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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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113/119

第113話 待っていた手

翌朝、ウルは俺より先に水辺へ行っていた。


戻ってくると、濡れた足を草で拭き、俺の荷を見た。


「行く」


俺は頷いて立ち上がった。


寝かせてもらった男と女に礼を言う。


男はウルの荷を指した。


二つの切れ込みがある木は、その内側に入っている。


ウルが取り出して見せると、男は頷いた。


そのまま何か言い、俺を見る。


「サエ」


名前を呼ばれた。


俺も男を見た。


彼は木を指し、次に水の先を指した。


「うん。届ける」


知っている言い方で返すと、男の肩から少し力が抜けた。


俺はウルに、届け先の妹の名を確かめた。


「ナナ」


聞いた音を繰り返す。


男が頷いた。


今度は、会う人の名を知ってから出発できた。


*


風は弱くなっていた。


ウルは倒木のある岸を大きく避け、舟を進めた。


枝に近づかず、水草の切れたところを通る。


俺は途中で一度、後ろを見た。


草の奥にいた二人は、もう見えない。


煙だけが、木の上へ細く伸びていた。


帰りに寄れたら、ナナに会えたと話したい。


そう思いながら、前へ向き直った。


その日は、櫂を二度借りた。


一度目は昨日と同じように、舟が曲がった。


二度目は、ウルが止めるまで、少し長く進めた。


腕が熱い。


掌も熱い。


「もっと?」


俺が聞くと、ウルは首を振り、自分の腕を曲げた。


それから明日の太陽を示す。


明日も使う腕だということらしい。


俺は櫂を返した。


昨日より長く漕げた。ウルも、その間は腕を休めていた。


掌を開くと、櫂の柄が当たっていたところだけ赤い。


明日も働いてもらう手だ。俺は膝に載せ、指をゆっくり伸ばした。


*


二つ目の夜は、ウルの知っている岸で越した。


舟を上げた跡が、土に何本も残っていた。


火を使った場所もある。


今日は誰もいなかったが、ウルは迷わず荷を運んだ。


俺も後を追い、先に獣皮を広げた。


寝る前に木の見取りを出す。


ウルが昨日の岸を指し、今日の岸へ指を動かした。


俺は二つを結んだ。


細かい曲がりは覚えきれない。


だから、忘れたところは聞いた。


ウルもすぐに答えられない時は、火を見ながら考えた。


少し直す。


また直す。


やがて俺は枝を置いた。


ウルがその先の空いたところを指す。


「明日」


俺は頷いた。


まだ何も描いていない場所を指で押さえる。


明日、ここへ集落の丸を描ける。


*


朝、舟へ戻ると、浅いところで小さな魚が逃げた。


俺が見ていると、ウルは先に乗るよう示した。


縁へ座り、足を入れる。


腰を下ろす。


ウルが後ろへ乗るまで、舟の中央から動かなかった。


彼が櫂を手に取る。


「いい」


それだけ言った。


俺は、少し背を伸ばした。


褒められると、やはりうれしい。


人の声が聞こえたのは、太陽が高くなる前だった。


水際に、木を組んだ低い足場がある。


舟が二艘、岸へ引き上げられていた。


一人が俺たちに気づき、立ち上がる。


ウルが声をかけた。


返事が来る。


男が足場の端へ移り、俺たちを待った。


舟を寄せると、手を伸ばして押さえてくれる。


先に荷を男へ渡し、舟が揺れなくなってから下りた。


男が木の見取りを留めた紐を見た。


板を覗き込み、眉を上げる。


「サエ」


俺は自分を指した。


男も名を返す。


次に俺の板を指した。


板について聞かれたらしい。


ウルが横で笑った。


俺は板を広げた。


「ここ。来た」


歩いた道と、水路を順にたどる。


男は俺の顔を見て、それから舟を見た。


今度は、伝わったらしかった。


*


集落は、水際から少し上がったところにあった。


家々の間に、魚を干す場所がある。


どこかで石を打つ音がした。


俺を見て足を止める人もいたが、ウルを見つけると声をかけた。


俺は彼の後ろを歩いた。


ウルに返事をした人が、俺にも顎を上げてみせた。


俺も真似して返す。


ウルが荷を下ろす場所を示す。


俺も隣へ置いた。


肩が軽くなる。


遠くへ来た。


木の上では、指を少し動かすだけの距離だった。


実際には、腕が疲れ、二度眠り、見知らぬ火のそばで魚を食べた。


俺は荷の脇に留まった見取りを見た。


ここへ、新しい丸を描ける。


*


ウルは交換する荷を確かめてから、人に何か尋ねた。


ナナの名が聞こえる。


俺も顔を上げた。


男が家の向こうを指す。


しばらくして、一人の女が来た。


片手に細い紐を持っている。


ウルへ声をかけ、それから俺を見た。


俺は自分の胸を指しかけ、手を下ろした。


まず、確かめる。


「ナナ?」


女が頷いた。


