第112話 水の上にも道がある
舟は、二本の棒の外側を通った。
間に張られた紐が、水の中へ消えている。
誰かの魚を捕る仕掛けだと、ウルは言った。
俺は振り返った。
細い棒だけが、水面から出ている。
知らなければ、そこを通っていたかもしれない。
ウルが櫂を引く。
舟の先が、少し向きを変えた。
「ここ。道?」
俺が尋ねると、ウルは舟の先を見た。
それから、二本の棒を指す。
「ここ。通らない」
「うん。通らない」
俺は頷いた。
水の上には線がない。
だが、どこでも同じように進めるわけではなかった。
*
岸は遠すぎず、近すぎなかった。
ウルは時々、木の形や草の切れ目を見た。
俺も同じものを見る。
大きく曲がった木。
その先に、白い幹。
さらに、枝の少ない木が二本。
覚えられそうだと思った。
少し進むと、白い幹がもう一本あった。
曲がった木もあった。
「同じ」
俺が言うと、ウルは首を振った。
手前の木と、その後ろを交互に指す。
二本の幹が重なって見え、進むにつれて離れていく。
その間から、小さな水路が現れた。
ウルはそちらへ向かわず、水路の入口を確かめてから先へ進んだ。
俺は二本の木を振り返った。
さっきまで一本に見えたものが、今は離れている。
木一本だけを覚えようとしていた。
ウルが見ていたのは、その向こうまで含めた景色だった。
俺は膝に置いた手で、二本の指を立てた。
間を広げる。
ウルがそれを見て、短く頷いた。
*
しばらくすると、ウルは櫂の動きを止めた。
舟は少し進み、そのままゆっくり向きを変えた。
「サエ」
俺が振り返ると、彼は櫂を差し出した。
一瞬、意味が分からなかった。
「俺?」
頷く。
周りを見た。
水。
岸は、さっきより近い。
風も弱い。
ウルは俺が手を伸ばすのを待っていた。
受け取る。
木の感触が、手に重かった。
彼は持つ位置を示し、自分の腕で水をかく真似をした。
俺もやってみる。
櫂の先が水へ入った。
引く。
舟が進む前に、俺の身体が後ろへ引かれた。
慌てて力を抜く。
水が膝に跳ねた。
またか。
ウルが俺の手を指した。
手の間を、もう少し広げる。
今度は、水に入れる深さを示した。
浅く。
俺はやり直した。
櫂を入れる。
引く。
舟が動いた。
少しだけ。
「進んだ」
日本語で言うと、ウルが俺の顔を見た。
俺は前を指す。
「行く」
彼が笑った。
*
三度目で、舟は岸のほうへ向いた。
俺が反対側をかこうとすると、ウルが声をかけた。
櫂を止める。
彼は舟の底へ手をつき、身体を少し動かした。
俺の手から櫂を受け取り、ゆっくり水へ入れる。
向きが戻る。
「終わり?」
俺が聞くと、ウルは俺の掌を示した。
赤くなっている。
「まだ」
そう言って、自分の手を見せた。
俺より、ずっと硬そうだった。
俺は自分の掌を見る。
今日だけで同じにはならない。
けれど、さっき舟が少し進んだ感触は、手の中に残っていた。
*
昼近く、ウルは岸へ舟を寄せた。
大きな木の下に、平らな土がある。
舟を下り、持ってきたものを食べる。
食べ終わると、ウルは小さな器で舟の底に溜まった水をすくい出した。
俺も器を受け取り、残りを捨てる。
舟へ戻る時、濡れたところを踏まずに済んだ。
*
午後、風が変わった。
最初は頬に当たるだけだった。
やがて水の上を細かい波が走り、舟の横に触れる音が増えた。
ウルは岸へ目を向けた。
櫂を動かす回数が多くなる。
俺は荷を押さえた。
カヅにもらった紐は、木片ごと荷に収まっている。
一度引いて確かめる。
緩んでいなかった。
ウルが俺に何か言った。
聞き取れたのは、待つという音だけだった。
俺は頷き、余計に身体を動かさないようにした。
舟が岬のように突き出た岸へ近づく。
その先を回った時、ウルが櫂を止めた。
俺も前を見た。
倒れた木が、水際にあった。
根元の土が崩れ、枝が水へ広がっている。
ウルは岸を見比べ、短く息を吐いた。
「ここ。休む」
そう言って、倒木を指す。
今日、舟を寄せるつもりだった場所らしい。
*
ウルはすぐに岸へ近づかなかった。
少し離れたところで舟の向きを変え、枝の先を見る。
俺にも、細い枝が水面の下まで伸びているのが見えた。
舟の底に引っかかるかもしれない。
「向こう?」
倒木の反対側を示す。
ウルはそちらを見た。
岸まで水草が続いている。
その奥は、こちらから見えない。
俺は荷の上に手を置いた。
見取りに、休める岸の印をつけていた。
木を取り出しかけ、やめた。
ここで線を見ても、倒れた木は動かない。
ウルが舟を少し戻した。
岸に沿って、来た方向へ進む。
