第111話 舟に空いた場所
「サエ。行く」
トワにそう言った時、まだ荷は何もまとめていなかった。
ウルに返事をするまで、あと四つ夜。
俺とイナは、翌朝、トワと元の集落へ戻るつもりだった。
帰ったあと、行くことを話す。
それから、ウルが来る日に間に合うように、もう一度こちらへ歩く。
トワは俺の指を見ながら、日を数え直した。
「一緒。戻る」
まずは元の集落まで、ということだった。
「その後。俺、ここ、来る」
舟に乗るために、一人でまた歩くつもりだと伝える。
トワはすぐには頷かなかった。
俺の顔と、森のほうを交互に見る。
それから、自分の荷を指した。
「俺も、行く」
「舟?」
彼は首を振った。
この集落へ用がある。戻った翌朝なら、一緒に歩けるという。
俺はもう一度、指を折った。
ウルが来る前に、こちらで一晩休める。
「ありがとう」
トワは俺の荷を見た。
「まだ。ない」
「……今から作る」
言いながら、俺も荷を見た。
まず、何を持っていけばいいのか。
そこからだった。
*
翌日、元の集落へ着くと、俺はトワと一緒に、ウルの話をした。
水の上に休める岸があること。
二つ夜を越した先に、人の暮らす場所があること。
そこから向こうは、ウルも自分の目では見ていないこと。
俺が話しきれないところは、トワが補った。
イナは近くに座り、俺が日を間違えた時に指を折って見せた。
行きに二つ。向こうで一つ。帰りに二つ。
風が悪ければ、それより長くなる。
カヅが、ウルの舟について尋ねた。
俺は前に乗った舟の長さを、腕を伸ばして示した。
トワがその横に立ち、もう少し先を指す。
俺が思っていたより長かった。
「大きい」
言い直すと、近くにいたオキが笑った。
「サエ。小さく、座る」
トワが何か話したらしい。
どこまで広がっているんだ、あの話は。
*
カヅは笑わなかった。
俺が描いた木の見取りと、トワを交互に見ている。
「サエ。一人、行く?」
「ウルと。舟」
俺が答えると、彼は頷いた。
しばらく考え、自分の持っていた紐を見せた。
端に、小さな木片が結んである。
引くと締まる。濡れた指でも、木片をつまめば緩められた。
俺も試した。
濡れていない指でも、木片をつまむほうが簡単だった。
「舟。荷」
彼は、荷が動かないようにする仕草をした。
俺が水へ落としそうだと思われているのか。
そう聞こうとしたが、前に乗った時の自分を思い出した。
聞かなくてもよかった。
カヅは紐を俺へ渡した。
俺は受け取り、自分の荷に使うことにした。
*
話が終わると、オキが俺のそばへ来た。
細い骨の道具を使う仕草をする。
ノエの集落にいる、あの男だ。
「オキ。行く?」
俺が尋ねると、彼は首を振った。
今は仕事がある。道具を見るのは、もう少し後になるという。
それから、俺の木の見取りを覗いた。
「サエ。先、見る」
「うん」
オキは自分の目を指し、俺の胸をたたいた。
戻ったら話せ、ということらしい。
「話す」
俺が答えると、彼は頷き、干してあった魚のほうへ歩いていった。
一つ持ち上げ、こちらを振り返る。
俺も立ち上がる。
「それ、俺の?」
オキは魚を戻し、笑いながら逃げた。
まだ自分の分かどうかも確かめていなかった。
だが、今のうちに聞いておいてよかった。
*
夕方、俺は荷を広げた。
一人分の場所しかない。
何もかも持っていくわけにはいかない。
獣皮、食べ物、水を入れるもの。
ウルと会ってから、舟に載せられるか確かめるつもりで、まず必要そうなものを並べた。
カヅにもらった紐を荷に回す。
木片を外側に出し、引く。
さっきよりうまく締まった。
イナが来て、その結び目を見た。
触れてから、俺を見る。
「カヅ。くれた」
そう言うと、彼女は頷いた。
それから、自分の手に持っていたものを置く。
細い紐だった。
端に、小さく削られた木の留め具がついている。
「何?」
イナは木の見取りを荷の脇に当て、紐で留めた。
荷を持ち上げる。
板が外れない。
「水。落ちない」
彼女は留め具に指をかけ、今度は木を外した。
もう一度、俺がやってみる。
外して、戻す。
舟に載せる時は、ウルにも確かめてもらおう。
「いい」
イナは短く頷いた。
*
火のそばへ戻ると、イナは俺の隣に座った。
白い貝が、火の光を受けている。
俺は自分の胸元を押さえた。
彼女にもらった灰色の貝があった。
しばらくして、イナが聞いた。
「サエ。遠い、行く」
問いの形ではなかった。
「行きたい。ウル、会う。言う」
四つ目の夜が明け、ウルと会えたら返事をする。
そう伝えると、イナは火を見た。
「サエ。前、来た」
イナが森を指す。
最初に見つかった場所だ。
「帰る、探す?」
俺は息を止めた。
俺が遠くへ行きたがることを、彼女は前から見ていた。
どこから来たのか、すべてを伝えられたわけではない。
それでも、探している場所があることは、知っている。
「探す」
俺は答えた。
「まだ、分からない。ここ、どこ。帰る、道」
イナは俺を見た。
火が、彼女の瞳に映っている。
「見つかる。サエ、行く?」
俺は答えられなかった。
家の鍵は、まだ荷の中にある。
向こうには、会いたい人たちがいる。
ここには、イナがいる。ノエがいる。トワも、俺を呼ぶ人たちもいる。
帰る道を見つけたら、どうするのか。
まだ、そこまで決められない。
