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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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117/119

第117話 岸から見ていた

イナの足が、舟から戻ってきた。


まだ、片方を入れただけだった。


傾いた舟を、持ち主の男が引き寄せる。


イナは縁をつかんだまま、足元を見ていた。


俺は口を開きかけた。


低く。


真ん中へ。


言われたことなら、覚えている。


だが、声を出す前に、男が縁へ腰を下ろしてみせた。


イナはその動きを見た。


今度は座り、片足ずつ中へ入れる。


舟の底へ腰が収まった。


俺も息を吐いた。


まだ誰も漕いでいないのに、見ているほうまで力が入っていた。


*


川下へ少し歩いたところに、岸のえぐれた場所があった。


外では水が白く波立っている。


ここでは、落ち葉がゆっくり回っていた。


舟の持ち主は、ハセと名乗った。


トワより少し年上に見える男だった。


先に水を見に来ていたらしく、俺たちが着いた時には、舟の中の水を掻き出していた。


トワがハセと話し、奥の木を指した。


今日は、あそこまで。


外の流れへは出ない。


ノエは子どもを、岸から離れた平たい石へ座らせた。


小さな櫂も、その横へ置く。


俺はイナの荷を受け取り、足元へ下ろした。


ハセが後ろへ乗る。


舟がもう一度揺れた。


イナの肩が上がった。


*


櫂が水へ入る。


岸との間に、細い水面ができた。


イナは舟の縁をつかみ、下を向いた。


ハセが何か言う。


頷く。


だが、指は動かない。


「イナ」


呼ぶと、顔が上がった。


俺は手を少し上げた。


彼女がこちらを見る。


ハセが櫂を止め、短く尋ねた。


戻るか。


その言葉は聞き取れた。


イナは岸を見た。


それから、奥の木へ目を向ける。


「そこ、まで」


ハセが頷いた。


舟がまた動き始めた。


奥の木の下には、岸から見えなかった根が水へ張り出していた。


イナが顔を向ける。


ハセが何か話した。


彼女は根を見てから、水面を見た。


縁をつかんでいた片方の手が、膝へ移った。


俺は、それを見ていた。


大した距離ではない。


声も届く。


それでも、戻ってくるまで落ち着かなかった。


「サエ」


ノエに呼ばれた。


彼女は俺の足元を指した。


イナの荷が、舟を寄せる場所に近かった。


俺は慌てて持ち上げ、後ろへ移す。


ノエが少し笑った。


俺も笑い返し、舟へ向き直った。


*


トワが舟を押さえた。


俺はその横へしゃがむ。


イナが立ちかけ、ハセの声で止まった。


縁へ座り直す。


俺は手を伸ばした。


彼女がつかむ。


片足が岸へ載る。


もう片方も。


まっすぐ立ったのを確かめ、俺は握る力を緩めた。


イナは手を離さなかった。


「……揺れる」


「うん」


彼女は舟を見た。


それから俺を見る。


「ずっと、これ?」


「うん。泊まる時、岸」


イナが口を閉じた。


俺の手へ、少し力が掛かる。


「最初、俺、もっと揺れた」


言うと、ようやく口元が動いた。


「今も?」


「今は、少し」


イナが笑った。


手が離れる。


掌に、彼女の指の感触が残った。


*


次はノエだった。


子どもへ何か話し、イナの隣へ座らせる。


イナが小さな櫂を拾い、子どもの膝へ戻した。


ノエはハセへ近づき、行く場所を確かめた。


奥の木より手前にある、白っぽい枝を指す。


「まず、そこ」


ハセが頷く。


ノエが俺を見た。


「怖い」


小さく言った。


「うん」


「でも、乗る」


彼女は舟へ向き直った。


イナの乗り方を見ていたからか、最初の足は迷わなかった。


だが、水へ出ると背中が固くなった。


膝へ置いた両手が動かない。


ハセが声をかける。


ノエは短く返事をした。


白い枝の前で、舟が止まる。


ハセが岸を指した。


ノエは岸を見たあと、奥の木を見た。


少し間があった。


「もう、そこ」


指が伸びる。


ハセは急がず、舟を進めた。


俺の横で、イナが息を吐いた。


「行った」


俺も頷いた。


*


ノエは戻ってくると、舟の底を一度見返した。


下りる時は、トワの手を借りた。


岸に立ち、両足を交互に踏み直す。


子どもが走りかけた。


イナの声で止まる。


ノエがこちらへ歩いてきてから、ようやく飛びついた。


彼女は抱き留め、少し笑った。


「水、近い」


俺へ言う。


「うん」


