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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
人と生きる

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25/120

第25話 洗う

声がした。


短く、高い声だった。


俺は顔を上げた。


少し離れたところで、子どもがしゃがんでいる。


いつも俺のところへ来る子ではない。もっと小さい。


そのそばには、もう女がいた。


俺も立ち上がった。


二歩ほど進んで、止まる。


女が子どもの手を取っている。


手のひらの端に、赤い線が見えた。


血だ。


多くはない。


足元には、欠けたものが落ちている。石なのか、土器なのか、ここからでは分からない。


子どもは泣いていなかった。


ただ、口を固く閉じている。


痛いのだろう。


         *


もう一人、女が来た。


少し遅れて、老人も近づく。


俺はその外側に立っていた。


最初の女が傷を見る。


何か言う。


子どもが首を振った。


女が手元から何かを取った。


草のように見えた。


葉かもしれない。


それを子どもの手へ持っていく。


子どもが手を引いた。


女がまた取る。


俺は一歩出た。


そこで止まった。


傷には、土がついていた。


指の間にも。


洗ったほうがいい。


そう思った。


でも、女が持っているものを、俺は知らない。


何に使うのか。


どう使うのか。


ここでは、いつもそうしているのか。


何も知らない。


女が、子どもの手をもう一度取った。


俺は自分の手を見た。


それから、水のあるほうを見る。


「……洗う」


誰も振り向かない。


もう一度、自分の手をこすってみせた。


「洗う」


女が俺を見る。


俺は手をこすりながら、水のほうを指した。


女は俺の手を見る。


水のほうを見る。


それから、子どもの傷を見る。


老人が何か言った。


女が老人を見る。


短く答える。


老人がまた言う。


俺には一つも分からない。


子どもだけが、俺を見ていた。


目が合う。


俺はもう一度だけ、水を指した。


女が立った。


子どもの手を持ったまま、歩き出す。


水のほうへ。


俺は、ついていかなかった。


         *


その場に残っていると、若い男が横に来た。


いつから見ていたのか分からない。


男は、女と子どもの背中を見る。


俺も見る。


「合ってるかどうかは、知らないけどな」


男は何も言わない。


俺の言葉の意味も分からないはずだ。


それでも、しばらく隣に立っていた。


やがて何も言わず、どこかへ歩いていった。


俺はその背中を見送った。


しばらくして、女と子どもが戻ってきた。


子どもの手が濡れている。


傷の周りについていた土は、さっきより少なくなっていた。


女の手には、先ほどのものがある。


葉のようにも見える。


女はそれを指でつぶし、子どもの手へ当てた。


子どもの顔が歪む。


「痛いよな」


女が俺を見た。


俺は黙った。


何を使っているのか分からない。


それが何をするものなのかも分からない。


俺が知っているのは、傷に土がついたままなのは嫌だということくらいだった。


会社にいたころなら、分からないことは調べられた。


画面を開く。


検索する。


傷の写真を見て、似たものを探すことだってできた。


今は、ポケットにスマートフォンが入っていても、画面すらつかない。


俺は医者でもない。


目の前の小さな傷が、このあとどうなるのか。


それすら分からなかった。


女の指が動く。


子どもの手に、細いものを巻いていく。


布には見えない。


植物から作ったものなのか。


それも分からない。


巻き終わると、子どもがすぐに指を動かした。


女が何か言う。


子どもがまた動かす。


女が、その手を軽く叩いた。


子どもが、ものすごく嫌そうな顔をした。


思わず笑った。


子どもがこっちを見る。


睨んでいる。


「悪い」


さらに睨まれた。


俺は口元を押さえた。


今度は、笑わないようにした。


         *


昼を過ぎても、子どもは普通に歩いていた。


走ろうとして、女に止められる。


何か取ろうとして、また止められる。


少しすると、今度は別のものへ手を伸ばす。


元気そうには見える。


俺は何度か、巻かれた手を見た。


そのたびに、すぐ目をそらした。


見たところで分からない。


傷が深いのか。


このまま治るのか。


あとで腫れるのか。


俺には判断できない。


子どもがまた走った。


女の声が飛ぶ。


子どもが止まる。


振り返る。


何か言い返したように聞こえた。


女がもう一度言う。


今度は走らず、歩き出した。


俺は枝を一本持ち上げた。


自分のやることに戻った。


         *


夕方、水のところへ行った。


しゃがんで、両手を水につける。


冷たい。


手のひらをこする。


指の間。


爪の近く。


枝を運んでついた泥が、水の中へ流れていく。


昔なら、こんなことをいちいち考えなかった。


蛇口をひねれば、水が出た。


手を洗う。


それだけだった。


ここへ来てからは、水を飲むことも、使うことも、前ほど簡単には見えない。


俺は指をこすった。


水から手を上げる。


そのとき、後ろで音がした。


振り向く。


昼間の子どもだった。


「どうした?」


子どもは俺を見ていない。


俺の濡れた手を見ている。


次に、水を見る。


そして、しゃがんだ。


傷のある手は胸の近くに置いたまま、もう片方の手を水につける。


ぱしゃ。


すぐに上げる。


手を見る。


また水につける。


今度は、指をこすった。


俺は何も言わなかった。


もう一度、自分の手を水に入れる。


ゆっくり、指をこする。


子どもが俺を見る。


俺の指を見る。


自分の指を見る。


同じように、こする。


水が揺れる。


俺の手。


子どもの手。


大きさの違う二つの手の間を、水が流れていく。


しばらくすると、子どもが立ち上がった。


もう飽きたらしい。


濡れた手を振る。


水滴が飛んだ。


そのまま走り出す。


「おい、転ぶなよ」


もちろん、止まらない。


俺は水から手を上げた。


子どもの背中は、もう木の向こうへ消えていた。


水面だけが、しばらく揺れていた。

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