第116話 私も、見たい
子どもが櫂を持ち替えたのは、三度目だった。
右手から、左手へ。
しばらく歩いて、また右手へ。
俺は見ていないふりをしていた。
自分で持つと言ったものだ。
小さな櫂の先が、低い枝に当たる。
子どもは立ち止まり、枝を睨んだ。
枝に責任はないと思う。
やがて、横から俺の手を引いた。
櫂を差し出す。
「持つ?」
首を振られた。
子どもは俺を指し、櫂を指した。
何か言う。
もう一度聞いて、分かった。
使っていい。
貸してくれるらしい。
「……ありがとう」
受け取ると、子どもは軽くなった両手を振って歩き出した。
前を行くノエの肩が、小さく揺れた。
振り返りはしなかった。
*
集落へ着くころには、俺も口数が少なくなっていた。
昨日まで舟に座っていた身体に、森の坂がよく効く。
ノエは最後の登りで子どもと手をつないだ。
俺は二人を待ち、荷を背負い直す。
木々の向こうから、石を打つ音がした。
いつもの煙が見える。
足を速めたところで、ノエが俺を見た。
俺は少し速度を落とした。
三人で、木々の間を抜けた。
最初に気づいたのは、オキだった。
手を止める。
俺の顔を見る。
次に、手の中の小さな櫂を見た。
何か言いかけた口元が、少し曲がる。
「違う。これ、借りた」
俺が子どもを指すと、オキは余計に笑った。
子どもは櫂を取り戻し、胸の前で持った。
そこへ、イナが来た。
途中まで速く歩き、俺の前で止まる。
目が合った。
「戻った」
言うと、彼女は俺の腕に触れた。
布の上から一度つかみ、離す。
すぐには何も言わなかった。
「トワ、聞いた」
ようやく、それだけ言った。
「うん。舟、行った。昨日、戻った」
イナが頷く。
俺の肩の向こうへ視線が動いた。
ノエが一歩出る。
「イナ」
呼ばれて、彼女もノエの名を返した。
短い間があった。
俺は、肩に掛けていた荷を下ろした。
何か言ったほうがいい気がして、何を言えばいいのか分からなかった。
子どもがイナへ櫂を見せた。
彼女はしゃがみ、先の平たいところへ触れる。
次に俺を見上げた。
「これで、来た?」
「歩いて来た」
イナが笑った。
ノエも笑う。
俺だけが少し遅れて笑った。
*
荷を置くと、人が寄ってきた。
トワもいた。
俺の顔を見るなり、小さく頷く。
「戻ったか」
「うん。ウル、助けてくれた」
彼はもう一度頷き、ノエへ声をかけた。
二人が話す横で、オキが俺の荷を覗いた。
「骨?」
俺は首を振った。
今回行った先では、彼の知りたがっていた道具を確かめていない。
知っているふりはできなかった。
「見てない。でも、人、会った。もっと先、水、広い」
覚えた音を口にすると、近くにいたカヅが顔を上げた。
俺は両手を広げた。
向こうの岸が見えないところ。
そこから来た、セナという男。
途中で聞き返され、同じことを別の言い方で伝える。
オキは少し考えたあと、魚を刺す仕草をした。
その手を開き、長さを示す。
俺は笑って首を振った。
「魚の大きさ、聞いてない」
カヅは舟を指すような形を作り、ノエに何か尋ねた。
彼女が俺を見る。
舟を上げる岸があるのか、という問いらしかった。
「そこも、まだ」
オキが何か言った。
トワの口元が動いた。
たぶん、聞いてくることを随分忘れた男になっている。
だが、トワは俺の見取りを手に取り、新しい丸のところで指を止めた。
「ここ、行った?」
「行った。二つ、寝た」
来た道を示す。
トワは線をたどり、丸をもう一度押さえた。
その先については聞かなかった。
俺も、描き足さなかった。
*
人が仕事へ戻ると、イナが荷の留め具を持ち上げた。
彼女がつけてくれた木の留め具だ。
紐の擦れたところを確かめる。
「落ちなかった」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「うん」
隣でノエが獣皮を広げ、子どもを座らせた。
自分の籠から、包んできた食べ物を出す。
イナが水を持って戻る。
俺が器へ手を伸ばすより先に、彼女はノエへ渡した。
ノエが礼を言った。
子どもが先に飲みたがり、二人の間へ膝を入れる。
イナが器の下へ手を添えた。
俺はその横に腰を下ろした。
肩の荷を下ろしたあとも、少し残っていた緊張が、ようやく抜けた。
*
食べながら、もう一度セナの話をした。
貝を取る岸が、水の下に沈んだり、現れたりすること。
出る時を間違えると、水路を進むのが難しいらしいこと。
俺も全部分かったわけではない。
分からなかったところは、そのまま言った。
イナは食べる手を止めて聞いていた。
ノエは、昨日俺が描いた丸を指した。
「ここ、また会う」
俺は頷く。
