第120話 明後日の荷
約束の朝が来た。
空は明るく、風は弱かった。
火のそばで、俺は荷をまとめた。
見取りは、紐の間に押し込んである。
腰の縄を締め直し、結び目を指で確かめた。
昨日の夜、戻ってから、イナには話してある。
今日、ロクの岸で荷を運ぶこと。
その日のうちに戻ること。
イナが来て、荷の留め具を押した。
外れないか確かめる、いつもの手つきだった。
「今日、戻る?」
「うん。今日」
イナは頷いた。
それ以上、何も聞かなかった。
俺は革靴の足元を確かめた。
今日は、濡れた石の上を何度も歩く。
ハセが岸に来ていた。
彼は空を見て、水を見た。
雲の流れ。
水面の、細かい波。
風の匂いを確かめるように、少し顔を上げた。
それから頷いた。
「行ける」
舟を出す。
イナは、舟が離れるまで岸に立っていた。
水の音に、彼女の姿が少しずつ小さくなった。
*
ハセの舟に乗る。
行きの水は静かだった。
櫂の音だけが、規則正しく続く。
俺は荷のそばに座り、岸を見ていた。
櫂が上がるたび、水が雫になって落ちた。
その音と、舟の進む速さが合っていた。
すれ違う舟が一艘あった。
ハセが声をかけ、向こうも短く返す。
何を言ったのかは、聞き取れなかった。
岸の根が、水の中へ伸びている。
その間を、水は速く流れていた。
ハセは櫂の角度を変え、舟を岸から離した。
言われなくても、水の速いところは分かるのだろう。
ロクの言ったことを、頭の中で並べてみた。
運べるか。
止まれと言われたら、止まるか。
分からなければ、聞くか。
今日試されるのは、荷だけではないのだろう。
だが、岸で考えていても分からない。
水の上のことは、水の上でしか分からない。
曲がり角を抜ける。
ノエに教わった、あの曲がり角だ。
向こうに、ロクの岸が見えてきた。
荷を分け合う人影が、もう動いていた。
*
岸では、荷が並んでいた。
包み。
石の入った籠。
干した魚の束。
結び方は、荷ごとに違っていた。
岸の奥では、別の場所から来た人たちが荷を分けている。
一人が包みを開け、中を確かめて、また結ぶ。
別の男が石を一つ取り、光へかざしてから、籠へ戻した。
荷の行き先ごとに、置く場所が決まっているようだった。
大きな舟は、今日も裏返しだった。
ロクは舟のそばで、束の紐を締め直していた。
締めては持ち上げ、揺らして確かめている。
俺たちが着くと、顔を上げた。
「サエ」
「来た」
ロクは下の岸を指した。
水の低いほう。
細い道が、岸伝いに下りている。
「下へ」
それだけ言って、並んだ荷を指した。
魚の籠と、包みが幾つか。
俺は頷いた。
まず包みを運ぶ。
軽いもので、道を覚えるつもりだった。
「重いのは、あと」
ロクが言った。
俺は、軽いほうの包みへ手を伸ばした。
*
道は、思ったより細かった。
濡れた石が、ところどころ光っている。
足場を選んで、一歩ずつ下りる。
包みを抱えた腕に、少しずつ重さが溜まった。
下の岸には、舟が何艘か寄っていた。
荷を下ろす場所は、岩の陰の平らなところだった。
水の届かない高さに、既に幾つか並んでいる。
俺も、その並びに合わせて置いた。
置いて、戻る。
戻りの道では、行きより岸が近く見えた。
ハセも包みを抱えて、下りてきた。
すれ違いざま、彼が短く言う。
「滑る」
「分かった」
二度目は、少し重い包みだった。
両腕で抱えると、足元が見えにくい。
石の段で一度止まり、荷を置いて、足場を確かめた。
濡れた石に足を置きかけ、一度引いた。
乾いた縁のほうへ、半歩ずらす。
置く。
戻る。
仕事は単純だった。
運んで、置いて、戻る。
その繰り返しの速さで、一日が決まる。
*
三度目は、魚の籠を背負った。
紐を肩へ回し、胸の前で締める。
魚の重さは、背中で少しずつ下へ寄った。
だが、歩けないほどではない。
籠の縁が、時々、背中に当たった。
編み目の間から、魚の尾が見えた。
肩の紐が食い込むたび、歩幅を短くした。
下の岸で籠を下ろすと、舟の人へ渡した。
言葉は交わさなかった。
彼は籠の中身を確かめ、頷いた。
受け取った荷は、水際から離れた場所へ、順に並べられていく。
戻る道は、荷がないぶん軽かった。
だが、空の身体で上るほうが、石の濡れ方がよく見えた。
次に下りるときの足場を、頭に残しておく。
乾いた石と、濡れた石。
