第17話 森の向こう
火のそばへ戻ってからも、
俺は、
子どもにもらったものを持っていた。
小さい。
黒っぽい。
硬い。
木の実なのか。
種なのか。
それすら分からない。
*
子どもは、
俺の隣に座っている。
俺が手のひらを見ると、
子どもも見る。
「これ、何だ?」
子どもが、
短い音を言った。
俺は真似する。
首を振られる。
もう一度。
また首を振る。
三度目。
今度は、
何も言われなかった。
俺は、
手のひらのものを指す。
覚えた音を言う。
子どもが、
もう一度同じ音を返した。
*
火の向こうにいた女が、
こちらを見た。
子どもが何か言う。
女の目が、
俺の手へ落ちる。
近づいてくる。
俺は手のひらを見せた。
女が取る。
指で触る。
裏返す。
匂いを嗅ぐ。
驚いた様子はない。
子どもに何か言う。
子どもは、
森のほうを指した。
*
女も、
そちらを見る。
それから、
昨日、
子どもと一緒に戻ってきた男を見る。
男は老人のそばにいた。
女が声をかける。
男が来る。
黒いものを見る。
何か言った。
子どもが答える。
男が笑う。
子どもの頭に手を置く。
すぐに払われた。
まただ。
俺は、
少し笑った。
*
男が、
黒いものをつまむ。
俺に見せる。
何か言う。
次に、
森を指した。
俺も見る。
夜の森。
木しか見えない。
男は、
もう一度何か言った。
黒いもの。
森。
俺。
順番に指す。
俺は男を見る。
「向こうに、
これがあるのか?」
男は、
もう別の話を始めていた。
*
翌朝。
黒いものは、
俺の手元にはなかった。
女が持っていった。
何に使うのかも、
分からない。
*
俺は枝を運ぶ。
一本。
二本。
置く。
戻る。
また抱える。
集落の端まで来たところで、
若い男が見えた。
槍を持っている。
森の前に立っていた。
何かを見ている。
俺も見る。
木。
草。
その奥は、
暗い。
*
若い男が、
森へ入った。
今日は、
俺を呼ばない。
俺は枝を持ち直した。
数歩歩く。
*
「サエキ」
止まった。
振り返る。
若い男が、
木の間から俺を見ている。
一度、
顎を動かした。
俺は自分を指した。
「俺?」
男はもう、
背を向けていた。
*
枝を置く。
追う。
*
森へ入る。
前よりは、
足元を見るようになった。
細い枝。
濡れた石。
柔らかい土。
若い男が踏んだ場所を見て、
俺も足を置く。
それでも、
革靴は歩きにくい。
一度、
落ち葉の下で滑った。
手を木につく。
若い男が振り返る。
俺を見る。
また歩く。
何も言わない。
*
前に森へ入ったときより、
速くない。
俺に合わせているのか。
たまたまなのか。
分からない。
俺は、
少し離れてついていく。
*
若い男が止まった。
俺も止まる。
地面を見る。
何かあるのかと思った。
分からない。
男は、
木の幹を見る。
その先を見る。
少し待つ。
また歩く。
俺も、
同じ場所を見る。
やっぱり、
何も分からなかった。
*
しばらくして、
水の音が大きくなった。
川だった。
前に来た場所とは違う。
向こう岸まで、
それほど遠くない。
若い男は、
そのまま水へ入った。
足首。
脛。
膝までは来ない。
向こうへ渡る。
*
俺は、
川の前で止まった。
自分の足を見る。
革靴。
向こう岸を見る。
若い男が、
立っている。
「……これで行くのかよ」
返事はない。
*
靴を脱ぐ。
靴下も脱ぐ。
ズボンの裾を上げる。
靴と靴下を持って、
水へ足を入れた。
「冷たっ」
思わず声が出る。
川底の石が、
足の裏に当たる。
丸い。
尖ったものもある。
一歩。
もう一歩。
水に押される。
思ったより、
足が取られる。
俺は手を広げた。
若い男は、
向こう岸で待っている。
*
どうにか渡った。
石の上に座る。
足を拭くものがない。
手で水を払う。
少し待って、
靴下を履く。
靴を履く。
若い男は、
まだいる。
「悪いな」
通じない。
男は、
俺の靴を見た。
自分の足元を見る。
それから、
歩き出した。
*
川を越えても、
森は森だった。
木がある。
草がある。
湿った土。
葉の間から、
光が落ちる。
何が違うのか、
俺には分からない。
*
若い男は、
何度か足を止めた。
地面を見る。
遠くを見る。
俺も、
同じように見る。
鳥の声。
葉の音。
風。
俺に分かるのは、
それくらいだった。
*
また、
男がしゃがんだ。
今度は、
俺にも見えた。
土の上に、
足の形がある。
人の足。
裸足。
一つ。
その横にもある。
少し崩れている。
もう一つ。
小さいものもあった。
俺はしゃがむ。
自分の革靴を見る。
土を見る。
若い男は、
もう立ち上がっていた。
*
「これ……」
男は歩き出す。
俺も立つ。
足跡を一度振り返る。
誰のものかは、
分からない。
*
そこから、
少し歩いた。
鼻に、
何か引っかかった。
止まる。
息を吸う。
湿った土。
葉。
それとは違う匂い。
もう一度。
「……煙?」
若い男は、
止まらない。
*
俺は追う。
匂いが、
消える。
またする。
木の間から、
風が抜ける。
そのたびに、
薄く混じる。
火。
たぶん。
*
さらに進む。
鳥が鳴く。
どこかで、
枝が折れる。
その中に、
別の音が混じった。
*
俺は止まった。
若い男は、
二歩先で止まる。
振り返らない。
耳を澄ます。
また聞こえた。
*
声。
*
遠い。
一人ではない。
高い声。
低い声。
短い声が重なる。
意味は分からない。
でも、
人の声だった。
*
俺は、
若い男を見る。
男は、
槍を持ったまま立っている。
構えてはいない。
声のするほうへ、
また歩き始める。
俺もついていく。
*
木々の間が、
少しずつ明るくなった。
森が薄くなる。
空が広がる。
若い男が、
一本の木を抜けた。
俺も、
その後ろから出る。
*
最初に見えたのは、
煙だった。
木々の向こうから、
細く上がっている。
その下。
屋根。
一つ。
少し離れて、
もう一つ。
*
足が止まった。
*
人がいた。
何かを抱えて歩く人。
地面に座っている人。
走っている子ども。
火のそばに、
何人かいる。
*
若い男は、
止まらない。
俺だけが、
数歩遅れた。
*
向こうで、
誰かが顔を上げた。
こちらを見る。
何か言った。
*
別の人も、
顔を上げる。
その隣も。
*
視線が、
若い男を通り過ぎる。
俺のところで止まった。
*
一人。
二人。
三人。
*
声が、
少しずつ減っていく。
*
俺は、
自分の袖を見る。
ズボン。
泥のついた革靴。
*
昨日、
森から来た男が、
俺を見た目を思い出した。
*
若い男が、
少し先で止まった。
振り返る。
*
俺は、
その向こうにいる人たちを見る。
向こうも、
俺を見ている。
*
その中に、
知っている顔があった。
*
「サエキ!」
*
子どもだった。
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