第114話 待つ水
「いつも、朝?」
俺が尋ねると、相手は土の上に置いた指を止めた。
少し考え、首を横に振る。
さっきは頷いたのに。
ウルが横から何か尋ねた。返事は長かった。俺の知らない音が続く。
分かった言葉を拾い、手の動きと合わせる。
水は向きを変える。
けれど、いつも同じ時ではない。
相手は空の太陽を指し、それから位置を少しずらした。
俺は、自分が言いかけたことを飲み込んだ。
朝は必ずこちら。夕方は必ずあちら。
そういう意味ではなかったらしい。
「……潮か」
日本語が漏れた。
ウルが俺を見る。
俺は首を振り、土の線へ目を戻した。
二本の線の間を、もう一度見る。
「そこ。近い?」
相手は今度こそ、はっきり首を振った。
*
その人は、セナと名乗った。
日に焼けた男だった。俺より若いようにも見えるが、目尻には細かな皺がある。
膝に載せた櫂を脇へ置き、俺の問いを聞いていた。
指で水路を示す。
途中で手を止め、眠る仕草をする。
また指を動かす。
俺はウルを見た。
彼も、その先は知らないと言った。セナに聞き返し、曲がるところを確かめる。
今日のうちに、少し見に行って帰る。
そんな距離ではなかった。
俺は膝へ手を置いた。
海かもしれないと聞いた途端、頭の中で岸が近づいていた。
現代でも、地図を縮めるだけなら旅は簡単だった。
「貝。そこで取る?」
ナナが持つ貝を指す。
セナが口を開いた。
その時、水辺から声が上がった。
彼はすぐに立ち上がる。
櫂を拾い、俺たちに背を向けた。
「あ」
聞きすぎたか。
ナナを見ると、彼女は落ち着いた顔で、岸へ寄ってくる舟を指した。
呼ばれたから行っただけだった。
俺の質問に、皆が一日つき合うわけではない。
*
舟には、二人乗っていた。
積んであるのは、魚の入った籠と長い木だった。
セナが浅瀬へ入り、舟を押さえる。
ウルも荷を受け取りに行った。
ナナも貝をしまって立ち上がった。俺は足元を確かめながら後を追った。
岸の男から籠を渡される。
重い。
だが、持てないほどではない。
指された平らな場所へ運び、傾かないように置いた。
戻ると、セナが俺を手招きした。
長い木を舟から下ろすらしい。
まだ削りかけで、細い枝の跡がいくつも残っていた。
舟の二人が木を持ち上げ、岸へ向けてずらす。俺とセナが、出てきた端を受け取った。
膝を少し曲げる。
木の重みが両腕へ載った。
「こっち」
セナの顎が動く。
俺も動いた。
途中で、木が止まった。
舟の男が押す。
俺の持つ端だけが、急に重くなった。
「待って」
知っている言葉で声を上げた。
全員が止まる。
俺は木を支えたまま、舟の縁を見た。
切り残した枝の根元が、縁の内側に掛かっている。
俺は顎でそこを示した。セナも気づき、舟の二人へ声をかける。
手前を下へ向ける仕草をしてみせると、セナが頷いた。
俺たちは端を支えたまま、ゆっくり木を回した。
引っかかっていたところが外れた。
「いい」
今度は、声に合わせて動いた。
木が岸へ載る。
最後まで下ろしてから、俺は手を離した。
腕の内側がじんじんしている。
セナが引っかかった跡を見て、何か言った。
舟の男が笑い、俺の肩を一度叩く。
「……腕、取れるかと思った」
日本語で返すと、ウルまで笑った。
今の言葉は、分からなかったはずだ。
たぶん、顔に出た。
セナは木を置く場所を指した。
俺も、もう一度その端を持った。
*
荷を運び終えると、ナナが水を持ってきた。
俺は両手で器を受け取った。
セナはさっき削っていた櫂を持ち上げ、運んだ木の脇へ並べる。
こちらの木からも、櫂を作るのかもしれない。
器を返す時、セナが俺の掌を見た。
赤くなったところを示し、櫂を握る真似をする。
俺は頷いた。
ウルが俺を指し、漕ぐ真似をする。
少し進め、左右へ大きく曲げた。
「そこまで曲がってないだろ」
昨日の分まで、まとめて報告されている気がした。
俺は掌を隠すように、器を両手で包み直した。
セナの口元が緩んだ。
*
木陰に腰を下ろしてから、俺は貝の話へ戻った。
セナはナナから借りた貝を、指の間で裏返した。
「俺、取った」
貝を指し、水の先を示す。
もらったものを、さらに誰かへ渡しただけではない。
この手で拾ったらしかった。
俺は前へ身を寄せた。
「水の中?」
セナは手を高く上げる。
次に、低く下げた。
土の上へ指で細かな点を打つ。石なのか、貝なのか。
その上へ掌をかぶせ、また引く。
水が来る。
水が引けば、そこへ歩いていける。
いくつか聞き返して、ようやく分かった。
俺の隣で、ウルも土を見ていた。
「その先?」