踏んでいいのは、どちらか。
岸へ戻ると、次の荷がもう並んでいた。
休む間は、ほとんどなかった。
*
四度目の前に、喉が渇いた。
水をもらいに、低い屋根の下へ入る。
土の顔は、板の上にあった。
前より、色が薄くなっている。
乾いてきたのだろう。
板の脇には、大きな葉が広げてあった。
一枚ずつ、大きさの順に重ねてある。
その上に、布のようなものが一枚。
包むための段取りらしい。
ミオが座っていた。
彼女は板の端を持ち上げ、裏側を確かめた。
それから板の位置を、少し動かした。
日の当たるところと、当たらないところの境へ寄せる。
「乾く?」
聞くと、ミオは顔の頬へ指を当てた。
それから、自分の指先を見た。
「まだ」
指先には、何もついていなかった。
だが、彼女は首を振った。
乾いたかどうかは、目では決めないらしい。
ミオは広げた葉を一枚取り、顔のそばへ置いた。
大きさを比べているようだった。
合わないと見ると、別の葉に替えた。
風で葉の端がめくれた。
彼女は小石を一つ、その上に置いた。
俺は器を持ったまま、その手つきを見ていた。
急がないのに、無駄がなかった。
俺は水を飲み、器を返した。
顔が包まれるのは、今日ではないのだろう。
*
四度目の籠を背負った。
包みも一つ、腕に抱える。
道の半ばまで来たときだった。
背中の紐が、少しだけ動いた。
締めたときより、籠の位置が下がっている。
歩くたびに、紐が小さく鳴る。
もう一歩進んで、確かめた。
やはり、緩んでいた。
籠の中で、魚の動く気配がした。
このまま下りれば、籠が傾く。
下までは、まだ半分ある。
締め直せば済むことだった。
俺は結び目を知っている。
人に教えたこともある。
手が、肩の紐へ伸びかけた。
そこで、止めた。
これは、俺の荷ではない。
ロクの籠で、ロクの結びだ。
どこが緩んだのか、俺には分からない。
下手に締め直せば、道の途中で魚を落とすかもしれない。
止まる場所を選んだ。
岩の出っ張りに背を寄せ、身体を低く保つ。
「ロク」
声を上げた。
下の岸から、ハセが顔を上げた。
彼が何か言う。
聞き取れなかった。
俺は籠を指し、肩の紐を指した。
もう一度、緩んでいるところを叩いた。
ハセが頷いた。
*
ハセが道を上ってきた。
俺の脇を通るとき、背中の籠を一度見た。
紐の緩みを見たのだろう。
彼はそのまま上へ向かった。
ロクを呼びに行ったのだと思う。
待つ間、荷は少しずつ重くなった。
息をするたび、背中の紐が小さく鳴った。
鳴るたび、緩みが進んでいる気がした。
足を動かすと、石が濡れて滑る。
動かないでいるほうが、難しかった。
魚の籠を持った女が、下から上ってきた。
俺の脇を、荷に触れないよう身体を傾けて通る。
彼女は俺の背中の籠を、一度だけ見た。
何も言わなかった。
下で、舟の動く音がした。
水の音。
人の声。
そのどれも、俺のところまでは届かなかった。
額の汗が、目に入りかけた。
だが、両手は離せなかった。
腕の包みを、岩へ寄せて休めた。
背中の籠だけは、下ろせなかった。
下ろす場所が、なかった。
*
やがて、ロクが下りてきた。
彼は俺の前に回り、背中の籠を見た。
紐の緩んだところへ、手を当てた。
引いて、確かめる。
左の親指の付け根の、古い傷が見えた。
「下ろす」
俺は膝を曲げ、岩の平らなところへ籠を下ろした。
腕の包みも、足元へ置く。
ロクは紐をほどいた。
途中からではなく、全部ほどいた。
ほどいた紐には、砂が噛んでいた。
それから、最初から締め直す。
幅のある手が、紐を引く。
紐の端を、体重をかけて引いた。
膝で籠を支え、傾きを直す。
一度締めて、籠を持ち上げ、揺らした。
もう一度、締める。
彼の結びは、俺のものと少し違った。
どこが違うのか、見ているだけでは分からなかった。
だが、籠はもう動かなかった。
ロクは頷かなかった。
説明も、注意もなかった。
俺は籠を背負い直した。
紐は肩に食い込んだが、位置は動かない。
ロクは手を離し、指の砂を払った。
それで済んだはずだった。
足元の包みを持ち上げる。
そのとき、ロクの目が下へ動いた。
俺の腰の縄。
その結び目に、ロクの目が止まっていた。
彼は何も言わなかった。
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