第16話 いつ帰る
朝、
目が覚めた。
火のそばでは、
もう人が動いていた。
女が何かを運んでいる。
老人は、
昨日と同じ場所にいる。
若い男の姿はない。
たぶん、
もうどこかへ行った。
俺は身体を起こした。
顔を洗う。
水を飲む。
枝のところへ向かった。
*
一本抱える。
運ぶ。
置く。
戻る。
もう一本。
前よりは、
手が止まらなくなった。
どこから取るか。
どこへ置くか。
太いものと、
細いもの。
まだ間違える。
それでも、
いちいち誰かを見ることは減った。
三本目を置く。
後ろで、
何かが落ちた。
振り返る。
細い枝が、
地面に転がっている。
誰もいない。
拾う。
それも一緒に置いた。
*
昼前、
女たちのそばに座った。
木の実のようなものが、
いくつか広げられている。
俺も手を出す。
一つ取る。
見る。
右へ。
次。
左。
三つ目で、
手が止まった。
色を見る。
傷を見る。
指で触る。
右へ置いた。
隣の女が、
何も言わずに左へ移した。
「違ったか」
次を取る。
今度は、
少し長く見る。
横から手は伸びてこない。
俺は、
一度だけ横を見た。
空いている。
*
作業を続けた。
しばらくすると、
森から若い男が戻ってきた。
手に何か持っている。
俺の前を通る。
「おい」
声をかけた。
男が止まる。
俺は森を指した。
昨日、
子どもが消えていったほう。
男がそちらを見る。
次に、
子どもの背丈くらいへ手を下げる。
森を指す。
男を見る。
「いつ帰る?」
男は、
俺の顔を見た。
*
通じない。
分かっていた。
俺は指で、
地面を歩かせた。
森へ。
止める。
今度は、
こちらへ戻す。
「帰る」
男が、
俺の指を見る。
森を見る。
何か言った。
短い音だった。
「……何?」
もう一度、
同じ動きをする。
森へ。
こちらへ。
男が、
また何か言う。
さっきと同じ音が、
混じっていた。
*
俺は、
その音を真似した。
男が首を振る。
もう一度言う。
俺も繰り返す。
また違う。
三度目。
男は、
しばらく俺の口を見た。
それから、
何も言わなかった。
合ったのか。
諦めたのか。
分からない。
俺は、
もう一度その音を口にした。
*
次に、
子どもの背丈を手で示した。
森。
さっきの音。
男を見る。
若い男は、
しばらく動かなかった。
俺の手を見る。
森を見る。
何か言った。
今度は長い。
一つも分からない。
「いつだよ」
男が、
空を見た。
俺もつられて見る。
雲の間に、
太陽がある。
男が何か言う。
森を指す。
俺を見る。
それだけだった。
*
俺は空を見る。
太陽。
森。
あの子。
頭の中で、
勝手に意味をつなぐ。
今日。
夕方。
明日。
一日。
どれでもありそうだった。
若い男は、
もう歩き出している。
「……分からん」
追いかけても、
同じだ。
俺は作業へ戻った。
*
午後。
覚えた音を、
何度か口の中で繰り返した。
意味は決めない。
枝を持つ。
歩く。
置く。
戻る。
そのたびに、
同じ音が口の中に残った。
*
日が傾いた。
集落の影が、
少しずつ長くなる。
森を見る。
誰もいない。
少しして、
また見る。
何もない。
女が俺の前を通った。
俺が森を見ていることに、
気づいたようだった。
女も一度だけ、
そちらを見る。
それから、
そのまま歩いていった。
*
火が大きくなった。
人が集まる。
俺も座る。
食べる。
聞こえる声は、
少しずつ覚えてきた。
意味は分からなくても、
誰の声かは分かる。
老人。
若い男。
朝、
木の実を分けていた女。
少し離れたところにいる男。
火が鳴る。
誰かが笑う。
俺も顔を上げる。
何がおかしいのかは、
分からない。
*
しばらくして、
気づいた。
静かなわけじゃない。
人はいる。
声もある。
ただ、
一つ聞こえない。
*
俺は火を見る。
枝の先が、
赤くなっている。
ポケットの中に手を入れる。
指が、
スマートフォンに触れた。
取り出さない。
画面は、
もう何も教えてくれない。
時間も。
場所も。
あの子が、
どこにいるのかも。
*
森のほうで、
枝が鳴った。
若い男が顔を上げた。
俺も上げる。
もう一度。
少し近い。
女が、
手を止めた。
誰かが立つ。
俺も立ち上がった。
*
暗い木の間から、
人影が出た。
一人。
昨日、
森から来た男だった。
肩に何かを掛けている。
その後ろに、
もう一つ。
小さな影。
足が、
勝手に一歩出た。
*
「サエキ!」
声が飛んできた。
子どもが走る。
昨日と同じ顔。
昨日と同じ声。
俺の前まで来て、
止まった。
息を切らしている。
「お前……」
何を言おうとしたのか、
自分でも分からなかった。
子どもは、
そんなことを気にしない。
片手を開く。
何かが乗っている。
小さい。
黒っぽい。
見たことがない。
俺に差し出す。
*
「俺に?」
子どもが、
もう一度手を出す。
受け取った。
子どもが笑う。
俺は、
手の中のものを見る。
昨日なら、
そのまま口へ運んでいたかもしれない。
今日は、
子どもを見る。
子どもは、
俺の手を見る。
何も叩かない。
俺は、
口へ運ばずに待った。
*
子どもが、
何か言った。
短い音。
俺は聞く。
もう一度言う。
俺は、
その音を繰り返した。
子どもが首を振る。
言い直す。
俺も、
言い直す。
二度。
三度。
ようやく、
首を振らなくなった。
*
俺は、
昼に若い男から聞いた音を思い出した。
森へ行く。
こちらへ来る。
その間に聞いた音。
口にしてみる。
子どもが、
俺を見る。
俺は子どもを指す。
森を指す。
こちらを指す。
もう一度、
その音。
*
子どもは、
少し考えるように俺を見た。
それから、
同じ音を言った。
俺のものとは、
少し違って聞こえた。
俺が繰り返す。
子どもも言う。
意味は、
まだ分からない。
*
後ろから、
若い男の声がした。
振り返る。
男が立っている。
俺を見る。
子どもを見る。
何か言った。
子どもが答える。
男は、
森から戻った男のほうへ歩いていく。
*
俺は、
手の中のものを見る。
子どもを見る。
「帰ってきた」
今度は、
日本語で言った。
子どもは、
もちろん分からない。
それでも、
俺を見ている。
*
俺は、
昼から何度も練習した音を、
もう一度口にした。
子どもが聞く。
首を振らない。
俺は、
それ以上聞かなかった。
*
火のそばへ戻る。
子どももついてくる。
途中で、
先に走っていく。
俺の前に、
小さな背中がある。
昨日までと、
同じだった。
*
俺は歩きながら、
ふと止まった。
昨日までと、
同じ。
そう思った。
でも、
少し違った。
*
昨日まで、
あの子がどこにいるのかなんて、
考えたことがなかった。
俺は、
火のほうへ歩いた。
手の中には、
まだ、
名前の分からないものがあった。
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