水面に、細い枝が流れてきた。
先の葉だけが見える。
その下には、もっと太い部分が沈んでいた。
「ウル。枝」
俺が指すと、ウルは櫂を止めた。
舟の向きを変え、流れてくる枝をやり過ごす。
枝は、さっき俺の膝があった辺りを通った。
ウルが俺を見て、短く頷いた。
俺は背後を見た。
草の間に、細い煙が上がっていた。
「ウル。あそこ」
彼は櫂を止め、俺の指すほうを見る。
煙は木々の低いところから出ていた。
水の上を流れる白い靄とは違い、細く上へ伸びている。
ウルが短く声を上げる。
しばらくして、向こうから声が返った。
*
草の向こうから、男が一人現れた。
ウルが何か尋ねる。
男は倒れた木のほうを見て、首を振った。
それから、俺たちより少し手前を指した。
草が水面へ垂れ、その下が暗くなっている。
岸には見えなかった。
ウルが櫂を入れる。
草に近づくと、男が長い枝で葉を押し分けた。
その奥に、舟を寄せられる幅の水があった。
俺は身体を低くした。
草が頭の上をこすり、舟が静かな水へ入る。
風の音が遠くなった。
土が見える。
男は岸へ立ち、ウルから舟の先を受け取った。
俺は言われた順番で下り、荷を渡す。
ウルと男が舟を岸へ寄せる間、俺は籠を押さえていた。
ようやく、舟が動かなくなった。
ウルが男に何か言う。
それから俺を見た。
「サエ。見た」
煙のことだ。
「うん」
俺は、草の間を振り返った。
煙に気づかなければ、二人で別の岸を探していたかもしれない。
男がいて、舟を寄せる場所を教えてくれた。
ウルは荷を肩へ掛け、男の後について歩き出した。
*
火は、草から少し離れた土の上にあった。
枝の上で、小さな魚が焼かれている。
もう一人、年上の女が火のそばに座っていた。
俺たちを見て、立ち上がる。
ウルが声をかけ、男が倒木のことを話した。
女は頷き、俺のほうを見る。
俺は自分を指した。
「サエ」
女は同じ音を返した。
俺の荷と、胸元の貝に目を留める。
少し間を置き、火のそばの地面を示した。
座る場所らしい。
「ありがとう」
俺が言うと、女は俺の言葉を真似た。
発音が少し違う。
俺も、ここへ来たばかりの頃は、たぶん同じ顔をしていた。
女は焼けた魚を裏返した。
一本が枝から落ちかける。
俺が手を伸ばす前に、彼女がつまみ上げた。
熱くないのか。
俺が指を見ると、女は笑って、魚を葉の上へ置いた。
*
火があり、座る場所もあった。
けれど、俺たちはまだ、今夜ここに泊まっていいとは聞いていない。
ウルが、寝床を示す仕草をした。
男と女が話す。
俺は火のそばで待った。
やがて女が立ち、少し離れた屋根の下を見せてくれた。
草の上に、二人分ほどの場所がある。
ウルが俺を見る。
「ここ。休む」
「うん」
火のそばへ戻ると、女が葉に載せた魚を二人の前に置いた。
ウルが礼を言う。
俺も同じ言葉を返した。
魚の身は温かく、指で割ると湯気が上がった。
俺は荷を置いた。
イナがつけてくれた紐は、まだ木の見取りを留めている。
外して、膝へ載せた。
今日、水の上で見た二本の棒。
倒れた木と、草の奥にある舟着き場。
どこから描き足せばいいだろう。
ウルが隣へ来た。
俺の木を見てから、火のほうを向く。
「明日。水、見る」
風と、倒れた木の様子を確かめてから出るらしい。
俺は頷き、木をまた荷へ収めた。
今夜は、新しい線を急いで増やさなくていい。
*
暗くなるころ、男が岸のほうから戻ってきた。
手に、何か持っている。
平たい木だった。
濡れた表面に、細い紐が結ばれている。
彼はそれをウルへ見せた。
ウルが顔を上げる。
短く話すと、今度は俺のほうへ木を向けた。
片側に、二つの切れ込みがある。
俺は、自分の荷に留めた見取りを思い出した。
男は木を裏返し、水の先を指した。
ウルが俺へ言う。
「向こう。人、待つ」
男は自分の胸に手を当て、それから先を指した。
知っている音が一つ出た。
「妹?」
俺が尋ねると、男は頷いた。
ウルにも確かめる。
男の妹が、先の集落にいる。
この木を、彼女へ届けたいらしい。
いつ会ったのかを聞くと、男は指を折り、途中でやめた。
最後に両手を広げる。
長く会っていないことだけは分かった。
俺は、男の手を見た。
そこにも、人が誰かに渡したいものがあった。
二つの切れ込みが、妹に何を伝えるのか。
俺にはまだ分からない。
男は木から手を離す前に、紐をもう一度結び直した。
ウルはその結び目を確かめ、受け取った。
先の集落には、この木を待っている人がいる。
お読みいただき、ありがとうございます。




