第25話 洗う
声がした。
短く、高い声だった。
俺は顔を上げた。
少し離れたところで、子どもがしゃがんでいる。
いつも俺のところへ来る子ではない。もっと小さい。
そのそばには、もう女がいた。
俺も立ち上がった。
二歩ほど進んで、止まる。
女が子どもの手を取っている。
手のひらの端に、赤い線が見えた。
血だ。
多くはない。
足元には、欠けたものが落ちている。石なのか、土器なのか、ここからでは分からない。
子どもは泣いていなかった。
ただ、口を固く閉じている。
痛いのだろう。
*
もう一人、女が来た。
少し遅れて、老人も近づく。
俺はその外側に立っていた。
最初の女が傷を見る。
何か言う。
子どもが首を振った。
女が手元から何かを取った。
草のように見えた。
葉かもしれない。
それを子どもの手へ持っていく。
子どもが手を引いた。
女がまた取る。
俺は一歩出た。
そこで止まった。
傷には、土がついていた。
指の間にも。
洗ったほうがいい。
そう思った。
でも、女が持っているものを、俺は知らない。
何に使うのか。
どう使うのか。
ここでは、いつもそうしているのか。
何も知らない。
女が、子どもの手をもう一度取った。
俺は自分の手を見た。
それから、水のあるほうを見る。
「……洗う」
誰も振り向かない。
もう一度、自分の手をこすってみせた。
「洗う」
女が俺を見る。
俺は手をこすりながら、水のほうを指した。
女は俺の手を見る。
水のほうを見る。
それから、子どもの傷を見る。
老人が何か言った。
女が老人を見る。
短く答える。
老人がまた言う。
俺には一つも分からない。
子どもだけが、俺を見ていた。
目が合う。
俺はもう一度だけ、水を指した。
女が立った。
子どもの手を持ったまま、歩き出す。
水のほうへ。
俺は、ついていかなかった。
*
その場に残っていると、若い男が横に来た。
いつから見ていたのか分からない。
男は、女と子どもの背中を見る。
俺も見る。
「合ってるかどうかは、知らないけどな」
男は何も言わない。
俺の言葉の意味も分からないはずだ。
それでも、しばらく隣に立っていた。
やがて何も言わず、どこかへ歩いていった。
俺はその背中を見送った。
しばらくして、女と子どもが戻ってきた。
子どもの手が濡れている。
傷の周りについていた土は、さっきより少なくなっていた。
女の手には、先ほどのものがある。
葉のようにも見える。
女はそれを指でつぶし、子どもの手へ当てた。
子どもの顔が歪む。
「痛いよな」
女が俺を見た。
俺は黙った。
何を使っているのか分からない。
それが何をするものなのかも分からない。
俺が知っているのは、傷に土がついたままなのは嫌だということくらいだった。
会社にいたころなら、分からないことは調べられた。
画面を開く。
検索する。
傷の写真を見て、似たものを探すことだってできた。
今は、ポケットにスマートフォンが入っていても、画面すらつかない。
俺は医者でもない。
目の前の小さな傷が、このあとどうなるのか。
それすら分からなかった。
女の指が動く。
子どもの手に、細いものを巻いていく。
布には見えない。
植物から作ったものなのか。
それも分からない。
巻き終わると、子どもがすぐに指を動かした。
女が何か言う。
子どもがまた動かす。
女が、その手を軽く叩いた。
子どもが、ものすごく嫌そうな顔をした。
思わず笑った。
子どもがこっちを見る。
睨んでいる。
「悪い」
さらに睨まれた。
俺は口元を押さえた。
今度は、笑わないようにした。
*
昼を過ぎても、子どもは普通に歩いていた。
走ろうとして、女に止められる。
何か取ろうとして、また止められる。
少しすると、今度は別のものへ手を伸ばす。
元気そうには見える。
俺は何度か、巻かれた手を見た。
そのたびに、すぐ目をそらした。
見たところで分からない。
傷が深いのか。
このまま治るのか。
あとで腫れるのか。
俺には判断できない。
子どもがまた走った。
女の声が飛ぶ。
子どもが止まる。
振り返る。
何か言い返したように聞こえた。
女がもう一度言う。
今度は走らず、歩き出した。
俺は枝を一本持ち上げた。
自分のやることに戻った。
*
夕方、水のところへ行った。
しゃがんで、両手を水につける。
冷たい。
手のひらをこする。
指の間。
爪の近く。
枝を運んでついた泥が、水の中へ流れていく。
昔なら、こんなことをいちいち考えなかった。
蛇口をひねれば、水が出た。
手を洗う。
それだけだった。
ここへ来てからは、水を飲むことも、使うことも、前ほど簡単には見えない。
俺は指をこすった。
水から手を上げる。
そのとき、後ろで音がした。
振り向く。
昼間の子どもだった。
「どうした?」
子どもは俺を見ていない。
俺の濡れた手を見ている。
次に、水を見る。
そして、しゃがんだ。
傷のある手は胸の近くに置いたまま、もう片方の手を水につける。
ぱしゃ。
すぐに上げる。
手を見る。
また水につける。
今度は、指をこすった。
俺は何も言わなかった。
もう一度、自分の手を水に入れる。
ゆっくり、指をこする。
子どもが俺を見る。
俺の指を見る。
自分の指を見る。
同じように、こする。
水が揺れる。
俺の手。
子どもの手。
大きさの違う二つの手の間を、水が流れていく。
しばらくすると、子どもが立ち上がった。
もう飽きたらしい。
濡れた手を振る。
水滴が飛んだ。
そのまま走り出す。
「おい、転ぶなよ」
もちろん、止まらない。
俺は水から手を上げた。
子どもの背中は、もう木の向こうへ消えていた。
水面だけが、しばらく揺れていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




