第118話 戻ってきた話
ノエが振り返った時、子どもは手を上げなかった。
イナの指を握り、舟を見ていた。
俺は隣で、片手を上げかけて下ろした。
ノエが何か言う。
子どもは答えない。
ハセは櫂を水へ入れず、待っていた。
ノエが舟の縁へ手を置く。
「戻る。ここ」
岸を指す。
子どもがようやく頷いた。
小さな櫂を持ち上げる。
ノエも手を上げた。
舟が離れる。
俺はハセの荷を運ぶのを手伝った手を、腰の布で拭いた。
籠は二つ。結んだ獣皮の包みが一つ。
ノエはその間に腰を下ろしている。
昨日より狭そうだった。ノエは足元の包みを確かめ、ハセへ何か尋ねていた。
岸の曲がり角で、こちらを見た。
今度は俺も手を振った。
舟が見えなくなるまで、子どもはイナの手を握っていた。
*
集落へ戻ると、子どもはすぐ木を探し始めた。
昨日の約束を、忘れてはいなかった。
イナが乾いた木片を二つ選ぶ。
一つは細長い。
もう一つは少し幅があって、片側が欠けていた。
子どもは長いほうを取った。
俺へ見せる。
「舟」
「うん。長いな」
もう一つを俺へ押してよこした。
俺は欠けた端を見た。
ずいぶん公平な分け方だ。
イナが俺の顔を見て笑った。
彼女は子どもの木の先を、石刃で少しずつ落としていく。
俺は自分の木の、指に刺さりそうなところを削った。
子どもは待てず、何度も手を出した。
イナに止められる。
そのたびに、川のほうを見た。
俺も一度だけ見た。
まだ、朝だった。
*
水へ浮かべたのは、日が高くなる前だった。
集落の脇に残っていた、浅い水溜まりを使った。
子どもの舟は、先が尖っている。
俺の舟は、最後まで木片に近かった。
そっと置く。
二つとも浮いた。
子どもが自分の舟を押す。
水溜まりの端へぶつかり、横を向いた。
子どもは細い枝を取り、自分の舟の後ろから水をかいた。
なるほど。
俺も枝を取った。
強くかく。
水が跳ね、俺の舟がひっくり返った。
子どもが声を上げた。
イナが顔をそらす。
肩が揺れている。
「舟が、悪い」
俺が言うと、彼女は首を振った。
俺の手を指す。
そこまで説明しなくても、分かっている。
*
遊びを終えると、イナは道具を片づけ、いつもの仕事へ戻った。
子どももそばに座る。
小さな舟へ、葉を一枚載せた。
落とす。
もう一度載せる。
俺は頼まれていた薪を、すぐ隣の家へ運んだ。
戻ると、さっきの場所に子どもがいない。
足が止まる。
イナが顔を上げ、自分の後ろを指した。
子どもは家の入口でしゃがみ、犬に舟を見せていた。
犬は匂いを嗅ぎ、顔をそむけた。
俺は息を吐いた。
イナが俺を見ていた。
「見てる」
イナは子どもを指し、俺へ頷いた。
「よく、動く」
「サエも」
俺は彼女を見る。
イナは薪を置く場所へ目を戻した。
聞き返そうか迷った。
そのうちに、彼女の口元が緩んだ。
俺は薪を下ろし、隣へ腰を下ろした。
*
呼ばれた子どもが戻り、欠けた舟を俺の膝へ置いた。
イナが舟を持ち上げた。
水を吸って、端の色が濃くなっている。
指で撫でてから、俺へ返した。
「明日、また乗る?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えた。
「明日、魚、干す」
「うん」
「そのあと、聞く」
ハセに、ということらしい。
俺は頷いた。
彼女は手元の道具をまとめ直した。
「行く前、すること、ある」
「うん。俺も、手伝う」
イナが俺を見る。
「魚?」
「できるところ」
少し間を置いて、彼女が笑った。
「運ぶ」
「それなら」
俺は頷いた。
遠い旅の話をしていたはずなのに、明日の仕事が決まった。
だが、イナはそのあと、俺の膝の舟へ指を置いた。
「次、乗る。もう少し、先」
目が合った。
俺は頷いた。
濡れた舟を、日の当たる石へ置く。
明日は先に、魚を運ぶ。
*
昼の食事が終わるころ、子どもが川のほうを指した。
イナも空を見た。
「そろそろ、行く」
子どもは二つの舟を膝へ集めた。
俺の舟まで持っている。
俺は取り返さず、川へ行く支度をした。
岸へ着いた時、舟はまだ見えなかった。
水面の明るいところを、虫が横切る。
子どもが石へ座り、自分の舟を並べる。
イナはその隣へ腰を下ろした。
俺は荷を受け取れるよう、足元の枝を片づけた。
一度、川下を見る。
誰もいない。
もう一度見る。
同じだった。
「サエ」
イナに呼ばれた。
彼女が自分の隣を指す。
俺は座った。
子どもを挟んで、少し離れている。
俺たちはしばらく、水を見ていた。
*
先に聞こえたのは、ハセの声だった。
子どもが立ち上がる。
俺も立った。
イナの手が子どもの肩へ載る。
曲がり角から、舟の先が見えた。
ノエが乗っていた。