ウルが荷から、あの木を取り出した。


ナナの手が止まった。


木を見る。


結ばれた紐を見た。


ゆっくり近づき、掌を差し出す。


ウルが渡した。


ナナは、二つの切れ込みを指でなぞった。


裏返す。


もう一度、表に戻す。


それからウルの顔を見て、短く尋ねた。


兄の名らしい音が出た。


ウルが答える。


ナナは続けて尋ねた。


さっきより、少し速い。


俺には追いつけなかった。


分かったのは、元気かという問いだった。


俺はウルを見た。


彼が頷く。


俺もナナへ向き直った。


「元気。俺たち、泊まった。魚、もらった」


ナナの目が俺へ移る。


俺は、岸へ寄せてもらったことを手で示した。


男が草を押し分け、舟の先を取ってくれたこと。


二人分の寝る場所を空けてくれたこと。


途中、ウルが言葉を足した。


ナナは、最後まで聞いていた。


やがて木を胸の近くへ持ち上げ、息を吐いた。


口元が少し緩む。


俺も肩の力が抜けた。


届けられた。


*


ナナは俺たちに待つように言い、家へ戻った。


ウルが荷を動かし始める。


俺は木が見えなくなったほうを見ていた。


二つの切れ込み。


何かを数える印なのだろうか。


ウルへ尋ねる前に、ナナが戻ってきた。


手には細い紐の束がある。


地面へ座り、木に紐を巻き始めた。


一つ目の切れ込みへ端を掛ける。


何度か巻き、もう一方で留める。


手が速い。


俺は思わず近づいた。


ナナが顔を上げる。


「これ。使う?」


聞くと、彼女は頷き、巻いた紐を少しほどいて見せた。


紐を巻いておく道具だった。


二つの切れ込みに、深い意味を探していた俺は黙った。


今、片方には紐の端がきちんと収まっている。


ナナは木を持つ手で、紐を掛け直した。


それから、木の端の小さな傷を見せる。


兄の名を言った。


木を貸したことと、ようやく戻ってきたことは、ウルに助けてもらって分かった。


「借りた。長い?」


俺が聞くと、ナナはウルへ何か言った。


ウルが笑い出した。


ナナも、困ったように笑う。


「返す。遅い?」


ナナはすぐに頷いた。


そこは、聞き間違えなかったらしい。


*


木は紐を巻かれ、ナナの膝に収まった。


すぐに仕事へ戻る。


だが時々、彼女の親指が端の傷をなぞっていた。


俺はそれを見て、胸元の貝へ触れた。


イナがこれを渡した時の、指の感触を思い出した。


ナナが俺の指先を見た。


灰色の貝を見る。


何か尋ねられた。


「もらった」


俺が答えると、彼女は頷いた。


それから、自分の荷物へ手を伸ばす。


掌に載せたのは、俺のものよりずっと大きな貝だった。


形が違う。


縁に、白い筋が幾重にも重なっている。


俺は手を伸ばしかけ、ナナを見る。


彼女が渡した。


思ったより重い。


指の腹で、縁をそっとなぞった。


子どもの頃、海辺で拾った貝を思い出した。


「どこ?」


俺は尋ねた。


ナナは水辺のほうを指した。


「ここ?」


彼女は首を振る。


ウルへ何か話す。


ウルは頷いたが、俺が先を尋ねると、自分もそこまでは行っていないと答えた。


貝は、さらに別のところから来た人に、ナナがもらったものらしい。


海のものだろうか。


掌で裏返してみる。見覚えはあっても、種類までは分からなかった。


でも、これを運んできた人なら、拾った岸を知っているかもしれない。


俺は貝を返した。


「その人。ここ、いる?」


ナナは俺を見た。


それから、家々の向こうへ目をやる。


「いる」


俺は立ち上がりかけ、ウルを見た。


彼は帰りの荷を指し、それから空を示した。


「明日。帰る」


「うん。帰る」


舟を替えて、勝手に先へ行くつもりはなかった。


ナナの後について水際へ下りる。ウルも隣を歩いてきた。


そこでは、一人が長い木を膝に載せ、削っていた。


櫂だ。


ウルのものより、先が細く長い。削り屑が足元に薄く溜まっている。


ナナが声をかけた。


削る手が止まる。


彼女は貝を見せ、俺を指した。


俺は、その人の目を見た。


「これ。どこから?」


相手は貝を見て、水の先へ手を伸ばした。


いくつか続いた言葉を、ウルに助けてもらいながら聞く。


自分のいた岸から持ってきたものだという。


俺はウルの舟を指した。


「あの舟で、行ける?」


相手は舟を眺めた。


次に、岸の湿った土へ指を入れた。


線を一本引く。


その隣に、もう一本。


二本の間へ指を置き、俺を見る。


「朝。水、こっち」


指が動く。


少し間を置いて、同じ指が逆へ戻った。


「あと。こっち」


俺は二本の線を見つめた。


風が変わる、という話ではなさそうだった。


水そのものが、行って、戻る。


「毎日?」


相手が頷いた。


俺はしゃがんだ。聞きたいことが、一度に増えた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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