第117話 岸から見ていた
イナの足が、舟から戻ってきた。
まだ、片方を入れただけだった。
傾いた舟を、持ち主の男が引き寄せる。
イナは縁をつかんだまま、足元を見ていた。
俺は口を開きかけた。
低く。
真ん中へ。
言われたことなら、覚えている。
だが、声を出す前に、男が縁へ腰を下ろしてみせた。
イナはその動きを見た。
今度は座り、片足ずつ中へ入れる。
舟の底へ腰が収まった。
俺も息を吐いた。
まだ誰も漕いでいないのに、見ているほうまで力が入っていた。
*
川下へ少し歩いたところに、岸のえぐれた場所があった。
外では水が白く波立っている。
ここでは、落ち葉がゆっくり回っていた。
舟の持ち主は、ハセと名乗った。
トワより少し年上に見える男だった。
先に水を見に来ていたらしく、俺たちが着いた時には、舟の中の水を掻き出していた。
トワがハセと話し、奥の木を指した。
今日は、あそこまで。
外の流れへは出ない。
ノエは子どもを、岸から離れた平たい石へ座らせた。
小さな櫂も、その横へ置く。
俺はイナの荷を受け取り、足元へ下ろした。
ハセが後ろへ乗る。
舟がもう一度揺れた。
イナの肩が上がった。
*
櫂が水へ入る。
岸との間に、細い水面ができた。
イナは舟の縁をつかみ、下を向いた。
ハセが何か言う。
頷く。
だが、指は動かない。
「イナ」
呼ぶと、顔が上がった。
俺は手を少し上げた。
彼女がこちらを見る。
ハセが櫂を止め、短く尋ねた。
戻るか。
その言葉は聞き取れた。
イナは岸を見た。
それから、奥の木へ目を向ける。
「そこ、まで」
ハセが頷いた。
舟がまた動き始めた。
奥の木の下には、岸から見えなかった根が水へ張り出していた。
イナが顔を向ける。
ハセが何か話した。
彼女は根を見てから、水面を見た。
縁をつかんでいた片方の手が、膝へ移った。
俺は、それを見ていた。
大した距離ではない。
声も届く。
それでも、戻ってくるまで落ち着かなかった。
「サエ」
ノエに呼ばれた。
彼女は俺の足元を指した。
イナの荷が、舟を寄せる場所に近かった。
俺は慌てて持ち上げ、後ろへ移す。
ノエが少し笑った。
俺も笑い返し、舟へ向き直った。
*
トワが舟を押さえた。
俺はその横へしゃがむ。
イナが立ちかけ、ハセの声で止まった。
縁へ座り直す。
俺は手を伸ばした。
彼女がつかむ。
片足が岸へ載る。
もう片方も。
まっすぐ立ったのを確かめ、俺は握る力を緩めた。
イナは手を離さなかった。
「……揺れる」
「うん」
彼女は舟を見た。
それから俺を見る。
「ずっと、これ?」
「うん。泊まる時、岸」
イナが口を閉じた。
俺の手へ、少し力が掛かる。
「最初、俺、もっと揺れた」
言うと、ようやく口元が動いた。
「今も?」
「今は、少し」
イナが笑った。
手が離れる。
掌に、彼女の指の感触が残った。
*
次はノエだった。
子どもへ何か話し、イナの隣へ座らせる。
イナが小さな櫂を拾い、子どもの膝へ戻した。
ノエはハセへ近づき、行く場所を確かめた。
奥の木より手前にある、白っぽい枝を指す。
「まず、そこ」
ハセが頷く。
ノエが俺を見た。
「怖い」
小さく言った。
「うん」
「でも、乗る」
彼女は舟へ向き直った。
イナの乗り方を見ていたからか、最初の足は迷わなかった。
だが、水へ出ると背中が固くなった。
膝へ置いた両手が動かない。
ハセが声をかける。
ノエは短く返事をした。
白い枝の前で、舟が止まる。
ハセが岸を指した。
ノエは岸を見たあと、奥の木を見た。
少し間があった。
「もう、そこ」
指が伸びる。
ハセは急がず、舟を進めた。
俺の横で、イナが息を吐いた。
「行った」
俺も頷いた。
*
ノエは戻ってくると、舟の底を一度見返した。
下りる時は、トワの手を借りた。
岸に立ち、両足を交互に踏み直す。
子どもが走りかけた。
イナの声で止まる。
ノエがこちらへ歩いてきてから、ようやく飛びついた。
彼女は抱き留め、少し笑った。
「水、近い」
俺へ言う。
「うん」
「木の下、見えた」
さっきまで舟がいた場所を指した。
俺には、その根はまだ見えない。
ノエは子どもへも話し始めた。
膝を曲げ、手で水の高さを示す。
子どもが同じようにしゃがんだ。
