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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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115/118

第115話 帰ってきた声

岸で、セナが手を開いた。


俺は櫂を握る指を見た。


また、力が入っていたらしい。


少し緩める。


セナが頷き、削りかけの櫂を上げた。


俺も上げかけて、やめた。


舟の上で、余計なことはしない。


片手だけ振ると、彼は笑った。


ナナも足場の端に立っていた。


俺が兄のいるほうを指すと、彼女は頷いた。紐を巻いた木を持ち上げ、何か付け加える。


ウルが吹き出した。


全部は分からなかった。


だが、兄に伝えたいことがまだあるのは分かった。


「覚える。少し」


俺が言うと、ナナは今度はゆっくり言った。


帰り道で忘れてしまいそうなほど、長かった。


*


往きには見えなかったものが、帰りには正面にあった。


木の裏側。


岸のへこみ。


水の上へ張り出した枝。


同じ道なのに、知らない場所のように見える。


櫂を動かしながら、俺は何度も岸を見た。


ウルが後ろで短く声をかける。


俺は引く手を止め、櫂を入れ直した。


舟の先が、ゆっくり戻る。


まっすぐ進むだけで、まだ忙しい。


だが今日は、曲がったあとに自分で気づくこともあった。


ウルが何も言わない。


水を飲む音がした。


岸から離れすぎていないのを確かめ、肩越しにちらりと見る。


彼は櫂を膝へ置いていた。


俺が動かしている間に。


それがうれしくて、少し強く引いた。


舟の先がずれた。


後ろから、短い声。


「分かった」


俺は力を抜いた。


褒められていなくても、勝手に調子に乗ることはできる。


*


最初の夜は、往きにも使った、人のいない岸で越した。


朝には曇っていたが、ウルは水辺を確かめてから舟を出した。


昼前、風の当たりにくい水路へ入ったところで、俺は前を見つめた。


岸の大きな根が、水へ張り出している。


その上に、片側だけ枝のない木があった。


往きには振り返って見た木だ。


「あそこ」


俺は櫂を止め、顎で示した。


「入る?」


ウルが前を見る。


それから頷いた。


俺が櫂を入れ直すより先に、舟の先が根の向こうの入り口へ向いた。


覚えていた。


木だけでは、確信が持てなかった。


張り出した根と、その脇の水の隙間。


二つ揃って、やっと分かった。


ウルが俺を指し、入口を指す。


俺は頷いた。


次に来ても、何もかも初めてではなくなる。


*


二つ目の夜は、あの男と女の岸へ寄ることができた。


倒木から離れたところでウルが声を上げると、草が動いた。


男が出てきた。


俺たちを見る。


次に、俺の顔を見た。


俺は舟の上から頷いた。


「ナナ。会った」


男の口が少し開く。


舟を寄せると、彼は先を押さえてくれた。


荷を運び、火のそばに座るまで待てなかった。


俺は両手を離した途端、木に紐を巻く真似をした。


「木。使ってた」


男はその手をじっと見た。


俺が巻いた紐を留める真似をすると、頷いた。


「ナナ、元気」


それから、覚えてきた言葉を口にする。


遅い。


返す。


長い。


順番は、たぶん違った。


男がウルを見た。


ウルがナナの言葉を足した。


男は黙って聞き、最後に頭を掻いた。


女が何か言う。


男が言い返す。


女は同じ言葉を、もう一度言った。


俺にも聞き取れた。


遅い。


ウルが笑い、俺もつられて笑った。


男は困った顔で、火の向こうへ目をそらした。


俺たちが食べ終えた器を、女が指した。


男が立ち上がり、まとめて運んでいく。


今度は、すぐ戻ってきた。


*


翌日の午後、ウルが俺から櫂を受け取った。


少し先に、見覚えのある岸があった。


そこから先は、何度も知っている場所を探した。


草の切れ目。


舟を寄せる浅いところ。


人が立てば、顔が見える距離。


まだ、誰もいない。


俺は背を伸ばしかけ、また腰を落とした。


ウルが声を上げた。


岸の奥で返事がする。


子どもの声だった。


草の間から小さな顔が出る。


一度引っ込み、今度は身体ごと飛び出してきた。


「サエ!」


俺は手を上げた。


子どもは走りかけ、岸の手前で止まった。


誰かが後ろから呼んだらしい。


ノエが来た。


歩いていたのが、途中で少し速くなる。


俺も何か言おうとした。


セナ。


貝。


岸の見えない水。


用意していた言葉が、どれも後ろへ下がった。


「戻った」


ノエが頷いた。


「うん」


声を聞いた途端、肩が落ちた。


舟を下りたら、少し座りたい。


ここまで来て、ようやくそう思えた。


*


舟を押さえてくれた男へ荷を渡す。


俺が下りると、ノエはすぐ目の前にいた。


顔を見る。


肩を見る。


片方の手を取られた。


掌を上へ向けられる。


