
何か言った。
短い音。
聞いたことがある。
昨日だったか。
もっと前だったか。
俺は水を指す。
子どもが言う。
もう一度、
水を指す。
また、
同じような音。
俺は真似した。
子どもが首を傾げる。
もう一度。
子ども。
俺。
今度は、
首を振らなかった。
「……これか?」
水を指す。
覚えた音を、
もう一度言ってみる。
子どもが笑った。
でも、
首は振らない。
俺はその音を、
口の中で一度だけ繰り返した。
水。
そう決めたくなる。
けれど、
決めなかった。
昨日、
似た音を聞いて、
何度も間違えた。
今は、
水を指したときに、
この音が返ってきた。
それだけ覚えておけばいい。
子どもは、
もう俺に興味をなくしていた。
走っていく。
「忙しいな、お前」
背中に言った。
*
午後になると、
また人が増えた。
林のほうから戻ってくる人。
何かを持ってくる人。
しばらくいて、
また出ていく人。
俺にも、
少しずつ見覚えのある顔が増えてきた。
それでも、
知らない顔のほうが多い。
昨日の女が、
俺の前を通った。
黒い石を渡そうとして、
受け取らなかった女だ。
昨日は何度か、
俺に物を運ばせた。
今日も何か持っている。
俺の横まで来る。
そのまま通り過ぎる。
俺は一度だけ見た。
手は出さない。
女も、
何も言わない。
それで終わった。
俺も自分の作業に戻った。
しばらくして、
遠くから声がした。
「サエキ」
顔を上げる。
朝の子どもだった。
少し離れたところで、
こっちへ手を振っている。
そばには、
別の子どもが二人いた。
俺は立ち上がった。
そちらへ歩く。
途中で、
足が止まった。
三人とも、
地面にしゃがんでいる。
真ん中には、
少しだけ水。
一人の子どもの手が、
泥で汚れていた。
傷のある子どもが、
その手をつかむ。
水につける。
こする。
一度。
二度。
それから、
顔を上げた。
俺を見る。
「サエキ」
俺は口を開きかけた。
でも、
何も言わなかった。
もう一人の子どもも、
手を水につける。
傷のある子どもが、
昼間の音を言った。
水を指したときに、
何度も聞いた音。
俺は、
少し離れたところに立っていた。
三人は、
もう俺を見ていない。
泥のついた手が、
水の中で動く。
小さな指が、
その指をこする。
水が少し濁る。
何か言う。
一人が笑う。
もう一人も笑う。
傷のある子どもが、
また何か言った。
俺には分からない。
やがて、
俺を呼んだことまで忘れたように、
三人とも水のほうを見ていた。
俺は、
そこへ行かなかった。
少しだけ見て、
元いた場所へ戻った。
後ろで、
また水の音がした。
振り返らなかった。
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