「分からない」
イナの顔を見て言った。
「でも。イナ、好き」
イナの指が、白い貝に触れた。
俺は言葉を足した。
「ノエも。話す」
遠くへ行く前に、二人に伝える。
ウルが来たら、乗りたいと答えることも。
まだ分からないことがあるまま、探しに行きたいことも。
イナは、しばらく黙っていた。
やがて、俺の手の上に指を置いた。
「サエ。今、ここ」
俺は頷いた。
「今、ここ」
イナの手を握る。
彼女は少しだけ近づき、俺の肩に額を預けた。
俺たちは、そのまま火を見ていた。
*
翌朝、イナは荷を背負うところまで見送ってくれた。
彼女は今回は残る。
ウルに返事をしたら、ノエたちを通じて知らせることにした。
俺が紐を肩へ掛けると、イナは横へ回った。
木の見取りが荷に留まっているか、確かめる。
「落ちない」
「うん」
彼女は俺の胸元に手を伸ばした。
灰色の貝が、服の襟に挟まっていた。
そっと外し、表へ出す。
「戻る時。これ」
「持ってる」
そう答えると、イナは指先で貝を一度押した。
トワが少し先で待っていた。
俺はイナの手を取った。
彼女も握り返す。
「戻る」
「待つ」
手を離し、歩き出す。
振り返ると、イナはまだそこにいた。
俺が手を上げると、彼女も上げた。
*
ノエの集落へ着いたのは、その日の夕方だった。
ウルが来る予定の日まで、あと一晩。
俺は、そう思っていた。
ノエは俺の顔を見ると、先に荷へ目をやった。
木の見取りを留めた紐に気づく。
「イナ?」
「うん。イナ、くれた」
俺は荷を下ろし、木を取り出して見せた。
ノエは留め具を指で動かし、元へ戻した。
「落ちない?」
「たぶん」
彼女が俺を見る。
「たぶん?」
「ウルにも、聞く」
ノエは笑い、木を俺へ返した。
*
翌日、ウルは来なかった。
朝から風が強く、水辺へ行っていたナギも早く戻った。
ノエが、俺の顔を見る。
俺は空を見上げた。
ウルは四つ夜を越して来るつもりだと言った。
俺は、話をした日の夜を指で折った。
集落へ戻った夜。こちらへ歩いてきた夜。
三つ。
四つ目の夜は、今晩だった。
トワに指で確かめると、彼は四本目を折らずに残した。
「明日」
ノエが言う。
子どもが俺の隣で指を四本立て、一本ずつ折った。
最後の一本を残す。
それから、俺の顔を見た。
「……分かった」
子どもが笑った。
子どもは、俺の指を見て満足そうに頷いた。
*
四つ目の夜が明けた。
風は、前の日より弱かった。
水辺から声が聞こえた時、俺はもう荷を持っていた。
ナギとトワが先に歩き、ノエも子どもと一緒に来る。
木々の間から舟が見えた。
ウルだった。
彼は舟を岸へ寄せ、俺を見る。
俺の荷を見た。
「サエ」
俺は近づいた。
胸の中で、昨日まで何度も繰り返した言葉を、もう一度並べる。
指を一本立てる。
「俺。ウルと、行きたい」
ウルは俺の顔を見た。
荷を見る。
それから舟の中を示した。
籠が二つ、並んでいる。
その間に、人が一人座れるだけの場所があった。
「今日。風、いい」
ウルが言った。
俺は水面を見た。
小さな波が、岸へ寄せている。
出るのは、今日だった。
*
俺はノエへ向き直った。
昨日までに、行きたいと話してある。
イナにも、元の集落を出る前に伝えた。
トワは自分の用が済んだら元の集落へ戻り、イナに出発を伝えてくれるという。
俺は礼を言った。
ノエは俺の荷の紐を持ち上げた。
イナがつけてくれた木の留め具を見る。
「落ちない?」
「ウルに、聞く」
俺が答えると、彼女は少し笑った。
それから、俺の手を取った。
「サエ。行く」
「うん」
「戻る」
「戻る」
ノエは握った手を、自分の胸の近くへ引いた。
俺も一歩寄る。
彼女が顔を上げた。
俺は近づき、途中で止まった。
ノエが、残った距離を埋めた。
唇が短く触れる。
離れると、彼女は俺の肩を押した。
舟のほうへ。
子どもが自分も手を出す。
俺は握り、小さく上下に振った。
子どもは手を離し、俺に向かって両手を振った。
*
ウルが荷を受け取り、舟に置く場所を示した。
見取りの紐も見てもらう。
彼は留め具を確かめ、荷の内側へ収めてから頷いた。
トワが舟を押さえてくれる。
俺は縁に座り、片足ずつ入れた。
前より、少しだけ揺れなかった。
トワが俺の膝を見る。
俺は言われる前に、舟の真ん中へ腰を収めた。
彼は少し笑い、舟から手を離した。
ウルが後ろに乗る。
トワが舟を押す。
岸が離れた。
俺は振り返った。
ノエが子どもの手を握り、トワの隣に立っている。
彼女が手を上げた。
俺は姿勢を変えず、片手だけ上げた。
*
草の曲がり角を抜けると、この前と同じように風が来た。
広い水面が、朝の光を返している。
あの時は、ここで引き返した。
今日は、その先へ進む。
ウルが櫂を入れる。
舟の先が、俺の木に描いていない水へ向いた。
少し先の水面に、細い木の棒が二本立っていた。
ウルは舟の向きを変え、その外側を通る。
棒の間に、紐が見えた。
水の下へ続いている。
ウルが何か言い、魚を捕る仕草をした。
誰かの仕掛けが、この下にあるらしい。
俺は通り過ぎた棒を振り返った。
水の上にも、人の使う場所がある。
手を伸ばしても、もう岸には届かなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。




