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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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第119話 舟を貸す人

「貸せない」


男は俺の顔を見て言った。


聞き間違えようのない短さだった。


俺は舟を指していた手を下ろした。


まだ、何日使うのかも説明していない。


ハセが横から何か話す。


男は最後まで聞いた。


それから、舟の底へ手を戻した。


小さな石刃が、黒ずんだ木の表面を削る。


話は終わったらしかった。


俺は隣のハセを見た。


彼は困った顔をしなかった。


そう簡単にはいかないと、知っていたのだろう。


*


ノエが短い舟旅から戻って、四日たっていた。


その間に、イナと魚を運び、ハセの手が空いた時に櫂を使わせてもらった。


イナも、岸の近くで短く漕いだ。


帰ってくると袖が濡れていたが、今度は舟の縁へしがみついてはいなかった。


ノエは子どもと自分の集落へ戻った。


次に会うまでに、舟の話を確かめてくる。


そう伝えると、彼女は俺の胸を指した。


「サエ、一人で、決めない」


「うん。聞いてくる」


今日も泊まらず戻る。


出る前にイナへ伝えると、彼女は俺の荷を一度押して、留め具が外れないか確かめた。


ハセの舟には、交換する荷と俺が乗った。


ノエが話してくれた曲がり角を抜ける。


その先の岸に、大きな舟が裏返して置かれていた。


借りられるか尋ねる。


答えは、今聞いた通りだった。


*


男はロクと名乗った。


幅のある手だった。


爪の間に黒いものが入り、左の親指の付け根には古い傷がある。


削る手は止まらない。


俺は舟を見た。


ハセのものより長く、岸に置かれていると、なおさら大きく見える。


これなら、と考えた。


ロクが顔を上げた。


「漕ぐ?」


「少し」


正直に答えた。


男はハセを見る。


ハセも頷いた。


何か付け加える。


少し、というところは変わらなかったらしい。


ロクが舟を指し、空いた岸を指した。


言葉が続いた。


分からずにいると、ハセが短く区切ってくれた。


舟が戻らなければ、魚を取りに行けない。


向こう岸へ荷も運べない。


俺は頷いた。


「返す」


ロクは俺を見た。


「サエ、どこ?」


俺は元の集落の方角を示した。


ハセが場所を説明する。


ロクはしばらく考えた。


知らない場所らしかった。


「誰?」


俺と、さっき示した方角を交互に指す。


ハセへ聞き返した。


あの集落で俺を知るのは誰か。戻らなかったら、誰を訪ねればいいのか。


そういう問いだった。


俺はハセを見た。


彼が話し始めた。


ウルの名が聞こえる。


俺が舟で出て、戻ったこと。


ここで働いていること。


ロクは聞いていた。


だが、頷いたあとも、貸すとは言わなかった。


ロクは舟の底を掌で叩いた。


魚を取る時も、荷を運ぶ時も、この木の上へ座る。


俺の「返す」だけで、手放せるものではなかった。


俺は大きな舟から手を離した。


つい、触れていた。


*


岸の奥では、人が荷を分けていた。


最初は、この集落の物を干しているのだと思った。


だが、違った。


一人が獣皮を広げ、石を幾つか載せる。


別の女が干した魚の包みを寄せる。


首に貝を下げた男が来て、石を一つ取り、光へかざした。


離れたところでは、二人が会うなり肩を叩き合った。


言い方の違う声が飛び交っている。


俺はハセへ尋ねた。


「皆、ここ?」


彼は首を振った。


水の上と、森の向こうを指す。


別の場所から来ている。


俺は荷を見る。


交換して、帰るのか。


そう聞くと、半分は合っていた。


ハセがロクへ確かめる。


二人の話を聞きながら、分かったことを拾った。


ここで物を替える人もいる。


さらに先へ、運ぶ人もいる。


何艘かで同じ岸へ向かい、そこで別の人たちと会う。


俺が覚えたばかりの音が出た。


海。


俺は顔を上げた。


*


ロクが舟から離れ、地面へしゃがんだ。


枝を拾う。


水路を引き、その先を分ける。


見覚えのある広い水の形ではなかった。


だが、途中で彼が口にした名に、俺は反応した。


「ナナ?」


ロクが俺を見る。


俺は頷き、荷から見取りを出した。


歩いた道。


ウルと通った水路。


最後に着いた集落の丸。


ロクが指を置いた。


自分の枝で引いた線へ、目を移す。


ハセが口を開いた。


二人が話す。


ナナのいる集落を、ロクも知っていた。


そこを経て、さらに先へ行く者たちがいるらしい。


「セナ、知る?」


聞くと、ロクは首を傾げた。


