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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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116/120

第116話 私も、見たい

子どもが櫂を持ち替えたのは、三度目だった。


右手から、左手へ。


しばらく歩いて、また右手へ。


俺は見ていないふりをしていた。


自分で持つと言ったものだ。


小さな櫂の先が、低い枝に当たる。


子どもは立ち止まり、枝を睨んだ。


枝に責任はないと思う。


やがて、横から俺の手を引いた。


櫂を差し出す。


「持つ?」


首を振られた。


子どもは俺を指し、櫂を指した。


何か言う。


もう一度聞いて、分かった。


使っていい。


貸してくれるらしい。


「……ありがとう」


受け取ると、子どもは軽くなった両手を振って歩き出した。


前を行くノエの肩が、小さく揺れた。


振り返りはしなかった。


*


集落へ着くころには、俺も口数が少なくなっていた。


昨日まで舟に座っていた身体に、森の坂がよく効く。


ノエは最後の登りで子どもと手をつないだ。


俺は二人を待ち、荷を背負い直す。


木々の向こうから、石を打つ音がした。


いつもの煙が見える。


足を速めたところで、ノエが俺を見た。


俺は少し速度を落とした。


三人で、木々の間を抜けた。


最初に気づいたのは、オキだった。


手を止める。


俺の顔を見る。


次に、手の中の小さな櫂を見た。


何か言いかけた口元が、少し曲がる。


「違う。これ、借りた」


俺が子どもを指すと、オキは余計に笑った。


子どもは櫂を取り戻し、胸の前で持った。


そこへ、イナが来た。


途中まで速く歩き、俺の前で止まる。


目が合った。


「戻った」


言うと、彼女は俺の腕に触れた。


布の上から一度つかみ、離す。


すぐには何も言わなかった。


「トワ、聞いた」


ようやく、それだけ言った。


「うん。舟、行った。昨日、戻った」


イナが頷く。


俺の肩の向こうへ視線が動いた。


ノエが一歩出る。


「イナ」


呼ばれて、彼女もノエの名を返した。


短い間があった。


俺は、肩に掛けていた荷を下ろした。


何か言ったほうがいい気がして、何を言えばいいのか分からなかった。


子どもがイナへ櫂を見せた。


彼女はしゃがみ、先の平たいところへ触れる。


次に俺を見上げた。


「これで、来た?」


「歩いて来た」


イナが笑った。


ノエも笑う。


俺だけが少し遅れて笑った。


*


荷を置くと、人が寄ってきた。


トワもいた。


俺の顔を見るなり、小さく頷く。


「戻ったか」


「うん。ウル、助けてくれた」


彼はもう一度頷き、ノエへ声をかけた。


二人が話す横で、オキが俺の荷を覗いた。


「骨?」


俺は首を振った。


今回行った先では、彼の知りたがっていた道具を確かめていない。


知っているふりはできなかった。


「見てない。でも、人、会った。もっと先、水、広い」


覚えた音を口にすると、近くにいたカヅが顔を上げた。


俺は両手を広げた。


向こうの岸が見えないところ。


そこから来た、セナという男。


途中で聞き返され、同じことを別の言い方で伝える。


オキは少し考えたあと、魚を刺す仕草をした。


その手を開き、長さを示す。


俺は笑って首を振った。


「魚の大きさ、聞いてない」


カヅは舟を指すような形を作り、ノエに何か尋ねた。


彼女が俺を見る。


舟を上げる岸があるのか、という問いらしかった。


「そこも、まだ」


オキが何か言った。


トワの口元が動いた。


たぶん、聞いてくることを随分忘れた男になっている。


だが、トワは俺の見取りを手に取り、新しい丸のところで指を止めた。


「ここ、行った?」


「行った。二つ、寝た」


来た道を示す。


トワは線をたどり、丸をもう一度押さえた。


その先については聞かなかった。


俺も、描き足さなかった。


*


人が仕事へ戻ると、イナが荷の留め具を持ち上げた。


彼女がつけてくれた木の留め具だ。


紐の擦れたところを確かめる。


「落ちなかった」


俺が言うと、彼女は頷いた。


「うん」


隣でノエが獣皮を広げ、子どもを座らせた。


自分の籠から、包んできた食べ物を出す。


イナが水を持って戻る。


俺が器へ手を伸ばすより先に、彼女はノエへ渡した。


ノエが礼を言った。


子どもが先に飲みたがり、二人の間へ膝を入れる。


イナが器の下へ手を添えた。


俺はその横に腰を下ろした。


肩の荷を下ろしたあとも、少し残っていた緊張が、ようやく抜けた。


*


食べながら、もう一度セナの話をした。


貝を取る岸が、水の下に沈んだり、現れたりすること。


出る時を間違えると、水路を進むのが難しいらしいこと。


俺も全部分かったわけではない。


分からなかったところは、そのまま言った。


イナは食べる手を止めて聞いていた。


ノエは、昨日俺が描いた丸を指した。