櫂の柄が当たっていたところは、少し皮が擦れていた。


深い傷ではない。


「漕いだ」


俺が言うと、ノエはウルを見た。


彼が頷く。


短く何か言って、自分の腕を休める仕草をした。


ノエが俺へ向き直った。


口元が緩む。


そのまま、手を握った。


掌が少し痛い。


けれど、外したくなかった。


俺が一歩近づくと、彼女の額が肩に触れた。


背へ手を回す。


ノエも、俺の脇の布をつかんだ。


水の音がした。


すぐ足元で、子どもが何か言った。


俺たちは少し離れた。


子どもは腕を伸ばし、小さな櫂のような木を俺へ突き出していた。


先が平たい。


手で削った跡がある。


「舟?」


聞くと、子どもは首を振った。


木を地面へ置く。


しゃがみ、両足を広げる。


漕ぐ真似をした。


それから俺を指す。


俺もやれ、ということらしい。


「今?」


子どもが木を差し出す。


ノエが笑った。


俺は一度だけ引いてみせ、木を返した。


子どもは首を振り、もう一度やれと差し出す。


「先に、荷」


ノエが言うと、ようやく道を空けた。


*


ウルの荷を運び終え、舟を上げるのを手伝った。


礼を言うと、ウルは俺の腕を軽く叩いた。


「漕いだ。助かった」


俺は彼を見た。


今度は、笑っていなかった。


「また、頼む」


俺が返すと、彼は頷いた。


*


火のそばで、温かいものを食べた。


子どもは俺の隣に座り、膝へ小さな櫂を載せていた。


俺が食べる間にも、柄の位置を何度も直している。


ノエは向かいで、旅の話を聞いた。


倒木の岸で泊めてもらったこと。


ナナへ木を届けたこと。


返すのが遅い兄だったこと。


俺の言葉だけでは足りないところを、ウルが補ってくれた。


ノエも笑った。


それから、貝の話をした。


俺は掌を上げ、白い縁の形を指で描いた。


セナの名を言う。


水が来て、引く。


向こうの岸が見えない。


覚えたばかりの、あの音を口にした。


ノエが同じ音を返す。


俺の発音より、滑らかだった。


「知ってる?」


彼女は頷いた。


「聞いた」


俺も頷く。


「俺、まだ見てない」


そこは、伝えておきたかった。


「セナ、そこから来た。次、会う。ここ」


木の見取りを出し、新しく描いた丸を示す。


ノエは指で丸に触れた。


次に、俺を見る。


「サエ、行く?」


「行きたい」


答えてから、聞き返した。


「ノエも?」


彼女はすぐに頷いた。


俺は、少し笑ってしまった。


あの広い水辺で並んだ時と同じ顔だった。


*


寝る場所へ荷を置く時、籠が一つ、まとめてあるのに気づいた。


いつも使うものが、取りやすい順に入っている。


細い紐で留めた獣皮。


食べ物を包む葉。


子どもの小さな荷も、隣にあった。


俺はノエを見た。


「これ、行く?」


彼女が頷く。


「海?」


そう聞くと、首を振られた。


「先に、イナ」


俺の指が、籠の縁で止まった。


ノエは子どもの荷を持ち上げ、中を確かめた。


子どもはさっきの櫂を持ったまま、自分の荷の中を覗いている。


俺は籠から手を離した。


「一緒に、来る?」


「うん」


彼女は言ってから、俺を見た。


「イナと、話す」


「海のこと?」


「それも」


ノエは荷を下ろした。


少し迷うように指を動かし、それから、自分の胸へ触れる。


「私も、見たい」


俺は頷いた。


彼女が続ける。


「帰るの、待った。話、聞きたい」


彼女は俺の荷へ目をやった。


「でも、私も行きたい。前から」


俺は顔を上げた。


ノエは俺から目をそらさなかった。


籠に入れた獣皮を押さえる。


俺が話し終えるのを待って、急に詰めた荷ではなかった。


「子ども。どうする。長く、行けるか。イナも、行くか」


一つずつ、指を折る。


俺は、子どもの小さな荷を見た。


明日イナに会いに行く支度と、まだ決まっていない遠い旅。


ノエは、その両方を考えていた。


「トワ、帰った?」


尋ねると、ノエは頷いた。


イナへ知らせを持って、もう戻ったという。


俺も早く、無事に戻ったと伝えたい。


今度はその道を、ノエと子どもも歩く。


俺は籠の留め紐へ手を伸ばしかけ、彼女を見た。


「明日、歩ける?」


「うん。歩ける」


ノエが頷いた。


子どもが小さな櫂を籠へ入れた。


今度は先を下にして、上から獣皮をかぶせている。


俺は見なかったことにした。


ノエは見ていた。


獣皮を持ち上げ、櫂を抜く。


子どもが声を上げた。


彼女は櫂を子どもの手へ戻し、短く言った。


自分で持つなら。


その意味は、俺にも分かった。


子どもは両手で柄を握った。


俺はノエの籠を持ち上げ、重さを確かめた。


明日、イナに会ったら、まず何から話そう。


籠を下ろす前に、ノエが反対側の縁を持った。


二人で、入口のそばへ置いた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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