「木の下、見えた」


さっきまで舟がいた場所を指した。


俺には、その根はまだ見えない。


ノエは子どもへも話し始めた。


膝を曲げ、手で水の高さを示す。


子どもが同じようにしゃがんだ。


俺はその隣へ腰を下ろした。


今度は、聞く番だった。


*


ひと休みすると、ハセが二人に櫂を持たせた。


岸の上で、握る位置と引く向きを確かめる。


イナは手を直され、ノエは足の置き方を聞き返した。


俺は子どもと並び、少し離れて見ていた。


やがてイナが櫂を返してくる。


「また、乗る」


「海も?」


聞くと、彼女は舟を見た。


少し考え、首を振る。


「まだ、分からない」


俺は頷いた。


「もっと、乗ってから」


「うん」


昨日、行きたいと言った彼女が、今日も同じ答えを出すとは限らない。


俺は、次の日取りを聞くのをやめた。


ノエも戻ってきた。


「漕ぐの、覚えたい」


それから子どもの頭についた草を取り、指で丸めた。


「長く行くのは、まだ。帰って、話す」


自分の集落で、相談する相手も仕事もある。


俺は頷いた。


二人とも、今日の短い距離だけで遠い旅を決めるつもりはなかった。


*


舟を岸へ上げる時は、俺も手を出した。


ハセの声に合わせ、トワと先を引く。


イナが足元の枝をどけた。


ノエは子どもを離れたところへ連れていく。


舟が乾いた土へ載った。


手を離すと、ハセが俺の肩を軽く叩いた。


それから二人を呼び、川下と自分の荷を指した。


トワが聞き返す。


俺も隣へ寄った。


明日、ハセは川沿いの別の岸へ、交換する物を届けに行くという。


泊まりはしない。


戻りは昼を少し過ぎるころ。


水がよければ、一人乗せられる。


向こうでは荷を運んでもらいたい。


途中の静かな場所なら、櫂も少し使わせられる。


俺はノエを見た。


彼女はハセを見ていた。


指された川下を確かめ、戻る時をもう一度尋ねる。


イナも、途中に流れの速い場所があるのか聞いた。


ハセが答える。


トワが短く言葉を足した。


俺が海へ向かう前、二人から聞かれたことばかりだった。


*


「私、行きたい」


ノエが言った。


子どもが顔を上げる。


彼女はその手を握り直した。


「でも、待って。まだ、聞く」


ハセへそう言い、イナに向き直る。


二人の話は、速くて追いきれなかった。


子ども。


明日。


戻る。


俺が分かったのは、それくらいだった。


イナが子どもの前へしゃがむ。


集落のほうを示し、何か話した。


子どもがノエを見る。


ノエが頷いた。


「朝、行く。昼、戻る」


子どもはまたイナを見た。


小さな櫂を持ち上げる。


イナがそれを指し、手で地面を平らにならす真似をした。


子どもの顔が少し変わった。


何か尋ねる。


イナが頷く。


「何、する?」


俺が聞くと、イナはこちらを見た。


「小さい舟、作る。木で」


子どもが、俺にも頷いてみせた。


もう話がついたらしい。


ノエはそれでも、すぐにハセへ返事をしなかった。


子どもの顔を覗き込み、もう一度確かめる。


小さな手が、イナの腕へ伸びた。


ノエが息を吐いた。


「頼む」


イナへ言う。


「うん」


イナは子どもの手を取った。


ノエの指が、一度その手の甲へ触れた。


それからハセへ向き直る。


「明日、行く。荷、運ぶ」


ハセは頷き、空を指した。


水と風を見てから。


ノエも頷いた。


*


集落へ戻る道で、子どもが俺を追い越した。


イナの隣へ行き、舟の形を両手で作る。


大きく広げる。


イナが、その間を少し狭めた。


子どもは不満そうに広げ直す。


「自分で、持つ」


彼女が言うと、ようやく小さくなった。


俺は笑った。


昨日、櫂を貸してくれた時のことを思い出した。


ノエが隣へ来る。


「イナ、明日、乗らない?」


聞くと、彼女は首を振った。


「私、聞いた。イナ、いいと言った」


俺は頷いた。


自分の気になっていたことを、二人はもう確かめていた。


ノエが続ける。


「戻ったら、話す」


「うん」


俺が返すと、彼女は前のイナを見た。


「二人に」


イナが振り返った。


「聞く」


それから、子どもに引かれて前を向く。


ノエは少し笑った。


明日、彼女は舟で行く。


俺とイナは、ここで待つ。


魚は何が取れるのか。


岸はどうなっているのか。


聞きたいことなら、いくつも浮かんだ。


けれど、帰ってきた顔を見た時、俺はきっと、それより先に声をかける。


「どうだった?」


今は、それを聞くのが楽しみだった。

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