「ここ、また会う」


俺は頷く。


「ナナに、言う。セナ、来る」


名前と顔と場所を、もう一度つなぐ。


イナがノエを見た。


「行きたい?」


ノエは頷いた。


「見たい」


それから、子どもへ目を向けた。


その先は、少し長い話になった。


俺には聞き取れない言葉もある。


イナが尋ね、ノエが答える。


子どもの荷を指す。


家のほうを示す。


すぐに遠くへ連れていくと決めているわけではないことは、俺にも分かった。


ノエは自分の胸へ手を置いた。


「私、行きたい」


もう一度言った。


イナはしばらく黙っていた。


俺は器を膝へ置いた。


今度は何日、離れるのか。


そう聞かれたら、まだ答えられない。


セナの岸まで、何日かかるのか。


帰りも同じように戻れるのか。


聞いておくことは、やはり足りなかった。


イナが口を開いた。


「ノエ、漕ぐ?」


俺は顔を上げた。


*


ノエが首を振った。


舟に乗ったことはある。


前に聞いた、子どものころの一度だけだ。


だが、漕ぐことはできないらしい。


イナは手元の器を地面へ置いた。


自分を指す。


「私も、できない」


二人が俺を見た。


俺は、ほんの少し背を伸ばした。


「少し、できる」


本当だ。


帰りには、ウルも助かったと言ってくれた。


子どもが櫂を取った。


両足を広げて座り、漕ぐ。


右へ傾く。


左へ傾く。


それから、俺を指した。


「そんなには揺れてない」


思わず日本語で言った。


イナが俺を見る。


俺は、知っている言葉で言い直した。


「今、もっといい」


ノエが笑った。


「ウル、言った。助かった」


俺はノエを見た。


彼女は子どもの櫂を押さえ、もう一度頷いた。


イナの視線が俺の掌へ下がる。


俺は手を開いた。


「少しずつ」


言うと、イナが赤くなったところの脇へ、指先で触れた。


そこは痛くなかった。


*


「まず、乗りたい」


イナが言った。


俺は頷きかけた。


ノエも、彼女を見る。


「遠く、まだ。ここ、近く」


イナは両手で短い距離を示した。


ノエが頷いた。


海へ行く舟を、今決めるのではない。


まず、自分たちが舟の上でどうなるのか知りたい。


俺がしてきたことを、二人も試したいのだ。


「聞く。トワに」


俺が言うと、イナは立ち上がった。


ノエも、子どもの膝から櫂を外して立つ。


「今?」


二人がこちらを見た。


俺も、器を置いた。


*


トワは川の近くで、木を削っていた。


俺たちを見る。


子どもの櫂を見て、少し眉を上げた。


「舟。近くで、乗りたい」


俺が言うと、彼はノエとイナを順に見た。


「二人?」


「うん。俺も」


トワが、俺を見た。


その顔で、何かが違うと分かった。


俺は説明を足した。


ウルの舟ではない。


近くで、短く。


彼は頷いたが、すぐに承知はしなかった。


自分の持っていた木を置き、指を折る。


舟を動かす人。


乗る人。


もう一度、二人を見る。


「サエ、まだ、教えない」


「……うん」


否定できなかった。


俺は漕げるようになり始めたばかりだ。


人を乗せて、揺れた舟を戻せるわけではない。


トワは川下を指した。


知っている者の舟があるという。


使えるかは、その人に聞く。


水も見てから。


俺は頷いた。


イナが何か尋ねた。


トワが答え、ノエも短く聞き返す。


俺だけが話を聞きに来たはずなのに、気づけば二人も、いつ、どこへ行けばいいのか確かめていた。


やがてトワが立ち上がった。


まず、持ち主へ聞いてくるらしい。


俺も立とうとすると、肩を押された。


「サエ。今日は、休む」


子どもが俺を見た。


俺は小さな櫂を指した。


「それも、明日」


子どもが不満そうな声を出した。


イナが笑い、ノエも笑った。


*


トワが戻ってきたのは、日が傾いてからだった。


明日の朝、水辺へ来いという。


舟を貸してもらえるかと思ったが、そうではなかった。


持ち主も来る。


水を見て、岸の近くで、一人ずつ試す。


風が強ければ、やめる。


俺はイナとノエに伝えようとして、口を閉じた。


二人とも、隣で聞いていた。


「分かった」


先に答えたのは、イナだった。


ノエも頷いた。


子どもが、自分の櫂を持ち上げる。


ノエが何か言った。


子どもは少し迷い、櫂を膝へ下ろした。


明日は岸から見る。


それで話がついたらしい。


トワが俺へ向き直った。


「サエも」


「うん」


「岸で、待つ」


俺は一度、二人を見た。


イナは口元を押さえていた。


ノエは、もう笑っていた。


俺は膝へ手を置いた。


昨日まで、俺の話を聞いていた二人が、明日は舟へ乗る。


俺は岸で、戻ってくるのを待つ。


見せたいものは、確かにあった。


けれど二人はもう、自分の目で見に行く支度を始めていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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