セナが顔を上げる。
俺は、ここへ来るまで見てきた岸を指した。
木の生えた向こう岸。
水路の口。
「あっちにも、岸?」
彼は俺の問いを聞き、少し目を細めた。
それから両腕を広げた。
さらに、片手を遠くへ伸ばす。
首を振った。
向こうの岸は、見えない。
俺はしばらく、何も言えなかった。
潮の満ち引き。
水に覆われ、また現れる貝のいる岸。
その先に、対岸の見えない水。
「海」
今度は、小さく言った。
セナが俺の口元を見る。
彼がさっき、広い水を示して口にした音を確かめた。
繰り返すと、一度直された。
もう一度。
セナが頷いた。
その音を、小さくもう一度繰り返した。
*
イナに話したい。
まず、そう思った。
ノエも、あの水辺で向こうを見ていた。
二人に、もっと広い水があると話せる。
今度は、どこかで聞いた噂だけではない。
そこから来た人に会った。
貝を拾った手を見た。
セナが俺の顔を覗き込んだ。
「行く?」
俺は反射的に頷きかけた。
彼は、自分の胸を指す。
次に水の先。
眠る仕草を一度する。
それからもう一度、自分を指した。
俺はウルを見る。
セナが少し長く説明した。ウルが確かめ、俺へ短く言い直す。
明日はここで仕事をする。
その次の日、天気がよければ、自分の岸へ帰る。
俺も来るのかと聞いていた。
俺は、膝に置いていた手を浮かせた。
そこまで行けば、海を見られる。
どの方角に開けているのかも、分かるかもしれない。
見知らぬ水辺で目を覚ましたあの日から、俺は自分がどこにいるのかさえ分かっていない。
もっと遠くを知りたい。
俺は水際の舟を見た。
ウルは黙っていた。
俺を急かさず、荷を結ぶ紐を手の中でまとめている。
ノエの集落を出た朝を思い出す。
押すように背へ触れた手。
トワが持ち帰ってくれる、出発したという知らせ。
イナは今頃、それを聞いただろうか。
セナが俺を待っている。
俺は彼へ向き直った。
「行きたい」
セナが頷く。
俺は続けた。
「でも、先に帰る」
来たほうを指す。
自分の胸を指し、もう一度、帰ると言った。
セナの視線が、俺からウルへ移った。
ウルが短く話す。
俺は、その全部を聞き取れなかった。
セナは少し考え、膝に載せた櫂の柄を撫でた。
惜しいことをした。
そう思った。
知らない岸へ連れていってくれる人が、目の前にいる。
次に来た時、まだ会えるとは限らない。
俺は掌を握り、開いた。
それでも、今は帰る。
*
セナが、俺を指した。
「次。いつ?」
俺は顔を上げた。
彼は水の先ではなく、この集落の地面を指す。
ここへ。
次は、いつ来るのか。
「まだ、分からない」
正直に答えた。
戻って話さなければいけない。
二人も来たがるかもしれない。舟も、案内も、これから相談することばかりだ。
セナは頷き、ナナを呼んだ。
二人が話す。
ナナが自分を指し、それから、セナの削りかけの櫂を指した。
俺はウルへ尋ねた。
何度か聞き返して、分かった。
セナは、この集落へまた来る。
次の時を今決められなくても、ナナに知らせを残せる。
彼の岸へ行くなら、いきなり舟を出さず、ここで待ち合わせればいい。
俺は、足元の土を見た。
さっきまで、今日を逃せば切れる道に見えていた。
「また、来たい」
言うと、セナは櫂を持ち上げた。
俺へ差し出す。
もらえるのかと思い、慌てて顔を見た。
彼は柄を握れと示した。
俺が持つと、柄を握る指を少し緩められた。
セナが自分の手を見せる。力いっぱい握りしめてはいない。
俺も真似する。
「次。漕ぐ」
彼が俺を指した。
連れていってもらうだけ、というわけにはいかないらしい。
俺はもう一度、櫂を引いた。
セナが笑った。
*
夕方、ウルと帰りの荷を確かめた。
交換で増えた荷を、舟のどこへ載せるか決める。
俺の座る場所も残った。
「明日」
ウルが言う。
「帰る」
俺が答えると、彼は頷いた。
木の見取りを出した。
来た集落の丸を、ようやく描き足す。
そこから先へは、線を引かなかった。
まだ通っていない。
描いた丸を、指で一度押さえた。
ここまでなら、ウルと来られる。
ここから先を知っている人とも、会えた。
「セナ」
忘れないように口にすると、水際から声が返った。
本人がこちらを見ていた。
俺は手を上げる。
彼も、削っていた櫂を少し上げた。
俺は見取りを荷へ戻し、舟の脇の櫂を取った。
指を、少し緩める。
明日は帰る。
二人に話すことがある。帰りの舟で、覚えることもできた。
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