俺はその隣へ腰を下ろした。
今度は、聞く番だった。
*
ひと休みすると、ハセが二人に櫂を持たせた。
岸の上で、握る位置と引く向きを確かめる。
イナは手を直され、ノエは足の置き方を聞き返した。
俺は子どもと並び、少し離れて見ていた。
やがてイナが櫂を返してくる。
「また、乗る」
「海も?」
聞くと、彼女は舟を見た。
少し考え、首を振る。
「まだ、分からない」
俺は頷いた。
「もっと、乗ってから」
「うん」
昨日、行きたいと言った彼女が、今日も同じ答えを出すとは限らない。
俺は、次の日取りを聞くのをやめた。
ノエも戻ってきた。
「漕ぐの、覚えたい」
それから子どもの頭についた草を取り、指で丸めた。
「長く行くのは、まだ。帰って、話す」
自分の集落で、相談する相手も仕事もある。
俺は頷いた。
二人とも、今日の短い距離だけで遠い旅を決めるつもりはなかった。
*
舟を岸へ上げる時は、俺も手を出した。
ハセの声に合わせ、トワと先を引く。
イナが足元の枝をどけた。
ノエは子どもを離れたところへ連れていく。
舟が乾いた土へ載った。
手を離すと、ハセが俺の肩を軽く叩いた。
それから二人を呼び、川下と自分の荷を指した。
トワが聞き返す。
俺も隣へ寄った。
明日、ハセは川沿いの別の岸へ、交換する物を届けに行くという。
泊まりはしない。
戻りは昼を少し過ぎるころ。
水がよければ、一人乗せられる。
向こうでは荷を運んでもらいたい。
途中の静かな場所なら、櫂も少し使わせられる。
俺はノエを見た。
彼女はハセを見ていた。
指された川下を確かめ、戻る時をもう一度尋ねる。
イナも、途中に流れの速い場所があるのか聞いた。
ハセが答える。
トワが短く言葉を足した。
俺が海へ向かう前、二人から聞かれたことばかりだった。
*
「私、行きたい」
ノエが言った。
子どもが顔を上げる。
彼女はその手を握り直した。
「でも、待って。まだ、聞く」
ハセへそう言い、イナに向き直る。
二人の話は、速くて追いきれなかった。
子ども。
明日。
戻る。
俺が分かったのは、それくらいだった。
イナが子どもの前へしゃがむ。
集落のほうを示し、何か話した。
子どもがノエを見る。
ノエが頷いた。
「朝、行く。昼、戻る」
子どもはまたイナを見た。
小さな櫂を持ち上げる。
イナがそれを指し、手で地面を平らにならす真似をした。
子どもの顔が少し変わった。
何か尋ねる。
イナが頷く。
「何、する?」
俺が聞くと、イナはこちらを見た。
「小さい舟、作る。木で」
子どもが、俺にも頷いてみせた。
もう話がついたらしい。
ノエはそれでも、すぐにハセへ返事をしなかった。
子どもの顔を覗き込み、もう一度確かめる。
小さな手が、イナの腕へ伸びた。
ノエが息を吐いた。
「頼む」
イナへ言う。
「うん」
イナは子どもの手を取った。
ノエの指が、一度その手の甲へ触れた。
それからハセへ向き直る。
「明日、行く。荷、運ぶ」
ハセは頷き、空を指した。
水と風を見てから。
ノエも頷いた。
*
集落へ戻る道で、子どもが俺を追い越した。
イナの隣へ行き、舟の形を両手で作る。
大きく広げる。
イナが、その間を少し狭めた。
子どもは不満そうに広げ直す。
「自分で、持つ」
彼女が言うと、ようやく小さくなった。
俺は笑った。
昨日、櫂を貸してくれた時のことを思い出した。
ノエが隣へ来る。
「イナ、明日、乗らない?」
聞くと、彼女は首を振った。
「私、聞いた。イナ、いいと言った」
俺は頷いた。
自分の気になっていたことを、二人はもう確かめていた。
ノエが続ける。
「戻ったら、話す」
「うん」
俺が返すと、彼女は前のイナを見た。
「二人に」
イナが振り返った。
「聞く」
それから、子どもに引かれて前を向く。
ノエは少し笑った。
明日、彼女は舟で行く。
俺とイナは、ここで待つ。
魚は何が取れるのか。
岸はどうなっているのか。
聞きたいことなら、いくつも浮かんだ。
けれど、帰ってきた顔を見た時、俺はきっと、それより先に声をかける。
「どうだった?」
今は、それを聞くのが楽しみだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




