第21話 名前だけが先に
会ったこともない子どもが、
俺の名前を知っていた。
*
「サエキ!」
もう一度。
子どもが俺を指す。
*
俺は、
自分の胸に手を当てた。
「サエキ」
*
子どもが笑う。
隣にいた男が、
何か言った。
*
子どもが答える。
その中に、
また聞こえた。
*
「サエキ」
*
少し離れた女も、
こちらを見る。
男に何か聞く。
男が答える。
*
また、
「サエキ」。
*
「……俺の話か?」
*
若い男は、
もう先へ歩いていた。
*
追う。
*
人が多い。
*
一つの火の周りに、
みんながいるわけじゃない。
*
少し離れたところにも、
煙が上がっている。
*
人が座る。
歩く。
何かを運ぶ。
*
その間を、
子どもたちが走っている。
*
誰かが呼ぶ。
誰かが返す。
*
言葉は、
ほとんど分からない。
*
それでも、
ときどき。
*
「サエキ」
*
その音だけが、
耳に引っかかる。
*
振り返る。
*
知らない顔だった。
*
俺を見る。
何か言う。
*
隣にいた男が、
俺の足元を指した。
*
革靴。
*
またか。
*
二人が何か話す。
片方が笑う。
*
俺は、
そのまま通り過ぎた。
*
少し先では、
誰も俺を見なかった。
*
女が二人、
地面に何かを広げている。
*
男が石を持っている。
*
老人は、
座ったまま手を動かしている。
*
俺が横を通っても、
顔を上げない。
*
そのほうが、
少し楽だった。
*
若い男が止まる。
*
前に、
三人いた。
*
一人は知っている。
*
森の向こうから、
最初の場所へ来た男。
*
あの子と一緒に、
森へ入っていった男だ。
*
男も、
俺に気づいた。
*
自分の胸を指す。
*
短い音。
*
覚えている。
*
俺も、
同じ音を返した。
*
男の眉が、
少し動く。
*
もう一度。
*
俺も言う。
*
今度は、
首を振らなかった。
*
「まだ覚えてるよ」
*
男が、
俺の肩を一度叩く。
*
それから、
若い男のほうを向いた。
*
二人の声が続く。
*
俺は、
足元を見る。
*
いくつかのものが、
地面に置かれていた。
*
石。
細く束ねたもの。
乾いた何か。
小さな包み。
*
一人が石を取る。
手の中で返す。
*
何か言う。
*
戻す。
*
別の石を取る。
*
俺は、
少し近づいた。
*
見たことのない色だった。
*
手を伸ばしかける。
*
止めた。
*
昨日の土器を思い出した。
*
見る。
*
石を持った男が、
俺に気づいた。
*
俺を見る。
石を見る。
*
そして、
差し出した。
*
受け取る。
*
重い。
冷たい。
*
欠けたところが、
鋭い。
*
「これ……」
*
名前が出てこない。
*
男が手を出す。
*
返す。
*
石は、
すぐ別の手へ渡った。
*
俺は、
その手を目で追った。
*
別のものが、
地面へ置かれる。
*
誰かが首を振る。
*
声が、
少し強くなった。
*
さっきまで話していた二人が、
笑わなくなる。
*
一人が、
地面のものを指す。
*
もう一人が、
短く何か返す。
*
間にいた男が、
二人を見る。
*
しばらくして、
一人が物を取った。
*
もう一人も、
別のものを持つ。
*
離れていった。
*
俺には、
何が決まったのか分からなかった。
*
後ろから、
子どもの声。
*
振り返る。
*
あの子だ。
*
何かを抱えて、
別の子どもと歩いている。
*
俺に気づく。
*
「サエキ!」
*
片手を上げる。
*
俺も上げた。
*
それだけ。
*
子どもは、
そのまま行った。
*
俺も、
追わなかった。
*
少しして、
見覚えのある姿が、
人の間を通った。
*
女。
*
最初の場所で、
あの子のそばによくいた女だ。
*
「え?」
*
女も、
俺を見つけた。
*
一度止まる。
*
俺を見る。
*
若い男を見る。
*
何か言う。
*
若い男が答える。
*
女は、
持っていたものを抱え直した。
*
そこへ、
子どもが走ってきた。
*
女の前で止まる。
*
女がしゃがむ。
*
子どもの頬を、
指でこする。
*
何か取れた。
*
子どもが言う。
女が返す。
*
子どもが笑う。
*
そして、
また走っていった。
*
女は追わない。
*
俺は、
その背中を見る。
*
口を開く。
*
「……」
*
声が出なかった。
*
女と、
子どもを見る。
*
聞きたいことはある。
*
でも、
何を聞けばいいのか、
分からなかった。
*
女が、
俺を見る。
*
目が合う。
*
俺は、
何も言わない。
*
女も、
何も言わなかった。
*
そのまま、
人の間へ消えていく。
*
後ろから、
声がした。
*
「サエキ」
*
振り向く。
*
知らない男。
*
今日、
初めて見る顔だった。
*
男は、
俺を指す。
*
「サエキ」
*
「そう」
*
自分の胸を指す。
*
「サエキ」
*
男が、
少し笑った。
*
俺は、
男の胸を指しかけた。
*
名前を聞きたい。
*
そのとき、
別のところから声が飛んだ。
*
男が振り向く。
*
何か返す。
*
そして、
行ってしまった。
*
俺の手だけが、
途中に残った。
*
下ろす。
*
人の声が、
あちこちから聞こえる。
*
俺には、
まだほとんど分からない。
*
その中に、
*
「サエキ」
*
また、
俺の名前。
*
振り向く。
*
誰が呼んだのか、
分からなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