その名には、すぐ返事がなかった。


俺は見取りを畳んだ。


俺がようやく辿り着いた岸を、ここでは次の寄り場として話している。


ナナの家の前を、あの石を積んだ舟が通るのだろうか。


俺は岸へ並んだ荷を、もう一度見た。


*


ハセは交換の相手に呼ばれた。


俺も荷を運ぶ。


包みを渡し、受け取ったものを舟のそばへ置く。


戻ろうとした時、魚の籠を持った女が、足を止めた。


前の男が長い包みを抱えて通り、道がふさがっている。


女の腕が少し下がった。


俺は足元の空いたところを指した。


「置く?」


彼女が頷く。


端を受け取り、二人で下ろした。


女が手首を振る。


籠の魚は、まだずいぶん重そうだった。


俺は長い包みを持つ男が通り過ぎるのを待った。


「どこ?」


女が岸の奥を示す。


今度は二人で、持つ場所を確かめてから上げた。


運んで、下ろす。


それだけだった。


女が短く礼を言い、俺の顔を見た。


「サエ」


俺が名乗ると、彼女は同じ音を返した。


少し離れたところで、ロクがこちらを見ていた。


*


彼が手招きした。


俺は近づく。


また舟を指されるかと思ったが、そうではなかった。


岸に並べられた荷の一つを示す。


長い棒に、二つの包みが結んである。


持つよう言われた。


棒の真ん中を両手で持つ。


一方の包みが、先に浮いた。


俺は一度下ろし、手の位置をずらした。


今度は、二つとも持ち上がった。


ロクが顎を動かした。


少し先へ運ぶ。


置く。


俺が手を離すと、彼は紐を確かめた。


それからハセを呼んだ。


俺は二人の話を聞いた。


明後日。


天気がよければ、ロクは荷を下の岸へ移す。


その日のうちに戻る。


俺も来るか、と聞いていた。


海までの旅ではない。


舟も、まだ貸さない。


運べるか。


舟の上で、止まれと言われたら止まること。


分からなければ、勝手に動かず聞くこと。


ロクは俺に言い、同じことをハセにも確かめた。


「行く」


答えると、ロクが俺の持ってきた荷を指した。


見取りが、紐の間から少し出ている。


「それ、しまう」


俺は押し込んだ。


ロクは頷いた。


借りる話をしに来て、荷運びの話が決まった。


だが今度は、舟を出してくれる人と、行く岸が決まっている。


俺は帰ったら伝えることを、頭の中で順に並べた。


*


出る前に、水をもらった。


ハセはロクと、荷を載せる順番を話していた。


俺は器を返しに、低い屋根の下へ入った。


そこで、目が合った。


土の顔だった。


木の板の上に、仰向けに置かれている。


目には細い隙間があり、口が少し開いていた。


頬の片方だけ、まだ表面が荒い。


口の右端が、左より少し上がっていた。


俺は器を持ったまま止まった。


そばに座る女が顔を上げた。


俺の視線をたどる。


「ああ」


短く声を出し、土の顔を見る。


俺は自分の頬を指した。


次に、それを指す。


女は俺の器を受け取り、脇へ置いた。


それから濡らした指で、荒いほうの頬をそっと撫でた。


指先に、柔らかい土がつく。


まだ、焼いていない。


俺は少し離れてしゃがんだ。


「これ、誰?」


女が自分の胸を指した。


「ミオ」


俺は慌てて自分の胸を指す。


「サエ」


ミオが頷く。


まず、お互いの名を知らなかった。


俺は改めて土の顔を示した。


「ミオ、作る?」


彼女が頷いた。


口の右端へ、小さな木片を当てる。


少し削り、離して見る。


俺も、自分の口元へ指を当てた。


「ここ、違う」


ミオがこちらを見る。


それから、俺の指と土の顔を見比べた。


直すのかと思った。


だが彼女は、上がった口の端を指で守るように押さえ、頬のほうを削り始めた。


わざと、この形にしている。


*


外からハセが呼んだ。


ミオは板の下へ手を入れ、屋根のさらに奥へ移した。


土の顔が、日陰に収まる。


俺は立ち上がった。


「また、来る」


言うと、彼女は俺を見上げた。


頷いてから、土の顔を指した。


「ユラ」


「ユラ?」


ミオがもう一度言う。


それから、屋根の外へ、水の先を指した。


その人へ渡すのか。


その人の顔なのか。


俺が尋ねる前に、ハセがもう一度呼んだ。


俺は屋根を出た。


岸では、ハセが舟を押さえて待っていた。


ロクが明後日の空を指した。


俺も頷いた。


舟を借りられるかは、まだ分からない。


俺は屋根を振り返った。


ミオが板へ屈み、木片を動かしていた。


右の口元が少し上がった、土の顔。


ユラという人に会えば、あの形の理由が分かるのだろうか。


お読みいただき、ありがとうございます。

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