「ナナに、言う。セナ、来る」
名前と顔と場所を、もう一度つなぐ。
イナがノエを見た。
「行きたい?」
ノエは頷いた。
「見たい」
それから、子どもへ目を向けた。
その先は、少し長い話になった。
俺には聞き取れない言葉もある。
イナが尋ね、ノエが答える。
子どもの荷を指す。
家のほうを示す。
すぐに遠くへ連れていくと決めているわけではないことは、俺にも分かった。
ノエは自分の胸へ手を置いた。
「私、行きたい」
もう一度言った。
イナはしばらく黙っていた。
俺は器を膝へ置いた。
今度は何日、離れるのか。
そう聞かれたら、まだ答えられない。
セナの岸まで、何日かかるのか。
帰りも同じように戻れるのか。
聞いておくことは、やはり足りなかった。
イナが口を開いた。
「ノエ、漕ぐ?」
俺は顔を上げた。
*
ノエが首を振った。
舟に乗ったことはある。
前に聞いた、子どものころの一度だけだ。
だが、漕ぐことはできないらしい。
イナは手元の器を地面へ置いた。
自分を指す。
「私も、できない」
二人が俺を見た。
俺は、ほんの少し背を伸ばした。
「少し、できる」
本当だ。
帰りには、ウルも助かったと言ってくれた。
子どもが櫂を取った。
両足を広げて座り、漕ぐ。
右へ傾く。
左へ傾く。
それから、俺を指した。
「そんなには揺れてない」
思わず日本語で言った。
イナが俺を見る。
俺は、知っている言葉で言い直した。
「今、もっといい」
ノエが笑った。
「ウル、言った。助かった」
俺はノエを見た。
彼女は子どもの櫂を押さえ、もう一度頷いた。
イナの視線が俺の掌へ下がる。
俺は手を開いた。
「少しずつ」
言うと、イナが赤くなったところの脇へ、指先で触れた。
そこは痛くなかった。
*
「まず、乗りたい」
イナが言った。
俺は頷きかけた。
ノエも、彼女を見る。
「遠く、まだ。ここ、近く」
イナは両手で短い距離を示した。
ノエが頷いた。
海へ行く舟を、今決めるのではない。
まず、自分たちが舟の上でどうなるのか知りたい。
俺がしてきたことを、二人も試したいのだ。
「聞く。トワに」
俺が言うと、イナは立ち上がった。
ノエも、子どもの膝から櫂を外して立つ。
「今?」
二人がこちらを見た。
俺も、器を置いた。
*
トワは川の近くで、木を削っていた。
俺たちを見る。
子どもの櫂を見て、少し眉を上げた。
「舟。近くで、乗りたい」
俺が言うと、彼はノエとイナを順に見た。
「二人?」
「うん。俺も」
トワが、俺を見た。
その顔で、何かが違うと分かった。
俺は説明を足した。
ウルの舟ではない。
近くで、短く。
彼は頷いたが、すぐに承知はしなかった。
自分の持っていた木を置き、指を折る。
舟を動かす人。
乗る人。
もう一度、二人を見る。
「サエ、まだ、教えない」
「……うん」
否定できなかった。
俺は漕げるようになり始めたばかりだ。
人を乗せて、揺れた舟を戻せるわけではない。
トワは川下を指した。
知っている者の舟があるという。
使えるかは、その人に聞く。
水も見てから。
俺は頷いた。
イナが何か尋ねた。
トワが答え、ノエも短く聞き返す。
俺だけが話を聞きに来たはずなのに、気づけば二人も、いつ、どこへ行けばいいのか確かめていた。
やがてトワが立ち上がった。
まず、持ち主へ聞いてくるらしい。
俺も立とうとすると、肩を押された。
「サエ。今日は、休む」
子どもが俺を見た。
俺は小さな櫂を指した。
「それも、明日」
子どもが不満そうな声を出した。
イナが笑い、ノエも笑った。
*
トワが戻ってきたのは、日が傾いてからだった。
明日の朝、水辺へ来いという。
舟を貸してもらえるかと思ったが、そうではなかった。
持ち主も来る。
水を見て、岸の近くで、一人ずつ試す。
風が強ければ、やめる。
俺はイナとノエに伝えようとして、口を閉じた。
二人とも、隣で聞いていた。
「分かった」
先に答えたのは、イナだった。
ノエも頷いた。
子どもが、自分の櫂を持ち上げる。
ノエが何か言った。
子どもは少し迷い、櫂を膝へ下ろした。
明日は岸から見る。
それで話がついたらしい。
トワが俺へ向き直った。
「サエも」
「うん」
「岸で、待つ」
俺は一度、二人を見た。
イナは口元を押さえていた。
ノエは、もう笑っていた。
俺は膝へ手を置いた。
昨日まで、俺の話を聞いていた二人が、明日は舟へ乗る。
俺は岸で、戻ってくるのを待つ。
見せたいものは、確かにあった。
けれど二人はもう、自分の目で見に行く支度を始めていた。
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