前の荷が一つ減り、代わりに細い木を束ねたものが載っている。
彼女がこちらを見つけた。
片手が上がる。
子どもは小さな舟を二つとも持ち上げた。
見えるだろうか。
そう思ったが、ノエは笑った。
舟が寄る。
俺は浅いところへ足を入れ、ハセの声に合わせて先を押さえた。
イナがノエから荷を受け取る。
二つ目の包みを渡してから、ノエは縁へ腰を移し、岸へ下りた。
俺は舟を押さえたまま、それを見届けた。
子どもが腰へ抱きつく。
彼女は膝を曲げ、片腕で抱き留めた。
イナが受け取った荷を、二人の脇へ置いた。
「戻った」
ノエが言う。
「うん」
イナが答えた。
俺も、隣で頷いた。
*
「どうだった?」
用意していた言葉は、ちゃんと出た。
ノエは俺を見て、少し息を吐いた。
「腕、重い」
俺は笑った。
彼女は肘を曲げてみせた。
子どもが、その腕へぶら下がろうとする。
「今、だめ」
ノエの声に、イナまで笑った。
ハセが舟から最後の包みを上げた。
ノエを指し、荷を持ち上げる真似をする。
何か言った。
運ぶのが早かった、と聞こえた。
俺がノエを見ると、彼女は少し顎を上げた。
「運ぶ、できる」
「うん」
「漕ぐ、まだ」
ハセが指を二本立てた。
短い説明が続く。
途中で二度、櫂を持たせたらしい。
ノエが手の位置を示す。
「曲がった」
「俺も」
「知ってる」
即座に返され、俺は口を閉じた。
ノエが笑う。
その顔を見て、ようやく肩の力が抜けた。
*
荷を運び終えてから、ノエはイナの隣へ座った。
子どもの舟を受け取り、裏返す。
俺の舟を見て、少し首を傾げた。
「サエ?」
欠けたほうを持ち上げ、俺へ聞く。
頷くと、彼女はそれを俺の前へ置いた。子どもも同じ場所を指す。
俺のものだという点だけは、皆すぐ分かるらしい。
ノエは二つを地面へ置き、今日通った水路を指で描き始めた。
白い鳥が岸を走ったこと。
荷を受け取る女の背に、小さな子が眠っていたこと。
ノエが籠を運ぶ間、その子が一度も目を覚まさなかったこと。
話の途中で、彼女も笑った。
俺は相槌を打ち、分からないところは聞いた。
だが、イナが尋ねたことのほうが多かった。
どこで揺れたか。
足は冷えたか。
帰りは疲れたか。
ノエはそのたびに、舟を動かし、手を振り、腕をさすった。
イナが、ノエの示した曲がり角を指でたどった。
俺も覗き込んだ。そこは、まだ通ったことのない岸だった。
*
やがてノエが、俺の舟を脇へ動かした。
イナの前に、子どもの舟を置く。
自分の指を一本、その横へ添える。
俺も指された。
「三人、行く?」
彼女が聞いた。
俺はイナを見た。
彼女はすぐに頷かなかった。
「まだ、決めない」
「うん。もし、行く」
ノエが三人を順に指した。
それから、川辺のハセへ目を向ける。
話を確かめに行った。
俺とイナも続く。
ハセは三人を見て、自分の舟を見る。
首を振った。
荷を載せれば、三人と漕ぐ人を一緒には運べない。
俺は舟の中を見た。
ウルの舟にも、俺の場所は一つしかなかった。
最初から、分かっていたはずのことだった。
「二つ?」
俺が聞くと、ハセは頷いた。
別の舟を使うか、もっと大きい舟。
どちらにしても、動かす人が要る。
ノエが俺を見た。
「ハセに、聞いた。向こうでも」
今日、荷を下ろした岸でも聞いてきたらしい。
「舟、持つ人。いる」
俺は顔を上げた。
ノエがハセへ確かめる。彼は頷いたが、俺が借りられるのかと聞くと、手を横へ振った。
まだ、頼んでいない。
持ち主は今日は別の場所へ出ていて、会えなかったという。
ハセはその人を知っていた。次に荷を運ぶ時、話はできるらしい。
俺は、ノエの描いた曲がり角を振り返った。
ハセが、俺の掌を指した。
次に、ノエの腕。
櫂を動かす仕草をしてから、遠いほうの岸を示す。
長く漕げるか、と聞かれた。
俺もノエも、すぐには頷けなかった。
俺は自分の手を開いた。
「俺も、漕ぐ。もっと」
ノエが隣で頷いた。
イナは二人を見て、それから舟へ目を向けた。
「次、私も、漕いでみる」
ハセが櫂を持ち上げた。
俺たちの手を順に見て、短く笑った。
俺はハセに、次にその岸へ行く時は教えてほしいと頼んだ。
彼は頷いた。
今度、ノエの描いた曲がり角の先で、舟を持つ人に会う。
借りられるかは分からない。それでも、誰に頼めばいいのかは分かった。
帰り道、ノエが俺の隣へ来た。
「どうだった?」
俺が尋ねたのと、同じ言葉だった。
「聞くの」
少し考えてから、俺は答えた。
「また、聞きたい」
ノエが笑った。
その手が、俺の手の甲へ一度触れた。
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